お初天神で道に迷いて心を惑う その1

「今日もまた異世界へ行けなかった」


 阪急河原町駅から電車に飛び乗る。

 いや正確には隣駅の烏丸駅の方が近いのだが、始発から乗ることで確実に座りたいという理由で800メートルくらい遠回りしている。

 この余分な時間と労力を別のエネルギーに変換できたら良いのに。

 そんなことを思いながら、ボクは約40分間瞑想して終点の梅田駅に到着する。


 梅田の地下ダンジョンの危険性についてはもはや語る必要もないことだが、実は地上に出てからも大変なのだ。

 京都のように碁盤の目であれば東西南北がはっきりしており、通りの名前から判断してある程度とは知らない場所でも方角に沿って歩いていける。

 しかし阪急梅田駅、JR大阪駅付近は高層ビルが立ち並び周辺は常に再開発で工事中、道も複雑で自分がどの方角を向いているのかさえ見失う。


 例えば「キタ」と「ミナミ」なんて言われても、住んでいない人間にとってはどっちも似たような町並みでただの飲み屋街なのだろうという知識しか持ち合わせていない。

 百貨店も複数あって結局自分がどこにいるのか、地下だろうが地上だろうが混乱してくるのだ。

 もちろん京都も知らない人間にとっては同じかもしれないが、景観に関しては条例がしっかりしているので大まかに「京都タワーが南側、御所が北側」と覚えてしまえば怖くない。

 思えば神戸だって海側と山側で南北は判断できるし、大阪にも実は簡単な攻略法があるのかもしれない。

 それについてはおいおい調べていこう。


 さて、ボクがそんな大阪にやってきたのには理由がある。

 パワースポットについて記事にしていると言ったが、話題になっている場所には一度くらい訪れておく必要がある。

 なぜならそこが異世界への入口になっているかもしれないからだ。

 くどいようだが、ボクは異世界へ行きたいのだ。


 不慣れな土地だが何度も訪れていると自分なりの攻略法がある。

 阪急梅田駅から地上に出て、ヨドバシカメラを通り過ぎJR大阪駅を目指す。適当な階段から登って北側の広場より大阪駅に突入する。


 そこには風船でできた、というとメルヘンのイメージが強すぎるのであえて俗っぽさを醸し出すためにいうと、縁日のスーパーボールみたいな素材の、熊みたいな構築物が足を伸ばして座っていて、口からは水を吹き出している。

 マーライオン的なものを意識しているのだろうか。

 そもそも全身明るめの緑色なのが意味不明すぎてキツイ。

 こんなところで異世界感は出さなくていい。


 その変なのを横目に駅を突っ切ってサウスゲートビルへ向かう。

 すると空を隠すようにそびえ立つ高層ビル群が軒を連ねるので、それらの足元を進み南下する。


 終わらない工事中の景色を眺めながら横断歩道を渡るとマルビルという名前を裏切らない建物が見えるので、それを右手にさらに南下。南下していると自分では信じている。

 道沿いに歩くと街路樹や植物が多く植えられている一角に出くわす。道路にも中央分離帯の役目を果たしている植え込みがあり、一瞬大阪であることを忘れさせてくれる。


 しかし流石にこれらの街路樹でビルを隠すまではいかないか。

 陰で立ち止まり、両手で景色を切り取るように四角を作る。

 どうやっても都会らしさは消せない。

 それは良いことでもあり、良くないことでもあった。

 通り過ぎる旅行者は異国の言葉で会話する。

 英語に中国語、韓国語に、……おっと、最後のは関西弁だった。


 再び歩き出し、大通りに出る。金融機関と証券会社の看板が見えて左折する。

 この時点ですでに方角など意識していないし、道なりに進んでいるだけだ。

 やがて地下に降りる階段が見える。

 東梅田駅。

 ……おや?

