第2話
「待っていて。私は私のために
あなたを殺す」
少女ははるかと言う。
読書が好きな大人しい高校生だ。
好きな本は「百年の孤独」。
周りの友達の誰もがそんな本は読んでいなくて、それがちょっとはるかの自慢だ。
「あんたは変わっている。きっと、作家になる」
母ははるかに何度もそう言った。
でも、はるかはまだ何も書いたことはない。
ただ、読むのが好きなだけだ。
特に勉強ができるわけでもないし、真面目なだけで、華やかなクラスメイト達の中じゃ、自分なんて、地味なだけだって言うのもわかっている。
「あんたみたいに本を読む人間いるのかなぁ。アタシの娘とは思えないね」
母は嬉しそうに、本を読むはるかに言った。
確かに、はるかほど本を読む少女はいなかった。
何でも読んだ。
学校の図書室の本は、借り尽くした。
中学卒業と同時にはるかを出産、そして十七歳で離婚。
女手一つではるかを育ててきた母親には、真面目で本を読むのが好きな娘が、自慢だった。
他に私、とりえがないからママは、そう言うのかな
はるかは、母の賛辞を少し醒めて受け止めていた。
でも、いつか物語を書きたいな。
そうは思った。
ママのために。
自分で本を読むことはないが、はるかのする本の話を楽しそうに聞く母のことを、はるかは思った。
母と娘は親友だった。
はるかは母を愛していた。
陽気で明るく気が強い。
おまけに美人で情にもろい。
そんな母を愛していたのだ。
母親である以上に。
「ママは、私の年には私がいたんだよね。私がいなかったら、もっと楽に生きられたのにね」
はるかは母に言ったことがある。
母は真面目な顔をして言った。
「楽じゃないね。今だって。でも、アンタなしの人生なんて考えられないよ」
母は陽気に、考えなしに陽気に、はるかの人生を描いていた。
「アンタはアタシと違ってさ、ちゃんと学校行って、卒業して、作家になるんだ。そしたら、アタシに素敵な家でも建ててくれるだろ」
母はよくそう言った。
はるかは、そんな未来を思い描けるほど、陽気でも考え無しでもなかった。
だから真面目に勉強して、行けるなら大学に行って、それから何か仕事をして、母を楽にしたい。
そう思っていた。
そして、いつか母のためだけに書くのだ。
ハッピーエンドの物語を。
「なんで悲しい話なんか読みたいのさ。そんな話どこにでも転がっているじゃないか」
母は、はるかが読んだ悲しい物語を聞かせる度、不思議そうに言ったものだ。
「頑張っている人間が報われなきゃ、何の意味もないね」
それが母の、物語の評価の基準だった。
はるかは現実的なハッピーエンドを思い描いていた。
はるかは秀才ではないが、馬鹿ではない。
家計を助けてバイトをしながら、しっかりと世の中を見ていた。
どうやって物が動き、どうやって売られて行くのか。
小さな商売をしよう。
はるかは考えていた。
働いてお金をためてママと店をする。
そのために大学で経営を、そして実地で商売を学ぶ。
そしていつか、ママに家を買ってあげるのだ。
小さな、でも素敵なお家を。
それがはるかのハッピーエンド。
「あんたみたいに可愛い子が、デートもしないなんて! バカで喧嘩するくらいしか能のない男なら話は別だけどさ、あんたみたいな良い子なら、賢い男の子が来るはずだろ」
母は嘆いた。
はるかは、男の子達には興味なかった。
ママの好きそうな、賢い良い子な男の子にも、自分の父親や何度も代わるママのボーイフレンド達のような、バカで喧嘩位しか能のない男にも。
母は、美人で陽気で、三十過ぎには見えない若々しさでよくもてた。
そしてすぐ棄てられた。
いつもいつも「あんたにパパができるかも」と言っては盛り上がり、すぐ夜ベロベロに酔っ払って帰ってきては泣き崩れた。
男を見る目が全くなかったし、いつもいつも、ダメな男にひっかかっていた。
パパもそんな男の一人だったのだろう。
