第1部 天の導き
第1章 天の導きの誕生
1:伯爵家の天の導き1(ニース誕生)
――どうして父さまが……。
ニースは混乱していた。自分の五歳の誕生日パーティは、先ほどまでは楽しく進んでいたのだ。
そう、ニースが歌を歌うまでは……。
夕立が打ち付ける、暑い夏の日。アマービレ王国南部に領地を持つ、アレクサンドロフ伯爵家の三男としてニースは生まれた。
ニースの母クララは庶民の出で、伯爵家で働いていたところを見初められた。その美貌は
クララが生む子どもは妾の子となるが、きっと美しい子どもに違いないと、使用人たちは噂した。父である伯爵ゲオルグも金の髪と青い目、白い肌で、整った顔立ちだったからだ。
ゲオルグは、美しく心優しいクララに夢中だった。クララと過ごす人生を楽しみにしながら、クララが出産を終えるのを、ゲオルグは今か今かと待った。しかし、ゲオルグの願いは叶わなかった。
雷光が、尖塔のある石造りの屋敷を照らす。執務室で知らせを待っていたゲオルグは、静かに話す産婆の言葉に愕然とした。
「どういうことだ……クララが死んだだと⁉︎」
「左様でございます、伯爵様」
クララは子を産み落とすと同時に、あっけなく亡くなってしまった。言葉を失い、羽ペンを落としたゲオルグに、産婆は心から嬉しそうに言葉を継いだ。
「ですが伯爵様。お子様は無事にお産まれになりました」
「……っ!」
ゲオルグは、怒りと悲しみに肩を震わせた。
――クララが死んだというのに、なぜ笑っていられるのだ……!
失意にくれるゲオルグにとって、生まれた赤子など、どうでもいい存在だった。しかし伯爵たる者、嘆き悲しむ姿を見せるわけにはいかない。
ゲオルグは、産婆を殴り飛ばしたい気持ちを必死に抑え、命が消えたクララと、生まれたばかりの赤子に対面するため、クララの部屋へ向かった。
ランプの炎が揺らめき、半円を描く
「クララ……なぜ……」
クララの手を取ったゲオルグの目に、涙が滲む。悲しみに打ち震えるゲオルグに、産婆が声をかけた。
「伯爵様。こちらがお生まれになったお子様でございます」
ゲオルグは、力無く立ち上がった。先ほどまで産声を上げて泣いていたであろう赤子は、乳母から乳をもらい、安心したように産婆の腕の中で眠っていた。ゲオルグは、我が子であるはずの赤子を、憎々しく感じた。
――クララを死なせておいて、穏やかに眠りおって! お前など生まれてこなくとも、クララさえ生きていてくれれば……!
しかし怒りを堪えておくるみをめくり、赤子を見たゲオルグは、青い目を大きく見開き、はっと息を飲んだ。
「これは……黒……?」
クララの命を奪って産まれてきた赤子は、透き通るような白さの両親とは、似ても似つかない色だった。産湯で血を落として綺麗にしたはずだが、赤子は闇に溶けるような黒さだった。
「さようにございます。黒は天の導き。歌い手様にございます」
微笑んで言う産婆の言葉を聞くと、ゲオルグは恐る恐る赤子の手に触れた。赤子はピクリと身じろいだが、すやすやと眠ったままだった。
ゲオルグは怖々とした手つきで、そっと小さな頬に指を滑らせた。艶やかで張りのある赤子の肌は夜闇に溶けるほど黒く、髪は墨を落としたような漆黒だった。
まだ湿り気の残る少ない髪の毛を指先で掬い、ゲオルグは優しく整えた。ゲオルグが触れても赤子は穏やかに眠っており、瞳を見ることは叶わなかった。
「お子さまは瞳の色も、吸い込まれるような夜の闇に似た黒さでした。お目覚めになられたらご覧になってください」
乳母の声にわずかに頷くと、ゲオルグは、さっと背を向けた。
――クララ。私のために、命をかけて天の導きを産み落としてくれたのか……。
二度と目を覚ますことはないクララを見つめる、ゲオルグの青い瞳からは、ぽたりぽたりと、涙が零れていた。
「クララ……ありがとう」
