8:伯爵家の天の導き4(リンドの父マシュー)
夏の日差しに照らされる街道を、一頭の馬が駆け抜ける。馬の背に跨るのは、初老の男だ。老人の青い目に、石造りの市壁で囲まれたアレクサンドロフの町が映る。働き者なのだろう、手綱を握る薄橙色の手は、ゴツゴツと節くれだっていた。
老人は市門にたどり着くと、馬から降りた。老人の帽子から覗く、癖のある白髪が揺れる。門兵が歩み寄ると、老人は身分証である一枚の羊皮紙を見せた。
「クフロトラブラのマシューだ。町に入れてくれ」
「確かに、間違いないな」
門兵は身分証を確かめると、マシューと名乗った老人に問いかけた。
「ずいぶん遠くから来たようだが、商人でもなさそうだ。何しに来たんだ?」
「伯爵様に呼ばれたんだよ」
マシューの話を聞いて、兵士は眉根を寄せた。
マシューの髭は立派だが、身なりは庶民のものだった。馬を飛ばして来た割には綺麗に整えられているものの、所々ほつれた糸が見える。
年季が感じられる服を着たマシューは、とても伯爵家に呼ばれるようには、見えなかった。
「なぜお前のような者が、お館様に?」
マシューは、小さく笑って答えた。
「娘がな。伯爵様のお屋敷で働いてるんだ。リンドって言うんだが」
マシューの言葉に、門兵は、はっとして笑った。
「ああ! リンドさんのお父上でしたか!」
「知ってるのか?」
「もちろんですよ。ダミアンさんの奥様ですからね」
マシューは嬉しげに目を細めた。
「はは。そうか。確かダミアンは、護衛長だったな」
門兵は、切なげに眉根を寄せた。
「リンドさんも悲しんでました。早く行ってあげてください」
「ありがとう」
マシューは馬に跨り、町へ入る。伯爵家の屋敷を中心として広がるアレクサンドロフの町は、領主が住まうに相応しい大きな町だ。しかし不思議な事に、石畳の敷かれた道に人通りはほとんどない。マシューは馬を走らせ、屋敷へ向かった。
しんと静まり返った伯爵家の裏門を、マシューは叩く。下男に馬を預けたマシューの元へ、リンドが駆け寄った。
「父さん!」
「リンド。久しぶりだな」
リンドはマシューと抱き合うと、真剣な眼差しで口を開いた。
「急に呼んでごめんなさい。でも、他に頼れる人がいないの」
マシューは切なげに眉根を寄せ、頷いた。
「分かっている。手紙は読んだが、詳しく教えてもらえるか」
「もちろんよ。でも、ここじゃ話せないわ。付いてきて」
リンドはマシューを、自分の仕事場であるニースの部屋へ連れて行った。
大切に育てられてきたニースの部屋には、可愛らしい玩具や絵画、質の良い調度品が並ぶ。しかし部屋の主人であるニースの姿はない。マシューは座った事もない上等な椅子を勧められ、戸惑いながらも腰を下ろした。
「坊ちゃんは、どこにいるんだ?」
首を傾げたマシューに、リンドは茶を注ぎながら答えた。
「離れにいるわ。明日が、
「そうか。それで……」
マシューは、はぁと息を吐いた。
「どうりで、町に人がいないわけだ」
「ええ。みんな、喪に服してるわ」
伯爵家の三男ニース・ドニディオ・アレクサンドロフは、誕生日パーティの後に
マシューは、差し出されたカップを見つめた。
「御家のためとはいえ……死んだことにしなければならないとは」
ニースは、本当に死んだわけではない。ニースの命を救うため、死を偽装されていた。
ゲオルグはパーティから一晩経っても、ニースを殺そうとした。それは、憎悪だけが理由ではなかった。ゲオルグは冷静さを取り戻していたが、伯爵家に“調子外れ”がいることで、一族の不利益になるのを防ごうとしたのだ。
歌い手の中でも最も力が強いとされる天の導きが、歌の力を持たなかった。この不名誉な事実が社交界に広まる前に、ゲオルグは出来る限り早く解決しようと考えた。
リンドは必死にゲオルグに頼み込み、かろうじてニースの命を救うことが出来た。ただしニースは、アレクサンドロフの名を捨てる事となった。それだけがニースを生かす方法だった。
マシューの言葉に、リンドは悲しげに俯いた。
「他に方法がないか頑張ったんだけどね。無理だったわ」
ニースは倒れて意識不明とされた後、屋敷の離れに隔離された。そこでは、リンド以外の人物と接触することを許されなかった。ニースの生存は、徹底して隠されていた。
使用人でこの事実を知るのは、リンドとリンドの夫ダミアン、執事など、限られた者だけだ。ニースは一人きりで、ひたすら本を読んで時間をつぶし、日々を過ごしていた。
肩を落とすリンドに、マシューは慰めるように語りかけた。
「大丈夫だ。坊ちゃんのことは、わしに任せろ。そのために呼んだんだろう?」
「ええ。王家に知られるわけにもいかないから。クフロトラブラなら、大丈夫だと思ったの」
アマービレ王国に、莫大な富をもたらすはずだった天の導きが
マシューの住むクフロトラブラは、アマービレ王国北東部の端にある。十年前に妻を亡くしたマシューは、山あいの小さな町で羊飼いをしながら、一人で暮らしていた。
