第三話  愚かな羊は黄金の夢を見るか(後)


「遥来、お茶出して」

「ジュリちゃん! 鰹。鰹食べる?」

「お茶ですよ~」


 ここは日頃からこんな感じなのだろう。

 白猫のジュリを連れて更に奥へ消えた遥来は、しばらくして現れると冷たい麦茶と水羊羹を出してくれた。そして鰹のおやつでジュリを愛でた。岡谷の分はなかった。


「ゆっくりしてて」

「あ、はい」


 遥来と一緒になって戯れる気にもなれず、俺は静かに出された水羊羹を食べた。

 

「実害はないの?」

「家に、郵便物が届きます」

「引っ越しできる?」

「えっ?」


 相手は穏やかな口調のまま言うが、言われるこっちは焦る。


「引っ越し、っすか?」

「だって住所教えちゃったんでしょ? いけない子だなぁ」

「なに、ヤバいの?」


 遥来もジュリを抱えて加わる。岡谷の後ろからモニターを眺めているが、俺にわからない事も遥来にはわかるのかと思うと、これは素直に凄いと思った。


「普通はさ、情報を吸い上げたりウィルスばらまくためにやるんだよ。学生でしょ? お金もないし、大した秘密もないじゃない。なのに、日辻君は狙われているみたいだね。彼自身が」

「なに隠してるんだよ。あ!」


 遥来が声をあげた。


「プレゼント! なんかさ、プレゼント欲しくて住所教えたって言ったよね?」

「それだ!」


 岡谷も楽しそうに声をあげる。

 俺は一ミリも楽しくない。

 俺自体が狙われているだって? 恐すぎるだろ。


「もうここまで来ちゃったんだから言いなさい。助けてあげられるものも助けてあげられないよ?」

「そうだよ。恥ずかしがってる場合じゃないよ」


 岡谷と遥来の両方から言われ、俺は折れた。

 椅子の上で小さくなる。


「あの、その、メールが……一億円当たりましたって」

「はあぁぁっ?」


 遥来の怒号が響いた。


「馬鹿じゃないの? 信じたの、それ」

「信じた」

「欲張っちゃったねぇ」


 岡谷は笑っている。内心呆れているかもしれない。

 魔が差した。イタズラでも、万が一の可能性にかけて、返信してしまったのだ。


「とにかくこれからは欲出さない事だよ。軽い怪我で済んでよかったじゃない。でもなるべく早いうちに引っ越ししちゃいなさいね。住所バラまかれてるだろうから手を変え品を変えどんどん来るぞぉ。もちろんアドレスも変えてね」


 岡谷が言う後ろで、遥来がジュリに俺の事を馬鹿だと説明している。

 そうかもしれない。俺は、猫以下なのかもしれない。


「はい、終わり」


 電源を入れて手渡されたスマホは、以前とまるで代わり映えのしない、そのままの姿で俺の掌に収まった。


「うちのアンチウィルスソフト入れといてあげたから。サービス」

「ありがとう、ございます」

「ところでご飯作れる? 時給千二百円で頼めない?」


 ファッション以外は善い人全開の岡谷がまだ飯の事を言ってくる。


「買い物の時間も含めて、夕飯だけでも日に四千円弱だろ。一ヶ月で十二万、二ヶ月で二十四万。朝晩にしたら倍だから、引っ越し資金になるでしょ」

「えっと……」


 それは週七シフトの計算だ、と突っ込むよりも気になる事がある。


「貯金ないなら前払いしてもいいよ」

「あの、そんなに、ヤバいですか? 俺」


 岡谷が自分の席に戻った。


「業者じゃないからねぇ。新手だもん、日辻君が心配で眠れないよ俺」

「はぁ……」


 それはとてもヤバいんじゃないだろうか。

 警察に届けなかったのは、アレを受け取っているからだ。セキュリティー会社の警備担当が業者ではなく新手だと言うのが、ひたすら恐怖を煽った。

 俺は、何に手を出したのだろうか。


「どうしたの? ごめん、脅かしすぎちゃったかな?」


 岡谷が座ったまま長い脚で椅子ごと傍へ来て、麦茶を差し出してくれる。


「はい、落ち着いて。とりあえず端末からは追えなくしてあるから、もう大丈夫だよ。ついでにさぁ、次ちょっかい出して来たらうちにわかるようにしてあるから。サービス、サービス」


