2:伯爵家の天の導き1(兄たちの葛藤)
産まれるのと同時に母を失ったニースだが、穏やかな日々の中で、すくすくと成長していった。
幼いながらも、大きな瞳と長い睫毛。すっと通った鼻筋に自然と整った眉。可愛らしい唇と、艶のあるサラサラとした髪。
ニースは、体の色は違うものの、クララとよく似た顔立ちに育っていった。その愛らしい姿に、成長すればどんな美青年になるかと、ニースは噂された。
そんな幼いニースの仕草ひとつひとつに、ゲオルグはクララの面影を見出し、可愛がった。
しかしそれと同時に、ニースとアンヘルたちの関係は徐々に変化していった。いつもなら、剣や弓の稽古に励むアンヘルやアントンの様子を見に来る時間にも、ゲオルグは来なくなった。ゲオルグは暇さえあればニースの元へ通うようになっていた。
アンヘルは当初、ゲオルグの変化について、母を失ったニースを哀れんでいるからだと、気楽に考えていた。
――父様は優しいな。クララの分まで、ニースを可愛がるなんて。僕も父様みたいな大人になりたい。
しかしやがて、アンヘルの胸の内で、徐々に不満が大きくなっていった。
ゲオルグはニースの腰が座ると、町の視察を兼ねた散歩に連れて行くようになった。ニースが歩けるようになると、遠乗りにも連れ出し始めた。
アンヘルは自分も誘われるものと思っていたが、ゲオルグが誘う事は一度もなかった。そればかりか、同行したいとアンヘルが願っても、ゲオルグは聞き入れなかった。
――父様は、どうしてニースにばかり構うんだろう。まだニースはあんなに小さいのに……。
アンヘルは寂しさを募らせ、まだ何も分からないニースに対し、複雑な気持ちを抱くようになった。
ニースが片言で喋れるようになったある日。ゲオルグは朝食の席で、家族で例年行っている狩りにニースを連れて行くと話した。アンヘルは驚き、声を上げた。
「父様。ニースはまだ何も出来ません。置いて行った方がいいのでは?」
止めようとするアンヘルに、ゲオルグは冷たい視線を投げた。
「アンヘル。来る気がないなら、お前は来なくてもいい」
「そんな……」
「幼いうちから、狩りの雰囲気を感じさせるのも、貴族として必要なことだ」
アンヘルは納得出来なかったものの、ゲオルグと出かけるのは久しぶりの事だ。渋々ながらもアンヘルは、狩りに出かける事を決めた。
柔らかな日差しが、森に降り注ぐ。馬に乗るゲオルグの膝の間で、一歳半のニースはキラキラと黒い瞳を輝かせていた。
「ニース。どうだ、楽しいか?」
「とーたま! とーと! とーと!」
「そうだ。あれは蝶々だ。ニースは賢いな」
仲睦まじい二人を、十一歳になったアンヘルと、八歳になったアントンは複雑な気持ちで見つめていた。
「いいな、ニースは。蝶々って言っただけで、褒められるなんて」
ふてくされるアントンを、アンヘルは宥めた。
「まだニースは小さいんだから、当たり前だよ」
「でも兄さまだって、羨ましいんじゃないですか?」
アンヘルは、苦笑いを浮かべて答えた。
「まあね。だから今日は父様に、狩りで良い所を見せようよ」
「兄さまは狩りが得意だからいいですけど、ぼくは……」
「大丈夫。僕も手伝うから。きっと褒めてもらえるはずだよ」
アンヘルの言葉に、アントンは微笑んだ。
「そうですよね。ぼく、今まで一度も仕留めたことありませんし」
「ニースにも、カッコいい兄の姿を見せる機会だよ。頑張ろう」
「分かりました」
狩場へ到着すると、同行した使用人たちは
一向に狩りを始める気配のないゲオルグを置いて、アンヘルとアントンは狩りに出かけた。二人は協力して多くの獲物を狩り、アントンは初めて一人で雉を仕留めた。二人は大喜びで、同行していた料理長に獲物を渡した。
