第2章 羊たちと歌

15:羊飼いの仕事1(初めての雪)

 ある朝。ニースが肌寒さを感じて目を覚ますと、いつもより空気がしんとしているようだった。まだ眠い目をこすりながら起き上がると、カーテンの隙間から、何かがちらりと動いて見えた。


 ――なんだろう?


 ニースは肩をさすりながらカーテンを開け、歓声を上げた。


「わぁ! 真っ白だ!」


 動いて見えたのは、丸いほわほわとした綿雪だった。ニースが初めて見る雪は、見慣れた山や森を白く染めていた。


 ――もしかして、お山の帽子になる雪って、これのことなのかな? 羊の毛みたいに柔らかそうだけど、ずっと白い。


 アートル大陸は、ほぼ中央に国境線があり、大陸北部がアマービレ王国、大陸南部がアニマート共和国となっている。ニースの生まれた伯爵領は王国南部に位置し、温暖な気候のアニマート共和国に近く、冬でも雪が降る事は滅多になかった。そのためニースは、クフロトラブラで初めて雪を目にしたのだ。

 窓越しに見える雄大なラース山脈は白く覆われ、家の庭のように広がる牧場は、分厚い雪の絨毯で覆われていた。綿雪は白化粧をした木々を彩るように、ふわふわと風に乗って舞い踊る。顔を出したばかりの日の光を浴びて、雪はキラキラと輝いた。


「綺麗だなぁ……」


 感嘆の声と共に漏れ出たニースの息は、ガラス窓に当たって、じんわりと広がる。ほのかな熱は、もやのように白い膜を形作ると、すぐにふわりと消えてしまった。


「ふふ。面白い!」


 決して透明度が高いとはいえない粗末なガラスでも、ニースの吐息の熱と冬の冷気との間で白く曇る様は、ニースにはいつもと違う、特別なものに感じられた。



 ニースは、マーサに編んでもらった羊毛のセーターや靴下などで、いつもより念入りに暖かく体を包みこんだ。

 着替えを終えたニースが一階へ降りると、暖炉とかまどには、すでに火が付いていた。


 ――おじいちゃん、もう起きてたんだ。


 じんわりと暖かな空気の中、ニースは台所へ向かい、顔を洗おうと水道の蛇口をひねった。しかし、どうしたことか水が出なかった。疑問に思って首をかしげていると、羊舎と家を繋ぐ小道の雪かきを終えたマシューが、裏口の扉を開けて入ってきた。


「ああ、すまんすまん。水が出なかったか。元栓を開けるから、ちょっと待ってくれんか」

「もとせん……?」


 ニースは聞いた事のない言葉を不思議に思ったが、言われた通りに待った。マシューは頭や肩に積もった雪を、土間どまで払い始めた。


 土間は、靴に付いた土や泥を落とすため、玄関や裏口に設けられている石床の小さな空間だ。この世界の家々には必ず土間があり、外の汚れを屋内に持ち込まないようにする習慣があった。


 ニースは興味深げに、マシューが払った雪を見つめた。


 ――雪って柔らかそうに見えたけど……なんかちょっと違う? あ! お水に変わってく……!


 外で雪と遊んできたのだろう、牧羊犬のシェリーが、マシューの後ろから家へ入ってきた。土間で身体をぶるりと震わせるが、シェリーの長い毛には、毛玉のように雪がこびりつき、ほとんど取れなかった。

 ニースは、くすりと笑い、問いかけた。


「おじいちゃん。これが雪なんだよね?」

「そうだ。雪はとけると水になるんだがな。押し付けると固くもなるんだ」

「水になるけど、固くなるの?」

「ああ。あとで教えてやるからな。まずは水を出そう」

「うん」


 マシューは、シェリーについた大きな雪の塊を取ると、湿ったシェリーの体を布で軽く拭いた。そして、自分の靴の雪を降ろす前に、もう一度外に出た。

 マシューは裏口のそばでしゃがみ込み、何やらごそごそと動くと、家に入り靴の雪を落とした。


「もう大丈夫だ。水を出してごらん」


 マシューに言われてニースが蛇口をひねると、少ししてから水が出てきた。


「出てきたよ、おじいちゃん!」

「はは。そうだな。しっかり洗うといい」

「うん!」


 出てきた水はひんやり冷たかったが、凍えるほどの冷たさではなかった。ニースは微笑みを浮かべ、顔を洗った。

 マシューが家に入るのを見ると、シェリーはとてとてと暖炉の前へ歩いて行った。ニースは歩くシェリーを横目に顔を拭い、問いかけた。


「おじいちゃん。どうしてさっき、水が出なかったの?」

「ああ、そうか。お前さんは知らんのか。確かに元の家では必要なかったかもしれんなぁ」


 マシューは竃の火に薪をくべると、手を温めながら質問に答えた。


「ニースは、寒いところだと水がどうなるか知っているか?」

「うん。確か氷になるって、先生が言ってたと思う」


 ニースは、家庭教師から知識としては教えられていたものの、実物の氷を見たことはなかった。

 ニースの暮らした伯爵家には、冷蔵庫はあったが冷凍庫はなかった。冷蔵庫は、周囲の空気を冷やす氷石こおりのいしと雷石を利用して動く古代文明の発掘品だ。氷石は出力を上げれば物を凍らせる事も出来るが、伯爵家では冷蔵庫として使われていたため、氷は出来なかった。