ゲオルグの呟いた声は、切なくも優しく、慈愛に満ちた声だった。ゲオルグは、寂しさの残る瞳でありながらも、クララへ優しい微笑みを向けていた。夕立の止んだ窓の外には、大きな虹がかかっていた。
この世界には、「歌い手」という者たちがいる。彼らは「歌」を
歌い手の数は少なく、歌の力は子孫に遺伝するわけでもない。歌い手の誕生は
希少な歌い手は、権力者にとって喉から手が出るほど欲しい存在だった。一家に一人歌い手が生まれれば、たとえ力の弱い歌い手だったとしても、一族の繁栄は約束される。これが力の強い天の導きであれば、より莫大な富が得られる。
天の導きの誕生は、愛するクララの死の悲しみから、ゲオルグが立ち直って余りある慶事だった。
ゲオルグは生まれた子を、ニースと名付けた。ニースには、正妻の子である兄二人と、側室の子である姉がいた。
三人の兄弟たちは、生まれたばかりのニースを見て固まった。家族の誰とも違う真っ黒な姿に、驚いたのだ。
唖然とする三人に、ニースの世話を任されている乳母リンドが、優しく笑いかけた。
「アンヘル坊っちゃま。抱いてみますか?」
嫡男であるアンヘルは、十歳になったばかりだ。アンヘルは、リンドの言葉に驚き声を上げた。
「いいの?」
「ええ。構いませんよ」
首がぐらぐらと揺れる小さなニースを、アンヘルは落とさないように、恐る恐る抱いた。不器用なアンヘルの抱き方にも、ニースは、すやすやと眠り続けていた。穏やかな寝顔に、アンヘルは微笑んだ。
――色は違うし小さいけど、ちゃんと人間だ。この子が、あの不思議な力を使う歌い手なんだ……。
アンヘルは興味津々でニースを見つめた。嬉しそうなアンヘルの姿に、七歳の次男アントンと三歳の長女イリナが、羨ましげに声を上げた。
「兄さま! ぼくにも抱かせて下さい!」
「わたしも! わたしも!」
二人の甲高い声に、ニースが目を覚まし、泣き声を上げる。慌てたアンヘルから、リンドが笑ってニースを抱き上げた。
「ほらほら。大丈夫ですよ」
リンドが抱くと、ニースは安心したように再び眠りに落ちた。アンヘルは、ほっと胸を撫で下ろした。
「すごいね、リンド。こんなすぐに泣き止ませるなんて」
「坊っちゃまも、慣れれば出来ますよ」
「本当に?」
「ええ。リンドが嘘をついたことが、これまでありましたか?」
リンドは長年、使用人として伯爵家で働いてきた。アンヘルたちにとって、リンドは信頼出来る使用人の一人だった。
アンヘルは、ふわりと微笑みを返した。
「なかったよ。リンドはいつも正直だ。僕たちも出来るようになるんだね」
「左様でございます」
「じゃあ僕たち、また遊びに来るよ。ニースをまた抱かせてくれる?」
リンドは、にっこり笑った。
「もちろんでございます」
アンヘルたちは、暇を見つけてはニースの元へ足繁く通うようになった。しかし、ニースの世話をしようとするアンヘルを、母フェーベは度々叱った。
「アンヘル。またニースのところへ行ったのですか?」
ニースと遊び終えて、部屋へ戻ろうとしていたアンヘルは、フェーベの声に足を止めた。
「お母様。いいではありませんか」
「顔を見るだけなら構いません。ですがあなたは、下の世話まで手伝ってるそうではありませんか!」
眉を吊り上げたフェーベの言葉に、アンヘルは顔をしかめた。
「リンドが言ったのですか?」
「ええ。そうですよ。リンドを困らせてはなりません!」
アンヘルは、はぁとため息を吐いた。
「言わないでって頼んだのに……」
「リンドは
フェーベは強く、アンヘルに言い聞かせた。
「アンヘル。あなたは嫡男なのですよ。いずれ伯爵家を継ぐ身なのです。立場を考えなさい!」
「分かりました……」
アンヘルは仕方なしに頷いたが、それでもフェーベの目を盗んでは、ニースの元へ通った。アンヘルにとって、ニースは可愛い弟であり、赤子のニースにとっても、アンヘルは良き兄だった。
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