あの日の続きは異世界で -関西転生案内-

いずも

生田神社にて甘言を弄す その1

「今日もまた異世界へ行けなかった」


 今日は良い日だったと言えるのはどんな日か。

 もちろん個人の裁量によるところが大きいが、概ね『良いことがあった日』か『何も悪いことが起きなかった日』であろう。


 前者であれば気分は上々だ。晴れ晴れとして家路につく。

 そうはいっても毎日がハッピーなんて奴は頭がお花畑の奴だけだ。

 では、後者も良い日といって差し支えないのだろうか。

 後者は本当に良い日だったと言えるのか。


 何もなくて良かった、などと言うのは本当に良かったのか。

 それはただの『どうでもいい日』ではないのか。


 そのようなどうでもいい日を繰り返すことに一体何の意味があるのだ。

 どうでもいい日などさっさと終わらせてしまいたい。

 生き永らえることに幸福など微塵も感じないボクは、命の灯を吹き消して新たなる人生を夢想する。


 それは己の理想の在り方。

 望むべき楽園。

 異世界。

 誰かがそう呼んだ。

 その場所を目指して、ボクは逝くのだ。逝きたいのだ。


 かそけし自称ルポライター、阿納桧都月あのひの つづきという人間は、つまりボクは、異世界転生に懸けていた。


 輝かしき未来を捨て、前途多難な道を目指すなんとも後ろ向きなボクという人間について少しだけ触れておこう。


 高校卒業後、どこかに所属している記者ではなくフリーのライターとして様々な場所に赴いては現地取材を行い、それをまとめて記事にしている。

 パワースポットなんかを巡っているのだ。

 主戦場はネットのいわゆるブログのようなもの。

 収入は……雀の涙である。


 おっと、哀れみの目を向けるのはやめてほしい。


 そりゃ異世界転生に懸けたくもなるよなって同情の声を上げるのもやめてくれ。

 それはちょっと心に刺さる。

 本人は楽しくてやっているのだから、周りがあれやこれやと口を酸っぱくして人生の教訓を押し付けてきても困る。


 芳紀まさに十八の若者には古老のどんな金言も響かない。

 ボクはありのままの自分で生きたい。

 そして辿り着く最果てが異世界なのだ。


 現世は牢獄である。

 こんな世界に怒り、こんな世界を嘆き、こんな世界に絶望している。

 今日もまた、死に場所を求め彷徨っているのだ。


 阪急神戸三宮駅の東口から人波に押し出されるように階段を下っていく。

 大阪の梅田駅から30分程度、京都の河原町駅からでも70分くらいで到着するこの場所は、 に思い悩んでやがて至る思考の終着駅である。


 といっても本当に終点ではなく、新開地駅まで続いているのだけれど、多くの人間が下車する三宮を過ぎた後の車内は本当に空虚で、何かを考えるには無機質な雑音と機械的な振動が大きすぎるのだ。

 息苦しい人混みの中に居る方がより生を感じられ、降り過ごしたその先は死を感じるというよりも死そのものだ。現世に居ながら死んでしまっては意味がない。

 ……これはもちろんボクの個人的な感想であり、三宮駅で下車しない人に対してどうこう言うつもりはないことに言及しておく。

 皆一様に同じ方向を目指し階段を降りていく人の群れの中、ボクだけが何も定まっていない。目的地も、生き方も、死に様も。


 道を歩くと、最近よく鼻をかすめる不快な匂いが通り過ぎる。

 いわゆる『電子タバコ』だの『加熱式タバコ』と呼ばれている存在で、詳しい構造は知らないけれど従来のタバコと違って副流煙による周囲への被害はほとんど無く、ポイ捨てによる火事なども起きないという。


