第5話

「あなたは


殺意の意味を本当に知った」






「トシさんと、あのおじさん、どういう関係なんですか?」


 はるかは平田に事務所で、聞いていた。


 二カ月たった。


 トレーニングウェア姿が板についてきた。


 しなやかにつきはじめた筋肉が、半そでの腕から、 ハーフパンツからのぞく脚から見える。


 トシ特製の食事をおかわりするまでになった。


 「思っていたより、身体が強かったのね」


 トシが感心した。


 顔も知らない、喧嘩自慢、力自慢だった父の血だろうか。


 はるかは、自分でも知らなかったが、しなやかで強靭な身体をもっていたのだ。


 穴掘り、ランニング、綱登り、石投げ、ダッシュ。


 「筋トレはね、意味ないの」


 トシ独自の理論があるらしいメニューを、こなせるようになった。


 石はとにかくとことん、投げさせられた。


 今じゃ、命中率まで上がっていた。


 おかげで確かに、はるかの背筋は発達し始めていた。


 「恋人だよ」


 平田は、男とトシの関係を簡単に説明した。


 ゲームをしながらだが。


 「トシの口から、あの男の悪口は止まることなく流れてくるが、一度だって別れたとは聞いたことはないね」


 面白そうに平田は言った。


 「仲悪いのに」


 不思議そうにはるかは言った。


   ママとママの恋人達は、別れるまではもっと仲良しだった。


 恋人ってそういうのじゃないの? はるかは思う。


 「男と女の関係は、はるかちゃんが思っているより深いわけよ。まぁ、トシのあの性格じゃ、アイツの絶対自分は損をしないやり方は、気にいらないんだろ。あの男なりに、トシのことを考えてはいるんだがね。一度でも損得なしで、トシに何かしてやりゃ、トシなんか簡単に落ちるのにな。まだまだ、女を分かってないねぇ」


 教えてやる気もないけどな。と平田は笑う。 


 「良く分かりません」


 はるかは首を傾げた。


 「その年で分かりすぎたら面白くないから、それでいいさ」


 平田は真面目な調子で言った。


 目は笑っていたが。


 はるかは、このガラスのように目がキラキラするおじさんの正体を、掴みかねていた。


 いつも何かで遊んでいる。


 トシは、はるか以外にも仕事があるらしく、バタバタ働いていたり、はるかへの指示を平田に託して、どこかへ行っていたりした。


 だが、平田が仕事をしているのを見たことはない。


 「何で平田さんは仕事しないの」


はるかが聞いたら、平田は大笑いして、代わりにトシが答えた。


 「邪魔だからよ」


 だけど、トシはそう言いながらも、平田にどこか敬意を払っているのを、はるかは気がついていた。


   

 

ぽんぽん、好きなことを言いながら、トシは平田といる時楽しそうだった。


 「トシさんは平田さんが好きなんだと思う」


 はるかは思ったままを口にした。


 「ああ、トシには誰もいないからな。人間迷惑かけてくれる人間が必要なんだよ」


 「誰も?」


 平田の言葉に、はるかは首を傾げた。


 「おっと、口が滑った。全部終わって、はるかちゃんが生きていたら、トシから教えてもらいな」


 生きていたら、


 さらっと、言われた言葉にはるかは、きゅっと唇を噛み締め、胸に手をやる。


 この鼓動がまだ続いていたら。


 「……で、今日の練習は、どうしたんだい」


 平田ははるかの様子を見なかったように言った。


 「トシさんが、今日から実戦練習だから、ここで待っておけって」


 「実戦? 何させる気かね」


 平田がゲームをしている手を止めた。


 本気で興味をもったらしい。


 「さぁ?」


 はるかも何も聞いていないのだ。


 そこへドアがバタンと開いて、トシが帰って来た。


 「行くわよ! はるか!」


 はるかの手をひっぱる。


 「オレも行く!」


 平田が楽しそうに言った。


 「ダメです! 邪魔だから」


 トシはぴしゃりと言った。


 「電話番でもしていて下さい」


 トシははるかを引きずるように出て行った。


 「……さて、あの子に何を、どうやって、教えるつもりだ? トシ」


    




 平田は、ゲームに戻りながら呟いた。


 「そして、それは本当にオマエが、あの子が、望むことなのか?」


 平田の目が興味深そうに光った。


 「じゃあ、頑張って」


 トシは言った。


 


え?


いきなり?


 