はるかは顔も覚えていない父に、醒めた思いをもっていた。
母はすぐにまた恋に落ち、そしてまた泣き崩れた。
そしてはるかが慰める、その繰り返しだった。
母と娘は、それでも二人仲良く生きていた。
幸せだった。
ソイツがくるまでは。
ソイツがはるかと母の前に現れるまでは。
「はるかちゃん? ユミさんの言う通りだ。可愛いなぁ」
ソイツはニコニコして言った。
優しそうな人だ。
はるかは少し驚いた。
母のボーイフレンドに、「正式に」会ったのは初めてだった。
今までの母のボーイフレンド達は、娘に会ってくれと言われた段階で、別れを切り出してきたからだ。
母が、まともな人間と付き合うわけがないと、はるかは確信していただけに、ちょっとビックリするくらいマトモな人間だった。
後、ビックリしたことは、本当に若かったことだ。
はるかと十才位しか、かわらなかった。
「ゲーム理論」と書いてある本を読んで、母とはるかを待っていたのにもびっくりした。
今までの母のボーイフレンド達には、聞いている限り、そういう人はいなかったからだ。あの人達が、一冊でも本を読んだことがあるかどうかも怪しいと、はるかは思っていた。
「これ? 面白いよ。経済にも応用されている理論だ。はるかちゃん、こういうの興味ある?」
「この子はどんな本でも読むからね」
母は、自慢気に言った。
ソイツは、「そう」とさらに柔らかに、笑った。
「ユミさんの自慢の娘だものね」
春岡。
ソイツはそう名乗った。
春岡比呂。
それが、柔らかな笑顔の悪魔の名前だった。
はるかは今でも、春岡の微笑を思い出す度、全身に震えがはしる。
悪魔とは、あれほど優しく笑えるものなのだと。
「エライ人になるよ。ヒロくんは。今はまだ色々勉強中だけどね。はるかも見ただろ、あんな難しい本とか読んで勉強しているんだよ」
母は、何をしている人なのかはるかに聞かれると、そう言ってうっとりとしていた。
「しかも強いんだよ。大学の時ボクシングで、全国大会にも行ったんだよ」
母は付け加えた。
どうしても、母の男の基準には腕力がかかせないらしかった。
少し嫌な予感はしたが、春岡は礼儀正しく、楽しく、まるで兄のように、はるかに接してくれた。
話題に豊富で、言うことに説得力があった。
世界の経済、日本の経済、どういった業種がこれから先伸びていくか。
はるかにもわかるように、説明してくれた。
「月に決まった金額を貰っているサラリーマンなんて、搾取されているだけなんだよ。搾取される側じゃなくて、搾取する方にまわらなきゃね。僕は月給貰って、搾取されているのも分からず、尻尾ふるような犬にはなりたくないんだ」
春岡が柔らかな口調で言ったので、はるかはその言葉に見えている肥大したエゴに気がつかなかった。
いや、気が付きたくなかったのかもしれない。
母が夢中である恋人が、やはりダメな生き物であることに。
二十代半ばの春岡が、大学を卒業しているのにも関わらず未だに働いていないこと。
実家のすねかじりであること。
一応老舗の和菓子屋の若旦那だということになっていたが、働いているようには見えなかったこと。
それさえも、見えなかった。
いや、気がついてはいたのだ。
ただ、今までの恋人よりかはましだと思っただけだ。
本当はそうではないことに気がつかなかった。
母の様子がおかしくなっっていたのに。
塞ぎこんだり、苦しそうな様子を見せて仕事に向かったりした。
「病気なの?」と聞くと弱々しく首をふった。
陽気で明るく若々しかった母が、一気にふけこんだ。
今思えば奇妙なことに、夏なのに、クーラーもない部屋で、母はずっと長袖ばかりを着ていたのだ
「暑くないの?」
聞くと、それに対しても、また、弱々しく母は首を振った。
春岡と関連づけて考えることは、できなかった。
母と春岡と、三人でいる時、本当に楽しかったのだ。
春岡は母を宝物のように扱い、はるかにも優しかった。
だから、だから。