 しかしボクにはよくわからないのだ。

 どうして大人はあんな甘ったるい匂いのする煙を撒き散らしているくせに「煙草は大人の嗜み」みたいな顔をするのか。

 そんなものに依存してまで生きていたいと思うのは、どうしてだろう。

 くゆる白煙に纏わり付かれているみたいで気持ちが悪くなり、逃げ出すように歩き出す。


 ただなんとなく誰か同じ方向に歩き、狭い間隔で置かれている信号に阻まれては苛立つ。

 目的地なんて無いのだから、わざわざ立ち止まらずとも良いはずなのに。

 自分に悪態をつく。


 脳内では擬人化でよくある、虫歯菌のような真っ黒な全身タイツで角を生やしたボクが道行くボクを囃し立てる。言い返す天使などココには存在しない。

 大通りを北上していくと、焼き肉とラーメンの看板があちこちに見える。客引きの下衆な笑顔を見ないように空を見上げながら歩いていたら前の人にぶつかりそうになる。


 ――赤だ。


 細道へ入っていく車を見ながら、もし前の人が居なければこの車に轢かれてしまっていたのだろうかとか、そしたら異世界転生出来ていたのかもしれないなどと考えた。

 ボクの命を救ってくれたはずの前方の背広が急に憎らしくなった。

 ただの逆恨みだ。

 もし本当に車に轢かれたとしても、そんな方法で異世界転生出来るのは作り物の話の中だけだ。異世界へ行きたいのなら、それなりの場所でそれなりの儀式が必要となる。

 例えば横断歩道の白線部分だけを歩くみたいな、子供じみた制限プレイの果てに辿り着ける裏技のようなもの。

 そう、それは異世界への通過儀礼。


 信号が青に変わる。


 歩く度に食べ物の看板が誘惑する。油のツンとした匂いが鼻にまとわりつく。

 さらに中華料理に欠かせない甘酢あんを仕込んでいるようななんとも言えない香り。酢豚で食べるくらいなら何も思わないが、こうも大量に吸い込むと咽るような感覚に陥る。


 食い倒れの街といえば大阪だが、この神戸も充分食い倒れの街と呼べるのではないか。

 臭いは強くなる一方で気分が悪くなり、一刻も早くその場から離れたかった。

 制限プレイなど一瞬で崩壊だ。


 早足で駆けていくが、一歩一歩の足取りが重い。

 その理由が上り坂であると気づいたときには山手幹線との交差点まで辿り着いていた。

 しまった、と気付いたときには遅く、そのまま引き返して再び油まみれの空気を吸うには体力が持たない。

 回り道して駅まで降りよう。

 そう思って、ふと思い出した。


「――生田神社」


 神戸の中心部に存在している有名な神社であり、生田さんの愛称でも知られている由緒正しき神社である。

 地元の人間ではないのでそのような親しみを感じたことは無いのだけれど、以前訪れたときは周囲を木々に覆われ都会とは思えないような雰囲気だったので、何となく記憶に残っている。


 あの厳かな雰囲気は儀式を果たすのにおあつらえ向きではなかろうか。

 ボクの心は躍り上がった。

 異世界への扉が開かれるのだ。

 高揚せずにはいられない。

 辛かった上り坂から一転、三車線も四車線もある道路の隅っこで小さな影が西へ向かう。

 スピード狂を横目に、軽い足取りで神聖な社へと向かうのだ。


 灰色の建造物が立ち並ぶ路地裏に突如として緑が現れる。壁に沿って木々が植えられており、ひと目で生田神社だとわかる。

 昔誰かから「洪水の故事によって松は一本もない」と聞いたことがあるが、見分けが付くほど植物に詳しいわけでも関心があるわけでもないので上の空で聞いていた。

 もちろん今思い出してみても新たな発見は何もない。


 ぐるりと反時計回りに南下して、生田神社の正面まで歩いていく。

 下り坂をゆっくり進んでいると、日本人よりも外国人観光客の多さに驚く。

 京都でもそうだ。

 学生と観光客しか存在しない都市だが、その観光客も老人と外国人が殆どを占めている。謎の訛りと聞きなれない外国語は異国情緒あふれる、まるで異世界だ。


 ……あれ、異世界は京都にあったのか。

 異形の顔つきで言葉の通じないオークやエルフみたいな奴らが存在するし、丸竹夷二押御池まるたけえびすにおしおいけなんて呪文の詠唱があるし、川沿いの地下ダンジョンから抜け出た先にいる托鉢僧侶はきっとセーブポイントだ。


 京都の話は今はいい。

 それより目の前の生田神社だ。

 朱色が映える正門と、奥に少しだけ見える巨木の緑が鬱陶しい灰色の建造物を遠ざけて、まるで異世界へ誘われるかのようだ。


 といっても駐車場に止まっている車が黒い煙を撒き散らし、砂利を踏みつけて出ていく様子は否応なしに現実へと引き戻される。

 それに正門の前にはやんちゃな若者が座り込んでいて、電子タバコではないホンモノのタバコを口に咥え、真っ白とは言えない灰色の煙が宙を舞う。

 その横を通り過ぎる間は息を止めていたが、それでも残り香が衣服についたのか彼らから離れても鼻を突き刺す。

 苦く、苦しい、灰の匂いだ。

 薄汚れた、現世の匂いだ。


 石鳥居を越え中に入るとさらに朱色の木鳥居があり、その奥には楼門があって拝殿、本殿と続いていく。

 鳥居とか、よく異界の門として扱われてあちら側と此方側を分かつ境界線の役割を果たすと言うではないか。

 ならば踏み入るだけで、で向こう側の世界へ旅立つことが可能ではないのか。


 死に場所を求めているといっても、具体的にどうするとは考えていなかった。

 首でも括れば良いのか。

 入水自殺でもすべきなのか。

 いすゞのトラックにでもハネられれば良いのか。


 無策でただ歩き回っていたボクは、最も安易で不確実な、楽観的な主義主張により異世界へと赴く方法を選んだ。

 すなわち、この楼門を抜けた先に、異世界が広がっているという可能性。

 ボクは水に足をつけるように慎重に、その門をくぐって大きな一歩を踏み出した。

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