はるかは思った。


 次に感じたのは腹への、衝撃と熱さ、だった。


 それが痛みだと知るまでに少し時間がかかった。


 はるかは殴られたことがなかったからだ。


 よろめくはるか。


その顔にパンチがとんできた。


 頭の中を抜けるような感じがした。


 さらに、もう一発。


 はるかは膝をついていた。


 自分でもわからぬ間に。


 そこへ何かが、頭の中身を揺さぶった。


それがパンチだと言うことも、わからぬうちにもらっていた。


 はるかはリングにのばされていた。


 いやにはっきりと、冷たいリングの感触を、背中で感じていた。


「立ちなさいはるか」


 トシの声がした。


 はるかは、ふらふらになりながら起き上がった。


 脚が言うことを全くきかない。


 自分の脚ではなく、他人の脚のようだ。


 「トシさん、ムリすぎるよ……。この子素人じゃないですか」


 トシの知人だという、ジムの会長の声がした。


 「この子はね、仇討ち遂行者よ。やらなきゃ死ぬの」


 「マジ! ホントに仇討ちなんてするやついるのかよ!」

  トシの言葉に、会長はうめいた。


 「……どうせ死ぬんだったら、オレがここで殺しちゃっても、いいわけだ」


 はるかの前でソイツは言った。


 今、はるかを殴っている男だ。


 「……そうよ。責任は私が持つし、はるかは一筆ちゃんと書いているわ。今日のスパーで死んでも構わないって」


 トシの言葉に、はるかはそう言えば何か書かされたなぁと思った。


そう言う紙だったのか。


 「アイツはマズイですよ。マジでしますよ。トシさん……」


 会長の慌てる声がした。


 それが遠くで聞こえる気がする。


 なんか、水の中にいるみたいだ、はるかは思った。


 「だから、いいのよ。だから彼を選んだの」


 トシは言った。


 そう、トシはこのジムに来た時、ソイツを指差した。


迷わず、選び出した。


 「ちょっとアルバイトしない?」


 そう声をかけた。


 「スパーリング。女相手の。手だけ。蹴りは無し。かんたんでしょ」


 トシの目は間違いがなかった。


 必要な人間を、選び出した。


 「女殴って、金もらえるのかい。最高だね。世の中常に、そうあるべきだ」


 にやりと、ソイツは笑ったのだ。


 ジムが閉まってからスパーは行われた。


 そして今、こういう状態となっている。


 「それじゃ、遠慮なく殺しちゃおう」

 ソイツは言った。


 再び熱さと衝撃が、はるかを襲う。


 グローブをつけていても、ヘッドギアをつけていても、その攻撃は容赦なかった。


 体重こそ軽量級とは言え、殴り方を知っている人間の攻撃は骨身にしみた。


 「はるか、死にたいなら、今死になさい。そうじゃなければ、何とかしなさい」


 トシの冷たい声が妙にクリアに聞こえた.


 はるかは必死で目をあけた。


 口の中に血の味がした。


鼻血と、口の中が切れた味だ。


 マウスピースはどこかへ行っていた。


腫れてふさがりかかった目に、殴り疲れてロープにもたれて休憩しているソイツが見えた。


 笑っていた。


 はるかに反撃されることもないと安心して。


 無抵抗な人間を殴る楽しさに酔いしれて。


 


 面白い?


 私を殴ることがそんなに面白い?


 


 はるかの中で何かがこみ上げた。


 痛みが、恐怖が、音が、消えて行く。


 はるかは知っている、この感覚が何なのか。


 


 美しかった母が、無残な姿になりはてた瞬間、その母をこの腕で抱きしめたあの瞬間、悲しみよりも早く湧き上がってきたこの感情。


 


 怒りと。


 殺意だ。


  


 はるかは喚いた。


 その声は、ジムの中に響いた。


 それは人の言葉ではなかった。


 それは、呪いと悪意の言葉。


    


 はるかの中から溢れ出す、狂気。


 


 「なんだよ、この女……おかしくなったのか?」


 ソイツは一瞬、怯んだ。


 はるかの狂気にのまれたのだ。


 はるかは獣のように、血まみれのまま四つんばいで唸った。


 そして、犬のように口を開いてソイツの喉を噛み切ろうと、飛びかかった。


 呆然としたソイツは、攻撃するのではなく、はるかを押しやろうとした。


 怯えたのだ。


ソイツが伸ばした腕にはるかは喰らいついた。


 獣のように。


 次に喚いたのはソイツだった。


 必死で、右腕に歯を喰いこませるはるかを、引き離そうとするが、はるかは離れない。


 何度殴られても離れられない。


 グローブを嵌めた手では引き離せない。


 


 「ふふ、人間の噛む力って実はすごいのよ。噛み千切られるかもね」


 トシがのん気に言った声も、はるかには聞こえない。


 はるかは腕を喰い千切ろうとしていた。


ただ喰い殺そうと、思っていた。


ぎちぎちと、筋がきれる感覚が、口の中でした。


 


 泣いたのは、ソイツの方だった。


 「許してくれよ……」


 「あら、人を殺す度胸はあるくせに、腕を噛みちぎられる度胸はないのね」


 ふふふ。


 トシは笑った。


 仕方ないわね、と言いながら、リングの端においてあったスパーリング用のうがいの水を手にし、はるかの頭からかけた。


 冷たい水にはるかは正気に戻った。


    




    

 ソイツの腕からはるかの歯が抜けた。


 はるかの口の周りが血まみれなのは、決してはるかの血だけのせいではない。


 「骨までいってるんじゃないのか、凄い深いぞ!」


 会長がタオルでソイツの腕を止血しながら慌ていた。


 ソイツは泣きべそをかいていた。


 「死にはしないわよ。おおげさね。男の子でしょ」


 糸の切れた人形のように、崩れ落ちたはるかを、血がつくのも厭わずだきしめながら、トシは言った。


 ヘッドギアを外してやり、タオルで血まみれの顔を拭う。


 ぐったりと、身体を預けるはるかにトシはささやいた。


 「いくら身体を鍛えてもダメなの。それだけじゃ。戦うためにはそれがないといけないの」


 優しく優しく、はるかの髪をトシは撫でる。









 「あなたは、


 殺意の意味を本当に知った」




    




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