生田神社にて甘言を弄す その2
そこは草木が盛り花舞う異郷の地。
優しく鼻をかすめる匂いは熟れた果実が放つような甘い香り。
温もりのある風が追い風となって境内へと通り抜け、ボクを誘うように風は吹き抜ける。
角を曲がると社務所のような建物があり、そのすぐ側で箒を手にしたうら若き少女がボクを見てこちらへ駆け寄る。朱と白の和服でいかにも巫女という衣装、足元は白い足袋と草履のようだ。パタパタと音を鳴らしながら急ごうと必死で走っている。
「はぁ、はぁ……。お待ちしておりました、勇者様!」
「勇者様!?」
聞き慣れない言葉に思わず聞き返す。
「はい、アナタ様はこの世界をお救いになる救世主なのです」
「ええー……」
ボクは困惑した。
もちろん異世界へは行きたいと願った。
だけどそれは主人公的な役目を果たしたいわけじゃなくて、むしろスローライフ的な日常枠としての転生を希望していた。
やだなー。
来て早々引き返したくなった。
「さぁさ、どうぞこちらに」
「えっちょ、ちょっ!」
ボクの意思など関係ないと言わんばかりに、強引に奥へと連れて行く。
同じくらいの年齢で背丈もそう変わらない少女だが腕力は強く、引き離そうとしてもびくともしない。
「この御社様に御座しますのが我らが神様、
そこには後光差す美しき大人の女性が目を閉じ鎮座していた。
和装だが巫女服とは違い荘厳な装飾で着飾り、後ろにお付きのものを何人も従え普通の人間とは違う、高貴なオーラを放つ女性だった。
斎王代のような、葵祭などの祭事でしか見ることのないような立派な衣装にボクは見惚れていた。
本殿の高さはちょうどボクの目線と高さが合っていたために視線を動かす機会がなく、気付かなかったのだけれど、ボク以外の人間は皆正座しているか膝を地面につけ腰を低くしているかで、まるでボクだけが無礼な立ち振舞をしているかのような感覚に陥る。
思わず片膝でもついた方が良いのかと姿勢を下げようとすると、彼女は目を見開きボクに話しかける。
「そう気を張らずとも良いのです、人の子よ。貴方がこの世界に足を踏み入れたのは偶然か必然か、考えたところで答えは出ないのです。ですがもし、貴方が何かを変えたいと、新しい扉を開きたいと望んでおられるのでしたら、少しでよいのです、我々の話を聞いていただけないでしょうか」
凛とした態度に美しい声。思わず聞き惚れて最初の方は内容が入ってこなかった。
話を聞くだけなら、と思い、首を縦に振る。
「さあ、もっとこちらに」
軽く手招きされ、本殿へと近づく。
テレビの中でしか見たことのないような仕草に見惚れ、ボクはすっかり彼女の虜になっていた。
「やがてこの地は洪水に襲われ、水蛇が全てを飲み込むでしょう。木々も、動物も、人間さえも、何人たりとも抗えぬ定めなのです」
「そんな」
「この地に生きるものはそれを承知で皆暮らしているのです。豊穣の神を怒らせぬよう、贄を捧げて嵐を鎮めるのがしきたり」
「……もしかして、ボクにそれをやれってこと」
「そんなまさか! 貴方様は我々の救世主なのです。そのような無粋な真似などいたしませぬ」
「そっか、良かった」
ボクは胸をほっと撫で下ろした。
さらに手招きされたので、階段を登り彼女の間近で腰掛ける。
「
「ええっ、神様が生贄になるのっ!? そんなのおかしいよ!」
ボクは素っ頓狂な声を上げる。
その様子を彼女は微笑ましく見守る。
「貴方は優しいのですね」
彼女は姿勢を崩さず僅かにこちらへ這い寄る。
「しかし、良いのです。これが
「あっ」
彼女がボクの手を握りしめる。
両手で覆いかぶさるように、しっかりと。優しく包み込むように。
「嵐の夜に、この身を捧げ、糧となりましょう。安寧をもたらすための命ならば、喜んで投げ捨てましょう」
指と指をしっかりと絡めるように互いに交差し、口元まで掲げられたその指の隙間に吐息がかかってくすぐったい。
真っ直ぐこちらを見つめ、恥ずかしくなってこちらから視線をそらす。
妖艶に笑みを浮かべる彼女はクスクスと声を出し、下から覗き込むようにして再び視線を合わせてくる。
ああ、なぜだろう。
蛇に睨まれた蛙のように動けない。
「ですがこの命、捧げることなど惜しくはありませぬが、せめてその前に
「ね、願いって」
「呑ませていただきたいのです。あなた方のその、若くて清らかな血潮を――」
そう言って彼女はゆっくりと手を口元へ運んでいく。大きく開けた口には犬歯のような鋭い歯が何本も見えた。仕草は優雅で気品あふれるが、これから行われるのは吸血行為だ。
「や、ややや、やめてくださいっ!!」
なんとか必死に振り払い、握りしめられた両手が自由になった。
急いでその場から逃げ出す。
力なき悲鳴が聞こえた気がしたが、そんなの気にしていられない。
境内のざわめく風がボクを責め諌むような気がした。
構うものか。
こんな異世界、こちらから願い下げだ。
追手が来ているのか、振り返る余裕もない。
楼門前まで一気に駆け抜ける。
あれだけ歓迎されていたはずの空気が一変し、ボクの帰還を阻むように向かい風が吹き付ける。
微かに残っていたタバコの臭いや油っぽい匂い、中華料理のような匂いも吹き飛んだように思える。
その俗っぽい匂いには妙な懐かしさを覚え、この異形の地には相容れないことを決定づける。
駄目だ、ボクはここには居られない。
まだ帰るべき場所がある。
あれだけ厭世的な思考を巡らせていたボクは、いつの間にか現世に帰ることを望んでしまっていた。
ああ、この一歩を踏み出せば、ボクの異世界探訪は終わりだ。
あまりに短くて、そして無意味だった。
さよなら。
「――あの、閉門の時間ですが、参拝なさいますか?」
巫女さんの呼びかけにより、ボクは正気に戻る。
異世界から現世へ呼び戻されたのだ。
「いいっ、いえ、け、結構です」
慌てふためきながら両手を前に出し否定して、その場を後にする。
きっとあの巫女さんは不思議に思ったことだろう。
ぼーっと長い間、楼門の前で突っ立っていたのだから。
もちろんそれでは印象が悪いので日女という漢字が当てられたのだろう。
生田神社に祀られている神様と洪水の故事が関連するのかはわからないのだけど、あの神様はきっと、そういうことだ。、
結局、戻ってきてしまった。
散々嫌がっていた排気ガスと油まみれの世界に。
甘ったるい白い煙と、苦い灰色じみた煙が混じり合う生の世界だ。
腹の虫が鳴った。
ボクはまだ生きているのだ。
生きていて、良いのだ。
「今日もまた異世界へ行けなかった」
ボクは重い足取りで駅へと向かう。
――いやその道中で寄ったお店の塩ラーメンが美味しいこと美味しいこと!
濃い味付けで透き通るような黄金色のスープに、ネギとチャーシューのシンプルなスタイルが食欲を掻き立てることこの上なし。
なんだ、この世界もまだ捨てたもんじゃないなって。
いやあ、今日はいい日だった。
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