伯爵領は王国南部にあり、王都は王国中央に広がる平野にある。クフロトラブラは人口も少ない小さな町で、伯爵領からも王都からも遠い。伯爵家で亡くなった天の導きのことを知る者など、クフロトラブラにはいないのだ。
王国の外れにある小さな町は、ニースの存在を隠すには、うってつけの場所だった。
マシューはカップに口をつけ、小さく微笑んだ。
「そうだな。クフロトラブラなら安心だ。最悪何かあったら、
「そうね。そうならないことを祈るけど」
クフロトラブラの町のすぐ裏手には、ラース山脈という険しい山々がそびえ立つ。ラース山脈は、アマービレ王国のあるアートル大陸と、東のルテノー大陸とを繋いでいる。
二つの大陸の間は、
山脈を越えた先のルテノー大陸は、隣国スピリトーゾ
マシューはカップを置くと、静かに問いかけた。
「それで坊ちゃんは、これからどこの子になるんだ?」
アレクサンドロフの名を捨てるという事は、貴族ではなくなるという事だ。マシューの問いかけに、リンドは、ふふふと笑った。
「もちろん、私の子よ」
リンドは、アレクサンドロフ家の三男ではなくなったニースを引き取っていた。
リンドの答えを聞いて、マシューは安心したように柔らかな笑みを浮かべた。
「そうか。それならもう
「ええ」
「賑やかになるな。お前も戻ってくるんだろう?」
嬉しげなマシューの言葉に、リンドは手を、きゅっと握りしめた。
「それが……。私は帰れないのよ」
リンドは家族と共に、ニースを連れて実家へ帰るつもりだった。しかし、ゲオルグはそれを良しとはしなかった。
リンドの夫ダミアンは屋敷の護衛長であり、嫡男アンヘルの護衛も担う。リンド自身も、乳母となる前から伯爵家の使用人だった。二人とも腕が良く優秀だったため、ゲオルグはニースのために有能なリンド夫妻を失うのを嫌がったのだ。リンドがニースのそばにいることは、叶わなかった。
リンドの話を聞き、マシューは顔を歪めた。
「いくら何でも、それは酷すぎやしないか。家から追い出した挙句に、お前からも引き離そうとするなんて」
リンドは悲しげに、頭を振った。
「これで済むなら充分よ。旦那様は坊っちゃまを、ご自分の手で殺そうとなさったんだから」
「何だって⁉︎」
愕然とするマシューに、リンドは誕生日パーティの夜に起きた出来事を話した。マシューは、ぐっと拳を握りしめた。
「何てことだ。血の繋がった子だろう!」
「父さん、落ち着いて」
「落ち着いていられるか! 何だってそんなことが出来る⁉︎」
怒気を上げるマシューに、リンドは言い聞かせるように語りかけた。
「仕方ないのよ。旦那様はただでさえ、クララを亡くしたことを悲しんでいた。坊っちゃまはクララに瓜二つなの。どうしたってクララを思い出すけど、天の導きだからと、悲しみを抑え込んできたの。でもそれが、違ったんだから」
マシューは奥歯を噛み締め、怒りを堪えた。
「天の導きとかいうのが、そんなに大事なのか」
「父さんには分からないと思うけど、歌の力はすごく便利なの。だから旦那様も他の貴族の方々も、みんな歌い手を欲しがるのよ」
「理解出来ん。何だその歌っていうのは……」
マシューは深いため息を吐くと、ゆっくり顔を上げた。
「わしに分かるのは、そんな悲しい目にあったニースを、誰かが守ってやらなきゃならんってことだけだ」
「父さん……」
「ニースのいる離れってのは、どこにあるんだ?」
立ち上がろうとするマシューを、リンドは慌てて止めた。
「父さん、待って。今すぐ行こうっていうの?」
「ニースはもう伯爵様の子じゃない。わしの孫だ。孫を傷つけた奴のところになんざ、置いておけるか」
吐き捨てるように言うマシューの手を、リンドは掴んだ。
「父さん、ありがとう。坊っちゃまのことを、大切に思ってくれて」
「リンド……?」
リンドの目には涙が滲んでいた。リンドは指で涙を拭うと、ふわりと微笑んだ。
「父さんに頼んで良かった。私、クララと約束したのよ。どんなことがあっても、あの子を必ず守るって」
「リンド……」
「坊っちゃまの葬儀は明日よ。そんなすぐには出発出来ないわ。旅の間も、決して見つかっちゃいけないの」
リンドの静かな話に、マシューは、ふぅと息を吐いた。
「準備が必要なんだな?」
「ええ。坊っちゃまも、辛いけど頑張ってるの。まずは、父さんを紹介するわ。いきなり知らない人と一緒じゃ、坊っちゃまも不安だろうから」
心配そうなリンドの手を、マシューは優しく包み込んだ。
「そうだな。いきなりこんな爺さんと一緒じゃ、ニースが可哀想だ」
冗談めいて言うマシューに、リンドは苦笑いを浮かべた。
「坊っちゃまは優しい子よ。そんなこと、気にしないわ」
「はは。そうか。仲良くなれるといいが」
「なれるわよ。私の自慢の父さんだもの」
「リンド……ありがとう」
マシューは柔らかな笑みを浮かべ、まだ見ぬニースを、必ず幸せに育ててやろうと、強く誓った。
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