7:伯爵家の天の導き4(乳母リンドの優しさ)

 薄暗い静かな部屋に、カーテンの隙間から光が射し込む。朝を告げる鳥のさえずりに、ニースは、ゆっくり目を開いた。


 ――あれ? ぼく……。


 目を覚ましたニースは、ベッドの上にいた。ベッド脇では、一晩中付き添っていたのだろう、リンドが座って眠っていた。

 ニースはリンドを起こさないように、そっと体を起こすと、部屋をぐるりと見回した。いつもの自分の部屋だが、どうやって寝に来たのか思い出せない。ニースは首を傾げ、何があったのかを思い出そうとした。


 ――昨日は、ぼくの誕生日だったはずだ。夜にパーティがあって……。


 ふと、ニースは前夜の出来事を鮮明に思い出した。カタカタと小刻みに震える自分の肩を両手で掴み、震えを抑え込むように、ニースはうずくまった。

 目を覚ましたリンドが、ニースの背に手を回す。ぎゅっとリンドに抱きしめられ、ニースは温かな香りに包まれた。


「坊っちゃま、大丈夫ですよ。もう大丈夫です」


 優しいリンドの声を聞いて、ニースの目から、ぽろりぽろりと涙がこぼれた。


 ニースの震えは、少しずつ収まっていった。リンドの柔らかな腕と温かな体温を感じ、ニースは自分が呼吸しているのを確かめた。気持ちが落ち着いてくると、ニースは改めて、何があったのかを思い返した。


 ――ぼく、失敗しちゃったんだ……。大事なパーティで、あれだけたくさんの人の前で、大失敗しちゃったんだ。だから、父さまが……。


 ニースは、殺されてもおかしくないぐらいの、許されない失敗をしてしまったのだと感じた。


 ――父さまは、ぼくを許してくれる? それとも、また剣を向けるの……?


 嫌われて避けられることは、これまで兄たちから受けて来たことだが、殺意を向けられたのは初めてだ。もしまた殺されそうになったら、どうしたらいいのか。考えても考えても、ニースには分からなかった。

 不安に駆られたニースは、潤んだ瞳でリンドを見上げた。


「リンド……。ぼくはこれから、どうなるの……?」

「坊っちゃま……」


 リンドはニースを、じっと見つめた。震える声で呟いたニースの顔は、色は違えど、クララとよく似た形だった。リンドの脳裏に、今際いまわきわのクララと交わした、約束が過った。


 リンドは使用人として働いていたクララの先輩であり、親友だった。クララはニースを出産する際、自分が子どもと共に生きられない事を感じて、生まれてくる子を頼むと、リンドに請い願っていた。

 リンドは、クララに約束したのと同じ誓いの言葉を、強い決意を込めて告げた。


「大丈夫ですよ、坊っちゃま。このリンドが、どんな事があっても、絶対に、坊っちゃまをお守りいたします」


 リンドの返事を聞いて、ニースはわずかに安堵の色を浮かべたが、すぐまた不安気な顔に戻った。

 ニースは胸のしこりを解すように、ぽつり、ぽつりと声を絞り出した。


「リンドは、ぼくを嫌いにならないの? ぼく、歌を失敗しちゃったみたいなんだ。父さまは、もうぼくを許してくれないかもしれない。兄さまたちだって、ぼくのことが嫌いなのに……。それなのにリンドは、ぼくを嫌いにならないの?」


 リンドは驚き、ニースの顔をそっと撫でた。ニースの小さな顔はリンドの片手にすっぽりと収まってしまいそうだった。


 ――坊っちゃまは、まだこんなに幼いのに、自分に起きたことを分かってらっしゃる。何も知らなかったら、これほど辛くはならなかったろうに……。


 リンドは切なさを振り払うように、ハッキリと答えた。


「いいえ。リンドは決して、坊っちゃまを嫌いになりません。リンドはどんな時でも、何があっても坊っちゃまの味方です」


 リンドは微笑んで言うと、ニースを抱く手に優しく力を込めた。ニースはリンドの言葉を噛みしめ、深く息を吐いた。


 ――リンドは嘘をつかない。いつだって、本当のことしか言わない……。


 ニースは鼻をすすると、力なく笑みを浮かべた。


「なんだかぼく、お腹が空いちゃった。昨日のパーティでも、ほとんど食べられなかったんだ」


 リンドはニースの心中を察し、優しい笑みを返した。


「まあ、それはいけません。坊っちゃまは育ち盛りなんですから、しっかり食べないと。坊っちゃまの大好きなパンケーキを、朝食にご用意いたしますね」


 リンドはニースの頭を優しく撫で、部屋を出た。ぱたりと扉を閉めると、リンドは気持ちを落ち着けるように、目を伏せた。


 ――坊っちゃまは大丈夫。今はまだ辛い気持ちでいっぱいだろうけれど、頑張って立ち上がろうとしている。きっと立ち直れる。


 リンドは顔を上げ、歩き出す。廊下には、煌めく朝日が溢れていた。お腹が空いたと訴えたニースは、笑みを浮かべながらも悲し気な顔をしていた。ニースを少しでも元気にしようと、リンドは張り切って厨房へ向かった。

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