13:新しい家族3(歌への恐怖)

 牧場に、夜の帳が下りる。マーサは日が暮れる前に、夕食にと簡単なスープを作って帰っていった。昼に具沢山のシチューをお代わりして食べていたニースには、そのスープとパンだけで充分すぎる夕食だった。

 食事を終えて一息つくと、マシューは微笑みを浮かべ、ニースに語りかけた。


「ニース。お前さんは歌というものが大好きだったと、リンドから聞いた。わしは歌い手様のことはよくわからんが、お前さんが歌を時には、この家や牧場でもいいぞ」


 ニースは五歳の誕生日から、一度も歌を歌っていなかった。なぜ突然、マシューがを話し出したのか、ニースは理解出来なかった。

 ぽかんとしたニースに、マシューは穏やかに言葉を継いだ。


「伯爵様の家と違って、ここには歌い手様の力でどうこうする珍しいもんは何もない。いくらでも好きにいいんだ。ただ、お前さんの秘密がバレると大変だ。町の連中にとやかく言われんよう、家の近くだけでくれ」


 マシューは、ニースが喜ぶだろうと思いながら話した。しかしニースは戸惑い、顔を歪めた。ニースの浮かない顔を見て、何かおかしなことでも言ってしまったかとマシューは首を傾げた。


 マシューは歌を歌うということが、どんなことなのか知らなかった。この世界で道具として存在している歌は、庶民には触れる機会のない特殊なものだ。

 マシューは、リンドから歌い手について説明を聞いていたが、実際に歌い手を見た事はない。もちろん歌も聞いたことはなかった。


「すまんな、ニース。わしは歌というものを、んだ。何か変なことを言ったなら、教えてくれるか?」


 マシューの問いかけにニースは頭を振った。


「ううん。別に変じゃないよ。ただ……」


 ニースは申し訳なく思いながら、ゆっくり言葉を継いだ。


「あのね、おじいちゃん……。ぼく、いまちょっと、歌を歌うのが怖いんだ」


 誕生日以来、ニースは歌を歌わなくなっていた。誰かに歌うなと言われたわけでも、隠れる必要があったからでもない。悲しい時や辛い時には、いつも歌に助けられてきたニースだが、どんなに泣いても歌おうとは思わなかった。ニースは恐怖で、歌えなくなっていた。

 目線を落とし、寂しそうに言ったニースの言葉を聞いて、マシューは、はっとした。ニースが伯爵家を追い出される原因となった事件を、マシューは思い出したのだった。


「ニース。やりたくないなら別に無理はしなくていい。たくさん悲しいことがあったんだ。やりたくなったら、やったらいい。歌というものを嫌いになったわけではないんだろう?」


 マシューのいたわるような優しい声を聞き、ニースはゆっくりと頷いた。そして、目に涙を滲ませ、答えた。


「うん。ぼくね、歌うのは好きだったんだ。大好きだったんだ。でもね、誕生日にみんなの前で失敗しちゃったの。緊張したけど、ぼくは上手に歌えたと思ったんだ」


 じっと見つめるマシューに、ニースは押し込めていた気持ちを、ぽつり、ぽつりと話した。


「いつも父さ……伯爵さまが、ぼくの歌をほめてくれた。綺麗な歌声だねって言ってもらえると、とっても嬉しかった。ぼく、その時と同じように歌ったんだ。でもね、でもね……」


 ニースは言葉を詰まらせ、俯いた。ニースの目から、涙が、ぽたりぽたりと、こぼれ落ちた。マシューは立ち上がり、ニースの頭をわしゃわしゃと撫でた。


 ――好きだった歌を、これほどまでに怖いと感じているとは……。


 マシューは、ニースが話の途中で「父さま」と言いかけた言葉を「伯爵さま」と言い換えたのを聞いて、胸を痛めた。それと同時に、ニースが父である伯爵から、たくさんの愛情を受けていたのだと感じた。