 その奥に見慣れた梅田駅が見えるな。

 これ、大阪駅周辺をただぐるりと一周しただけだ。


 今度は地図アプリを見ながら方角を見誤らないようにして再び南下する。

 そういえば目的地に関する情報が一切無いではないか。

 液晶画面を一度だけスライドさせる。

 現れたるは徒歩圏内で行けるお手軽パワースポット、曽根崎の露天神社。

 通称お初天神。

 曽根崎心中の舞台といえば通じるだろうか。


 今更そんな超有名所を、と思われるかもしれないが、こういうのは有名すぎると逆に誰も手を出さないのだ。

 だからこそ、あえて今取り上げる。

 これがフリーのルポライターならではの利点である。

 あわよくば精神全開でいこう。


 排気ガスを撒き散らし、信号が変わるのを待っているのは競走馬だ。鼻息荒く、行儀よく四車線の白線上で今か今かと待ちわびている。

 ゲートが開かれる。我先に駆け抜ける馬にマイペースに距離を取る馬、車線変更して我が物顔で縦横無尽に駆け回る馬。

 僅かな隙間をすり抜けていくタクシーはまるで本物のスリのような見事な運転さばきだ。

 すり抜けの語源は「滑り」が変化したもので、巾着切りのスリは盗むときに体を「擦り」つけることが語源だと言われている。


 なんともおっさん臭い思考を巡らせていると我ながら思う。

 昼間から酔っ払って千鳥足で前を行く中年男性を見れば、たまにはそんなことを考えてしまうものだ。

 鴨川とかでもたまに見かける。本当にたまにだが。


 梅田駅を南東向きに歩いていくと大きな道に出る。その道路に沿って南下していけばもう着いたも同然だ。

 ただ大きな道路は信号も多く、放置自転車などであまり道幅が広くないため、商店街へ入り隣の細道から南へ向かう。

 パチンコにカラオケの派手な看板が目を引くが、興味がなければ目障りでしかない。


 細道は車がすれ違えるかどうかというくらいの道幅で、基本は一方通行となっている。だいたいよくある路地裏だが、到るところに飲み屋と夜の店があるのが特徴だろうか。

 大阪駅や梅田駅の南だから「ミナミ」かと思っていたが、どうやらこの界隈も「キタ」と呼ばれているらしい。ミナミはもっと南側の難波周辺のことだった。

 テレビでよく見る駄目な大人というものに既に三回遭遇した。内一回は話しかけられたので全力で逃げた。


 地蔵を祀るにしては少し大きめ、寺社としては少し狭すぎる屋根付きの祠のようなものが十字路の左奥に現れる。

 中を覗くと巨大な石が奉られており、神社跡のようなことが書かれていた。

 その向かい側にはホテル――普通の意味で、だが――があって、この道を右折して進めばお初天神に着くはずだ。


 歩いて五分もしないうちに入り口は見えた。

 大通りに出る手前、いかにも立ち並ぶ普通の建物の一つと言わんばかりに存在していた。

 生田神社もそうだが、都会のビルに囲まれた中で当たり前のように存在しているのが面白い。何百年もの間、形を変えず人の往来を眺めてきた神様がそこら中にいる。

 目まぐるしく変わっていくこの世界こそ、見守る神様にとっては異世界なのかもしれない。


 お初天神について、どんな情報をお届けしたら良いのだろう。

 中はいたって普通の神社である。社務所があって、手水舎があって、境内には本堂がある。

 特徴としては、風でなびく真っ赤な旗には「恋人の聖地」などと謳っている。

 結び所にはハートをあしらった型があり、おみくじが結ばれている。

 あとご当地キャラとして萌キャラのパネルが飾られている。

 この辺は時代に迎合しているというのか、商魂たくましいというべきなのか。


 本堂で鐘を鳴らして賽銭を放り投げる。

 真剣にお祈りしていると、本気で恋愛成就のために来た人のようだ。

 ボクの前の人など尋常ではない柏手を打ち、すがるように祈っていた。

 あまり恋愛に熱を上げたことなどなかったが、これほどまでに祈らなければならないものなのか。

 それとも、それくらいご利益があるのだろうか。


 参道は南北に通り抜けられるようなっていて、北に向かっていると、曽根崎心中の簡単なあらすじが書いてあった。

 教科書で単語としては耳にするが、悲恋の物語くらいというイメージしか持っていない。

 あらすじとしては、こうだ。


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 結婚を約束していた徳兵衛とお初という二人がいた。

 しかし、徳兵衛の勤め先の主人が勝手に別の縁談を進めていく。

 継母に大金を渡して強引に縁談を進めようとしていることを知り、徳兵衛はお金を取り戻す。

 それを返そうとする途中、兄弟のように親しい九平次の頼みでそのお金を貸してしまう。

 九平次は期日になってもお金を返さないどころか、徳兵衛は店の金を使い込んだと嘯いて、周囲もこれを信じてしまう。

 主人にはお金を返せず店にも戻れない。九平次にも裏切られ、徳兵衛は追われる身となり姿を隠す。

 お初に匿われた徳兵衛だったが「自分はもう生きていけない、生きて結ばれないなら天国で夫婦になろう」という言葉にお初も心中する覚悟を決める。

 そしてここ曽根崎の地で二人は連理の松の木の下で心中する。

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 端折ってしまっために自業自得の徳兵衛が暴走して無理心中を図ったみたいな描写になってしまったが、大まかな流れとしてはそんな感じだ。

 物語を思い起こすために下げていた視線を上げると、そこはボクの知っているお初天神とは少し違っていた。

 ……これは、もしや。


 異世界へ向かうということは、徳兵衛やお初と同じなのだ。

 この世の未練をあちら側の世界で果たすために旅立つ。

 その刃を誰かに突き立てる覚悟はあるのか。

 その刃を受け入れる覚悟はあるのか。

 ボクの惑う心はそのまま異世界へと導かれるのだ。

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