 伯爵家の冬の庭では、雪こそ降らないものの、霜が降りたり、薄っすらと池に氷が張る日もあった。しかし朝日を浴びればすぐに消えてしまうため、幼いニースが目にする機会はなかったのだ。


 ニースの返事を聞いて、マシューは微笑んだ。


「その通りだ。ここいらでは冬になると、水が凍って氷になるんだ。地下にある水は凍らないが、こういう蛇口のあたりに来ている水はみんな凍っちまう。蛇口の中の水が凍ると、どうなると思う?」

「んー。水が出なくなっちゃうのかな。氷って確か硬いって聞いたから」

「知らないのに、よく分かったな。当たりだ」


 マシューは竃から離れ、蛇口をひねり水を出すと、石鹸で念入りに手を洗った。布で手を拭うと、朝食の支度をしながら話を続けた。


「でもな、水が出ないだけならまだいい方だ。凍った水を温めて溶かせばまた出るようになるからな。だが、水は凍ると、少しばかりかさが増えるんだ」

「かさが増える? おじいちゃん、それって何?」


 ニースは棚からカトラリーとコップを取り出し、首を傾げた。かさが増えるというのがどういうことなのか、ニースには想像もつかなかった。

 マシューは、ニースから受け取ったコップにヤギの乳を入れ、ニヤリと笑った。


「まあ、今度コップか何かに入れて、水を凍らせてみればわかるだろう」

「分かった。ぼく、今日寝る前にコップを外に出してみるよ」

「そうだな。やってみるといい」


 ニースは、カトラリーとコップをテーブルへ運んだ。マシューは、温め直した前の晩のスープを皿によそった。


「まあ、とにかくだ。水が凍ってかさが増えると、水の通る管がパンパンに膨らんで歪んでしまう。ひどい時には管が裂けて水が出なくなるんだが、町で配管工をやっているのは一軒しかなくてな。直してもらうのも一苦労なんだよ」


 肩をすくめたマシューは、ニースにスープを渡した。ニースは、温かな皿にずっと手を添えていたいと感じながら、テーブルへ運んだ。

 マシューは大きな丸パンを二枚切り分け、竃の炎で炙りながら話を続けた。


「それでだ。凍って水道が壊れないように、夜寝る前に地下から伸びている水道の元栓を閉めて、地上に出てる管の中の水を全部出すんだ。そうしておけば、夜も凍らないから、朝にまた水が出せるってわけだ」

「土の下だと、水は凍らないの?」

「ああ、そうだ。土の中は外より暖かいからな」

「そうなんだね」


 冷たく硬くなったパンを炙ると、わずかだがふんわり柔らかさが戻る。ニースはパンに焦げ目が少しついたぐらいが好きだった。

 ニースは、マシューが炙るパンの焦げ付き具合を確認しながら尋ねた。


「でも、昨日までは朝も水が出てたから、元栓っていうのを閉めたのは昨日が初めてなんだよね? 今朝雪が降ってきて、水が凍っちゃうぐらい寒くなるって、おじいちゃんはどうやってわかったの?」

「ははは。さすがにそんなことまでは、わしにもわからんよ。昨日もその前も、冬になってから毎晩元栓は閉めていたんだ」

「冬になってからって、羊を羊舎に閉じ込めてから?」

「はは。閉じ込めるか。まあ、そうだな。羊舎で飼い始めだ頃からだ」


 冬になれば、牧場の草は枯れ、気温もぐっと下がる。冬の間、羊たちは暖かい羊舎の中で過ごしていた。

 マシューは穏やかに言葉を継いだ。


「いつもはニースが起き出す前に元栓を開くんだが、今日はそれより先に雪かきをしていたからな。それで水が出なかったわけだ」


 パンの表面がニースの好きな頃合いに色づくと、マシューは焼いたベーコンと共に皿に乗せ、これぐらいでいいかと目線で尋ねた。

 ニースは嬉しげに微笑んでマシューに答えを返すと、テーブルへ皿を運び席に着いた。


「そうだったんだ。ぼく全然知らなかったよ。ねえ、おじいちゃん、雪かきって大変?」

「雪かきは、まあ大変ではあるな」

「じゃあ、ぼくも明日から手伝うよ」


 手を洗い、席に着こうとしたマシューは、ニースの言葉に優しく微笑んだ。


「雪かきは力仕事だ。なかなか骨が折れるぞ?」

「大丈夫だよ。おじいちゃんみたいには出来ないと思うけれど、ぼくに出来ることで、ちょっとでも役に立ちたいんだ」


 椅子に座ったマシューは、ニースの返事を聞いてふっと笑みをこぼした。


「よし、それなら明日は早起きしないとな。まずは今日の朝飯だ。冷めないうちにしっかりお食べ」

「うん。ぼく、明日からがんばるね」


 ニースがにっこり笑うと、二人は食前の挨拶をして朝食を食べ始めた。暖かなスープやパンに負けないぐらい、ニースの優しさがマシューの心を暖めていた。

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