はるかや母に見せる細やかな気遣いと同じ位の繊細さで、顔や見えるところに傷など付かぬよう、仕事にぎりぎり行けるよう、母に春岡が暴力をふるっていたことを、はるかは気がつかなかったのだ。
あの日、母がボロボロになって帰ってくるまで。
美しかった母の顔が、原型を留めないほどに、破壊されていた。
自慢の長く美しい髪が、引きちぎられていた。
ありえない方向に、腕が曲がっていた。
全ての指が折られていた。
どうやって帰って来たのだろう。
こんな身体で、こんな状態で。
ドアを開け、母を抱きしめ、崩れ落ちながらはるかは叫んだ。
何が起こったのかわからなかったのだ。
母は笑った。
いや、笑顔を作ることなどできなかったが、笑おうとした。
「ごめんね」
歯のなくなった口で、血を噴出しながら、母は言った。
「あんたのお金にだけは、手を出させない」
つぶやいた。
意味がわからなかった。
母の言葉も。
この状況も。
「アタシの子とは思えないよ。賢くて優しい……」
そう言ったのだと、思う。
口も満足に回らないくらい、母の顔面は破壊されていたから。
そして、母は、はるかの腕の中で死んだ。
裁判で知った。
母は、五時間にもわたる、拷問としかいいようのない暴力に、さらされていたのだ。
春岡は、母からお金をせびりつづけていたのだ。
姉御肌の母は、最初は気にせず貸していたのだろう。
困った人を、放ってはおけない母だった。
結果、はるかと二人で自分達が困っても。
「なんとかなるさ。なんとかするし」
母は、良く笑ってそう言った。
だが、春岡の無心は、やむことがなかった。
彼に言わせたら、将来のための投資だった。
いずれ、はるかと母と三人で暮らすのだからと。
その時は、幸せになろう。
その為に、君達のために、僕はがんばっているんだ。
おそらく、春岡は本気でそう思ってはいたのだ。
良さそうな儲け話のセミナーに行くためのお金、儲け話の情報料、そういったものに、そのお金は消えたのだから。
ただ、自分が大変なことは嫌う。
「ボクのような人間がする仕事じゃない」
面倒なことを嫌う。
「誰かがすればいいじゃないか」
そんな人間に金儲けなどできるはずもなかった。
実家は裕福だったが、実家もとうに春岡に金を渡さなくなっていた。
母だってやっと気がついた。
だから、金を出すのを拒否するようになった。
すると、暴力が始まった。
はるかは不思議で仕方がなかった。
あの、気の強い母が殴られたままになったなんて。
それは、裁判で明らかになった。
人を殴り殺すことはできるのに、気の弱い春岡は、警察の取り調べにあっさり答えたのだ。
はるかに暴力をふるわれたくなければ、別れるな。と脅したと。
自分のことなら気丈に振舞える母の、数少ない弱点。
そして、もう一つの理由。
母が、自分の言う通りにしさえすれば、春岡は誰よりも優しい恋人だった。
酷い男に酷い目に合い続けた母には、信じられないくらい優しい。
母は人間を信じていた。
殴った後、必死に謝る春岡の言葉を信じたのだ。
だから、春岡が、自分を殺すまで殴るなんて、信じていなかったのだ。
殺されるまで。
だが、はるかのために貯めていたお金を、貸してくれ、と言われた時、母は拒絶した。
春岡は激昂した。
お前達のためなのに。
それがわからないなんて。
殴った、殴った。
母は拒絶した、拒絶した。
春岡は、自分と言う人間が、拒絶されたように感じた。
バカにされていると感じた。
バカにするな!
オレはこのままでは終わらない男だ!
何故、それが分からない。
お前達を幸せにしようとしているだけなのに。
殴っているのは、間違いを正しているからだ。
春岡は、思った。
何故分かってくれない。
髪をひきちぎりながら春岡は叫んだ。
指を1本1本折りながら春岡は泣いた。
こんなことはしたくないんだ。
動かなくなった母をだきしめ、春岡は慟哭した。
ごめん。
ごめん。
ごめん。
許して!