 麦茶を受け取り、一口飲んだ。

 遥来が訝しげに覗き込んでくる。


「ちょっと。まだなんかあるの?」

「あー……えっと」


 初めて会った遥来のおかげで専門家に見てもらえたのは本当によかった。感謝している。ただそのせいで、割と大事なんだと改めて思い知らされた。

 頼れるのは、二人しかいない。

 俺は腹を決めた。


「どうしたらいいですかね、お金」

「は?」


 遥来が憤慨する。


「まだ言ってるの? だから、それはあなたを釣るための餌だっつってんの」

「そうじゃなくて、……家に」

「え?」


 二人の視線が突き刺さる。


「届いた。一億円」

「はああぁぁっ?」


 今度は岡谷も吠えた。

 そこから再びスマホを没収され、仕組みのわからない解析が始まった。もう岡谷は笑っていない。緊迫感の満ちる部屋の中で、白猫のジュリだけが癒しの声色で鳴いている。


「遥来、部屋押さえて」

「わかった」

「日辻君、あとで貴重品だけ取りに行くけど、もう帰れないぞ。死ぬから」

「……はい」


 その理屈はわからないが、真剣な二人の様子を見ている限り、異を唱えるのもまた恐ろしい。


「一度切ったからもう逆探知にはかかりそうもない。失敗したな」

「部屋取れたよ」

「えっ?」


 別のデスクで操作していた遥来がそう言うので、これにも驚くしかない。


「え。部屋、もう取れた……の?」

「しばらく警護付きのスイートで缶詰。大丈夫、単位落としても留年すればいいだけだから。死ぬよりいいでしょ」

「えええ」


 そんな、死ぬ死ぬ言わないで欲しい。


「お、俺は何に巻き込まれてるんですか?」


 岡谷に問いかける。こちらを見ずモニターに目を凝らし、マウスやキーボードを弄り回している。


「今調べてるところ。でも、なかなか尻尾を出さないんだなぁ」

「それは、つまり……」

「今日来てくれてよかったよ。死んじゃうもん。日辻君死んだらお母さん悲しむよ」

「そう、ですね」


 部屋を押さえたという遥来が何やら電話をかけ始めた。俺の名前と身体的特徴を伝え、状況説明と警護の配置について段取りを組んでいる。一応、同じ大学の同じ学年だったはずだが、何者なんだおまえは。


「あのね、君、たぶん金の運び屋させられてるんだと思うんだよ」

「そんな……!」


 岡谷の言葉に冷や水を浴びせられたように体が強張った。確かに欲張ったかもしれないが、犯罪に手を染めるつもりなんてなかったのだ。


「ああ、わかってる。だから被害者なんだって。予定通り相手に金が渡ればコマ切れにされて海にバラまかれたりするんだよ。ほんとに」

「岡谷さん、言い方。恐がってるから」

「あ、ごめん」


 俺は愕然としたまま麦茶を飲みほした。すると、ジュリが肩に乗ってきて、耳に手を乗せてきた。気が解れて、かえって恐怖が膨れ上がる。


「警察に行った方がいいですか?」

「一億円貰ってるからねぇ。押収されたら、相手がキレて殺されちゃうかもしれないし。待った方がいいかなぁ」

「待ちます」


 岡谷は真剣だった。遥来といい、二人とも今日初めて会ったばかりだというのに、あまりに親切で泣きそうになる。というか既に目頭が熱い。

 突然、この二人を巻き込んでしまったという事の重大さに気づいた。


「あの、すみません。こんな……」


 岡谷が口角を上げる。


「うちはケルビム・セキュリティー・コーポレーションですよぉ。これくらい、朝飯前なんだなぁ」


 そうかもしれないが、だとしたら、俺はいったいいくらの請求書を受取る事になるのだろうか。それも恐い。しかしまるで心を読んだように、岡谷が声を和らげて言った。


「ちなみにお代は特別サービス。一日三食作って、遥来と仲良くしてくれたらそれでいいよ」

「プロテインの署名」


 遥来が口を挟んでくる。


「プロテインの署名もね。日辻君、これから宜しくねぇ。メエェェェェェェエエ」


 メェじゃねぇよといつもなら返すところだが、今日ばかりはさすがにそんな軽口は叩けなかった。

 俺は無力で、愚かだ。馬鹿の極み。

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