4:伯爵家の天の導き2(兄アンヘルとの軋轢)

 パラパラと、冷たい雨が窓を叩く。夕食の時間となり、左腕を包帯で固定したアンヘルは食堂へ向かった。

 食堂では、ゲオルグが席についていた。しかしゲオルグは、食事を食べてはいなかった。ゲオルグは、めそめそと泣くニースを抱きかかえ、あやしていた。


「父様……ニースをどうして抱いてるのですか?」


 唖然として問いかけたアンヘルに、ゲオルグは目も向けずに答えた。


「ニースが膝を擦りむいたからだ。ニース、まだ痛むか?」

「膝を擦りむいた……?」


 雷鳴が鳴り、ニースの泣き声が響く。アンヘルの胸の中で、何かが弾けた。

 アンヘルは踵を返し、静かに部屋へ戻った。部屋の片隅には、ニースからもらった花が小さな花瓶に入れられていた。


 ――僕は骨を折ったんだ! それなのに……!


 込み上がる怒りを叩きつけるように、アンヘルは花瓶を投げつけた。ガシャリと大きな音を立てて、花瓶は割れた。床に落ちた小さな花を、アンヘルは何度も踏みつけた。


 ――なんで、なんで……!


 アンヘルは、ニースが産まれる前までは、ゲオルグの愛情と期待を一身に受けて来た。ニースに全てを奪われたように感じ、アンヘルの寂しさや悲しさは、恨みや妬みに変わっていた。

 心配して追いかけてきたフェーベが、声を上げた。


「アンヘル! 何をしてるのですか!」

「母様……」


 アンヘルの目に、涙がじわりと滲んだ。


「なぜ母様は、何も言ってくださらないのですか!」

「アンヘル……」

「父様は、ニースのことばかりだ! 僕は、僕は跡継ぎなのに……!」


 行き場のない怒りを、アンヘルはフェーベにぶつけた。フェーベは切なげに、アンヘルの右手を取った。


「アンヘル。あなたも分かっているでしょう。ニースは特別なのです」

「ですが、ですが……! だからといって父様が、ここまでニースにこだわる理由が、僕には分かりません!」


 アンヘルの青い目から、涙が溢れた。フェーベは優しく、アンヘルの手を撫でた。


「仕方ないのですよ。ニースは天の導きなのだから」

「てんのみちびき……?」

「歌い手の証が黒い色であることは、知ってますね?」

「……はい」


 静かに話すフェーベの言葉に、アンヘルは頷いた。

 この世界の人々は、肌の色は多種多様で髪や目の色も様々だ。どこの土地にも様々な色の人が住むため、体の色での差別はない。しかし、黒い色は貴重な存在だ。歌の力を持つ者しか、体に黒を持たないのだ。

 鼻をすするアンヘルに、フェーベは丁寧に話した。


「天の導きは、世界でも数えるほどしかいません。ニースのように、髪も目も肌も黒い者が、天の導きなのですよ」


 歌い手の黒は、目、髪、肌に現れる。黒い箇所が多いほど、歌の力が強いと言われていた。

 目や髪が黒い歌い手はそれなりに数がいるが、肌まで黒い歌い手は滅多にいない。目も髪も肌も黒い者が、天の導きと呼ばれる特別な歌い手だった。ニースは世界に十人もいない程、貴重で絶大な歌の力を持つ存在なのだ。

 フェーベは言い聞かせるように、語りかけた。


「これは、アンヘル。あなたのためでもあるのですよ」


 フェーベにとって、アンヘルを蔑ろにされるのは屈辱的な事だ。しかしニースが将来、アンヘルたちへもたらす富を考えれば、ゲオルグの変貌ぶりは仕方ない事だとも感じていた。

 ニースをきっかけに、王家とを持つ事が出来れば、アレクサンドロフ家は公爵の地位も狙えるからだ。

 アンヘルを見つめるフェーベは、ひどく寂しそうな目をしていた。アンヘルは俯き、涙を堪えた。


 ――母様も辛いんだ。ニースが……ニースが天の導きだから、こんなことに。


 窓を叩く雨音が、激しさを増す。アンヘルの瞳の奥に、暗い炎がゆらりと揺れた。



 怪我をした日を境に、アンヘルはニースに辛く当たるようになった。しかし幼いニースには、アンヘルの変化は分からなかった。

 怪我のため、稽古をしばらく休む事になったアンヘルは、静かに本を読む日が続いた。庭でくつろぐアンヘルに、ニースは、いつものように話しかけた。


「兄さま、なんのご本を、よんでいるのですか?」


 ニースがいくら話しかけても、アンヘルは何も言わない。


「兄さま……」


 ニースは、自分がいないかのように扱われることに深く傷ついた。アンヘルに無視される度、ニースはリンドの元へ駆けて行き、大声で泣いた。


「坊っちゃま。大丈夫ですよ」

「でも、兄さまが、兄さまが……」


 リンドが慰めても、ニースは泣き続ける。リンドは心を痛めたが、宥める事しか出来なかった。

 ニースはやがて、アンヘルたちに話しかけるのをやめた。ニースは窓辺から、楽しそうに笑い合う兄姉を、ただ見つめて過ごすようになった。


 ――ぼくはどうして、きらわれちゃったのかな。何をまちがえちゃったのかな。


 寂しさに膝を抱えるニースの耳に、鳥のさえずりが聞こえた。


 ――とりさんの声? お歌みたいだ……。


 鳥は一羽でも、悠々と空を舞う。ニースは楽しげな鳥の姿を目で追った。


 ――とりさんは、ひとりぼっちでも歌ってて、たのしそう……。


 ニースは、きゅっと手を握りしめて防音室へ向かい、鳥のさえずりのように、歌を歌った。


 ――歌ってるとたのしいな。とりさんみたいに、ぼくもいつか、お空をとべるかな。


 どんなに悲しくても寂しくても、ニースは歌えば楽しい気分になった。一時悲しい思いをしても、歌う事でニースは笑顔を取り戻すようになった。

 リンドは、ニースを励ますように歌声を褒めた。


「まあ、坊っちゃま。とても綺麗なお声ですね」

「ほんとう?」

「ええ。本当ですよ。リンドが嘘を言ったことがありましたか?」

「ううん。リンドは、いつもほんとうのことしか言わないよ!」

「そうでしょう。坊っちゃまのお声は、とても美しいのですよ。今度ルポルたちにも、ぜひ聞かせて下さいな」

「うん!」


 ニースはリンドに褒められると、心が弾んだ。歌う事が大好きになったニースは、時折、乳兄弟であるリンドの子どもたちにも、歌を聞かせた。リンドの子どもたちは、アンヘルたちの代わりに、ニースの遊び相手になっていった。

 元気を取り戻したニースは、頻繁に防音室で歌うようになった。練習に励むニースを、ゲオルグはさらに可愛がった。


「また練習をしていたのか。偉いぞ、ニース」

「はい、父さま。ぼくは、お歌がだいすきです!」

「そうか。歌が好きか。それは素晴らしいな」


 ニースは、たくさんの石歌を覚えながら、鳥のように歌う事も覚えた。大好きな父と優しい乳母たちの元で、ニースは悲しみ以上に大きな幸せを感じ、成長していった。ニースの歌声には、喜びが溢れていた。


 そうして月日は流れ……ニースは五歳の誕生日を迎えた。

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