愛しているんだ。
あまりにも身勝手過ぎた
動かないままの母に春岡は恐怖した。
その場に母を残し、走り去る。
そして、母は起き上がったのだ。
そして、瀕死の身体で、愛する娘の待つ家へたどりついたのだ。
助けも求めずに。
ただただ、はるかのもとに。
ふらふらと路上を歩く、女性の姿が目撃されている。
すぐに春岡は逮捕され、簡単に自供した。
近年の犯罪率の増加により、スピード化されされた裁判制度のおかげで、あっという間に春岡の刑は決まった。
恐ろしく軽い刑だった。
老舗の若旦那で人当たりも良く、周囲の人間にも評判が良く、優しげな姿形の春岡は、裁判員達の印象が良かった。
弁護士は訴えた。
「彼は罪をおかしました。でも、それは検察が主張しているように、金銭目的ではありません。彼は、資産家の息子で、実家の経営する会社の、役員でもあるのですよ。彼はただ、恋人を失いたくなかっただけです」
春岡の実家も半分見捨てていたとは言え、殺人犯ともなれば話は別だ。
金を実家にせびっていたことも、それを断っていたことも、内緒にすることにしたようだ。
春岡のためではない。
家の名誉の問題だ。
息子が、バカなだけならいいが、女を殴り殺す変態では困る。
殺人犯だとしても、少しはマシな状態にしておきたい、と言うのが本音だろう。
「被害者は残念ながら恋多き女性でした。大人しい真面目な被告に飽きてしまったのも、仕方がなかったことかもしれません」
弁護士は、借金を断られる度に、母が暴力をふるわれていたことも、なかったことにする。
ただのお人好しのお坊ちゃんが、だらしない女にいれこんだあげく、棄てられて、殺人におよんだ。
そんな物語を描いてみせた。
将来有望だった若者が、水商売(たまに知り合いのスナックを手伝っていた)のだらしない女に騙されたあげく、心中未遂という風に。
[newpage]
そしてそれは成功した。
母に過去たくさんの恋人がいたことも、はるかと母と春岡が、仲良くすごす姿をたくさんの人が見ていたことも、春岡の有利にはたらいた。
はるかは知った。
それが正しくなくても、平気な人間達がいるのだ。
何一つ悪くないママを殺しても、それをなかったことにできる人間達がいるのだ。
春岡。
春岡の実家。
弁護士。
――法律は、正しい者の味方じゃない。それを理解しているものの、味方なんだよ――
はるかにいつか法律について説明し、春岡が語った言葉の意味を、はるかは知る。
はるかに、春岡の実家から、多額の慰謝料の申し出があった。
弁護士は、法廷で、はるかの母を侮辱した男は、親切めかして言った。
「受け取っておきなさい。天涯孤独の身、なんでしょう。民事で請求をしてもそれほどの金額は出ないよ。一人で生きていかなきゃいけないんだ、お金は頼りになる」
弁護士は分かっていなかった。
はるかは母の娘だった。
死ぬほどの暴力をふるわれても、娘のためになら絶対に折れようとしなかった女の。
瀕死の状態で娘に一目会うためだけに、立ち上がり歩き続けた女の。
はるかと同じ年で男に棄てられ、世間に娘と二人放り出され、それでも音も上げず戦ってみせた女の。
「いらない」
はるかははっきり言った。
弁護士は驚いた顔をした。
断られたからだけではない。
その声も、態度も、世間にたった一人とりのこされた少女のものではなかったからだ。
はるかは分かっていた。
はるかは調べた。
一生懸命、調べた。
法律を理解しようとした。
そして知った。
自分にも方法があることを。
この男は、その権利を奪うために賠償金を申し出ているのだ。
賠償金を受け取ったら、はるかはその権利を行使できない。
「私は仇討ちを申請します」
はるかは真っ直ぐに弁護士をみつめた。
弁護士は口をあんぐり開けた。
バカみたいな顔、はるかはそう思った。
「あの人に伝えて下さい」
はるかは言った。
あの人。
ママを殺したあの人。
ママ。
どれだけ痛かったの。
どれだけ苦しかったの。
ママ。
ママ。
ママ。
はるかは弁護士を通して春岡に告げた。
「待っていて。私は私のために
あなたを殺す」
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