 そして、歌のことは分からないが、それだけニースを愛した伯爵に殺されかけた事が、幼い心をどれだけ傷つけたかと思うと切なくなった。


 ――いつかニースが、悲しみを乗り越えて歌というものを日がきっと来るはずだ。そうでなけりゃ、悲しすぎる。


 マシューは何も言わなかった。ただニースのそばにいて、静かに泣き続けるニースを、優しく撫で続けた。たったそれだけのことが、ニースにはとても温かく感じられた。



 山陰から、眩い朝日が顔を出す。たくさん泣いたニースだが、爽やかな山の空気に、すっきりと目を覚ました。ニースは、部屋のカーテンを開ける。一面に広がる緑豊かな景色に、ニースは笑みを浮かべた。


 ――今日から、ここがぼくの家だ。昨日はおじいちゃんに心配かけちゃったから、これから頑張らなくちゃ。


 気合いを入れてニースが一階へ降りると、マシューはすでに朝食の準備を終えていた。


「おじいちゃん、おはよう!」

「おはよう、ニース。顔を洗っておいで」

「うん!」


 マシューの家は町外れにあるが、幸い水道は通っている。ニースは台所へ向かい、蛇口をひねった。


 アマービレ王国では、水道は一般的なものではない。多くの町では井戸や川から水を汲んで使う。しかしクフロトラブラがあるのは、山の麓だ。山の湧き水から取水された水は、傾斜を利用して町の家々全てに通っていた。

 町には上水道だけでなく、下水道も整備されている。汚水は、町より標高の低い場所に集められ、堆肥にして使われるのだ。


 顔を洗えば、食事の時間だ。ニースは朝食の席で、家や羊飼いの仕事を手伝いたいと願い出た。マシューは、嬉しげに笑った。


「手伝ってくれるか。それなら、まずは家の仕事からだな。そいつに慣れてから、羊飼いの仕事を教えよう。家の仕事は、そうだな……。掃除を頼んでいいか?」


 洗濯と料理は、幼いニースには力が足りない。マシューに仕事を任せてもらえると聞いて、ニースは笑顔で頷いた。


「うん! 教えてくれれば、頑張るよ。でも、おじいちゃん」

「なんだ?」

「火起こしも、ぼくがやっていい?」


 ニースは火打ち石での火起こしを気に入り、旅の中で覚えていた。マシューの家には、暖炉だけでなく、煮炊きをするための竃がある。ニースの言葉に、マシューは頷いた。


「構わんぞ。だが、火起こしの役は早起きだ。出来るか?」

「うん! ぼく、早く起きるようにするよ!」


 瞳を輝かせたニースに、マシューは笑った。


 ニースはマシューから掃除の仕方を教わり、熱心に家の仕事に取り組み始めた。だが、ニースに家の仕事を教えたのは、マシューだけではなかった。マシューの家には、度々マーサが訪れていた。

 一人暮らしが長いとは言え、マシューは男だ。そしてニースはまだまだ幼い。そんな二人が暮らす家は、どんなに頑張ってもマーサから見ればアラが見えた。

 マーサは埃が残っていると言って掃除をし、保存してある食材が傷んで来ていると言って料理をする。マーサが家にやってくると、いつも大掃除のようだった。

 ニースは、賑やかなマーサを大好きになった。


「野菜はよく土を落として、洗ってね。剥いた皮も使えるんだよ」

「そうなんだ。わかったよ、マーサおばさん」


 マーサの仕事を見ながら、ニースは少しずつ家の仕事に慣れていった。


 ニースが家の仕事に慣れると、マシューは羊飼いの仕事も教え始めた。

 まだ幼いニースの仕事は、広い牧場の中で羊たちを放牧に適した場所へと連れて行き、はぐれるものがいないように見張ることだった。


「ニース。分からん時は、シェリーに任せてな」

「シェリーに?」

「シェリーはお前さんのだからな」


 ニースが羊飼いの仕事をする時は、いつも牧羊犬シェリーと一緒だった。シェリーは先輩として、ニースのことをしっかり助けた。

 牧場のすぐそばには森があったが、その境は頑丈な柵で隔てられていた。幼いニースは、森の動物たちが時折茂みから顔を出すのを、柵の隙間から覗き見るのが好きになった。広い空には大きな翼を広げて悠々と鳥が飛ぶこともある。ニースは大自然の息吹を感じながら、羊飼いの仕事を身につけていった。

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