「雉は、アントンが初めて獲ったんだ。必ず美味しく仕上げてね」
「それはおめでとうございます! 旦那様もお喜びになられますね。私に任せてください」
「頼んだよ」
料理長の言葉に、二人は嬉しげに笑った。料理長は、携帯性に優れたコンロと呼ばれる調理台で料理を始めた。
コンロは、「
石の精製方法は遠い昔に失われてしまったが、世界各地で様々な効果を持つ石が発掘されている。この世界の人々は歌い手の歌と、その石を利用して文明を発達させていた。
二つの月が空に昇り、ランプの揺れる天幕に、次々と料理が運ばれる。アントンが初めて狩った雉は、料理長の手でこんがりと美味しそうに焼かれていた。夕食の席で、アントンは誇らしげに胸を張った。
「父さま。ローストになっているこの雉は、ぼくが獲ったんです!」
「そうか」
アントンの期待に反し、ゲオルグの返事は素っ気ないものだった。気まずい空気の中で、料理長が肉を切り分ける。アントンは希望を捨てずに、ぎゅっと拳を握りしめた。
――父さまはきっと、美味しかったら褒めてくださるはずだ。
アントンは、じっとゲオルグを見つめる。アンヘルも緊張の面持ちで、目を向けた。しかしゲオルグは、雉肉を食べても何も言わなかった。
――美味しくなかった? 初めての獲物だったのに……。
アントンは、悲しさに肩を落とす。ゲオルグは、ニースに笑いかけた。
「ニースは雉を食べれるかな」
「いーじ?」
「そう、雉だ」
ニースは、小さく切られた肉をフォークで刺し、口に運んだ。その姿にゲオルグは目を見開き、感心して笑みを浮かべた。
「一人でそんなに上手に食べれるのか!」
「いーじ、おーちー」
「そうかそうか。美味しいか!」
ゲオルグは上機嫌で笑った。アントンは怒りを爆発させ、声を荒げた。
「父さま! この雉は、ぼくが初めて一人で狩ったんです!」
「なんだ、アントン。それがどうした?」
「どうしたって……。なぜニースのことだけ褒めるんですか!」
涙を滲ませたアントンに、ゲオルグは静かに答えた。
「お前は兄なのに、そんなつまらないことで泣くのか」
「父さま……!」
アントンの目から、悔し涙が溢れる。ゲオルグは、興を削がれたとでも言いたげに、冷たい声音を投げた。
「泣くなら出て行け。今は食事の時間だ」
「……っ!」
アントンは泣きながら、天幕を駆け出して行った。ゲオルグは気にする事なく、食事を続ける。アンヘルは慌てて立ち上がり、アントンを追いかけた。
二つの月が、鬱蒼とした森を照らす。アレクサンドロフ伯爵家の狩場である森のほとりには、いくつも天幕が張られていた。ランプの炎が揺れる小さな天幕の中で、アントンは泣きじゃくっていた。
「なんで父さまは、ニースのことばかり……!」
アンヘルは、涙をこぼすアントンの背を優しく撫でた。
「仕方ないよ。ニースは歌い手なんだから」
この世界の文明は、石と歌の力がなければ成り立たない。歌い手の重要性は、アントンもよく分かっていた。
しかし、優しかった父親が急に冷たくなり、自分たちに無関心になったのだ。アントンにとってゲオルグの変貌ぶりは、我慢の限界を超えていた。
「でもだからって、こんなのはあんまりです! 兄さまは、なんで平気なんですか! ぼくはもう嫌だ!」
声を上げて泣くアントンの背を、アンヘルは静かにさすり続けた。
――アントンの気持ちは分かる。いくら歌い手だからって、父様はやり過ぎだ……。
空に浮かぶ二つの月が、雲に覆い隠されていく。アンヘルたちの心に、暗い影が広がっていった。
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