14:新しい家族3(歌う喜び)

 ニースがクフロトラブラに移り住んで、一ヶ月が過ぎた。秋の終わりを感じさせる風が、山の木々を揺らす。

 毛の増えた羊たちと歩いていたニースは、森の中から美しい音色が響くのを聞いた。


 ――綺麗な声……。鳥の歌?


 それは鳥の鳴き声だったが、ニースにはまるで歌を歌っているように聞こえた。


 ラース山脈の北には、大海峡を挟んで、ラソプノ大陸という大きな大陸がある。北のラソプノ大陸の厳しい冬に比べれば、ニースのいるアートル大陸の冬は、ずっと過ごしやすい。そのため、冬が近づくと北から渡り鳥がやってくるのだ。

 渡り鳥たちは森の中でナワバリを主張する。冬の間、自分たちが食べる食料を確保するために、秋のうちから活動するのだ。それが、ニースの聞いた鳥の歌だった。


 鳥の声を聞いたニースは、伯爵家でのびのびと歌を歌っていた時のことを思い出した。

 怖くて歌えなくなってしまったが、ニースは歌を歌うことが何よりも大好きだった。ニースは今も、歌を嫌いになったわけではない。ただ失敗が怖くて、歌えなくなっただけだ。

 気持ちよく歌うような鳥の声を聞くうちに、ニースの胸の中で、歌いたいという気持ちが大きくなっていった。

 ニースは周囲を見回した。


 ――ここなら、誰もいない。


 森に近い放牧地には、牧羊犬のシェリーと羊がいるだけで、人の姿はない。

 ニースは、誕生日パーティの時のことを思い返した。


 ――あの時はたくさんの人がいた。どうして失敗しちゃったのか、今もよくわからないけど……。


 自分を愛していたはずの父が豹変した。ニースは、その出来事を思い出すと、今でも怖いと感じる。それでも、歌を歌いたいという気持ちが大きいのを感じた。


 ――周りに誰もいないし、羊やシェリーは文句を言わない。歌を失敗したって大丈夫……。


 ニースは、きゅっと手を握り、自分に言い聞かせた。


 ニースは、肩の力を抜いて大きく深呼吸をすると、数ヶ月ぶりに歌を歌った。久しぶりに聞いた自分の歌声は、以前と変わらない鈴のような澄んだ歌声だった。


 ――歌えてる……。ぼく、ちゃんと歌えてる……!


 勇気を出して歌った事で、ニースの胸に溜まっていた恐怖心は、解けるように消えていった。歌を歌うと、体の芯から力が湧いてくるように、ニースは感じた。


 ――ぼくはやっぱり、歌が好きだ……!


 ニースは歌いながら、心の底からそう思った。ニースの歌に応えるように、鳥が鳴く。ニースはまるで、生を受け産声をあげる赤子のように、のびのびと歌声を響かせた。



 ニースが意を決して歌い始めた時、マシューは昼食のサンドイッチをニースへ届けようと、放牧地を歩いていた。風に乗ったニースの澄んだ歌声は、マシューの耳にも届いた。


「ずいぶん綺麗な鳥の声だ」


 マシューは、歌を聞くのは初めてだ。聞いたことのない声に、珍しい鳥がどこかからやってきたのだと、マシューは思った。

 どんな鳥なのかと考えながら足を進めると、羊たちの中で立ち上がり、のびのびと楽しそうに声を出すニースが見えた。


「これは、まさか……」


 マシューは、この美しい澄んだ声がニースの声であると気がついた。そして、空へ向かって声を響かせるニースが、心から楽しんでいるように見えた。

 まるで鳥の声のように。町に時折やってくる旅の一座が奏でる楽器のように。リズムにのって旋律メロディを奏でるその声が、ニースの大好きな「歌」であると、マシューは悟った。

 マシューは歩みを止めて、ニースの歌に耳を澄ませた。歌声は伸びやかで、極上の羊毛ウールのように滑らかだった。ニースの歌を聴いていると、心がポカポカしてきて自分まで楽しくなるようだった。


 ――これが歌というものか。確かに、天上へと導いてくれるような、美しい声だ。天の導きとニースが言われるのも、頷ける……。


 マシューはニースの歌を聞きながら、笑みを浮かべた。



 歌い終えたニースは、シェリーが尻尾を振り、牧場の中を見ているのに気付いた。ニースは、シェリーの視線の先に目を向け、はっと息を飲んだ。


 ――どうしよう、おじいちゃんに聞かれてたかも……。


 シェリーが見ていたのは、歩いてくるマシューだった。

 今の自分の歌が失敗していたらどうしようか。マシューにまで嫌われてしまうのではないか。ニースの心は、先ほどまでの清々しい気持ちから一転して、暗い不安の色に覆われていった。


 今にも泣き出しそうに、困った顔をして固まるニースの姿を見て、マシューは、はっとした。マシューは、ニースが自分に怒られるのではないかと不安に感じていることに、気付いたのだ。


 ――しまったな。どうしたら、わしの気持ちが伝わるか……。


 マシューは、動揺を表に出さないように気をつけて笑みを浮かべた。そしてゆっくりと両手を体の前へ上げると、しっかりと気持ちを込めて拍手をした。


 マシューに怒られると思っていたニースは、拍手をされて、ぽかんと口を開けた。ニースは何が起こったのか分からなかった。ニースはこれまで、歌で拍手を受けたことなどなかった。


 父ゲオルグでさえ、ニースの歌を褒めることはあっても、拍手などしたことはなかった。ゲオルグにとって、ニースの歌はに過ぎず、拍手を送るという考えそのものがなかった。

 これは歌への反応として、当たり前のことだった。この世界では、歌は石を使うための道具に過ぎず、娯楽の演奏と同じだと考える者はいなかった。

 しかしマシューは違った。マシューはニースの歌を、素晴らしい楽器の演奏のように感じていた。そのためマシューは、自分が怒ってなどいない、むしろ感激したのだという気持ちを伝えるために、ニースに拍手を送ったのだ。


 なぜ拍手されているのか理解出来ず、マシューの手を呆然と見つめていたニースは、マシューの顔に視線を移し、ようやくマシューの気持ちに気がついた。

 マシューは満面の笑みを浮かべており、自分が拍手を受けるに値する感動を、マシューに伝えたのだとニースは理解した。

 ニースは照れくさく、どこか恥ずかしいような気持ちになり、俯いた。


 ニースの肌の色は黒いため、顔が赤くなっているかなど、マシューにはわからない。しかしニースが俯く仕草から、恐怖で俯いたのではなく、照れ隠しで俯いたことをマシューは感じ取った。

 マシューは拍手をやめ、ふっと柔らかな笑みを浮かべると、ニースにサンドイッチの入った籠を見せた。


「ニース。腹が減ってるだろう。昼飯の時間だ」


 マシューは一言も、ニースのことを褒めなかった。それでもニースは、ゲオルグに褒められた時以上に嬉しく感じた。


 ニースはサンドイッチを食べ終えた後も、鼻歌を口ずさみながら羊の番をした。マシューがひと月前に願ったことが、無事に叶った瞬間だった。

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