第一話  愚かな羊は黄金の夢を見るか(前)


 衝撃で体が左へ傾いだ。それだけ強くぶつかったのだ。


「悪ぃ」


 短く言って足を速める。

 昼時の食堂は学生でごった返している。人目につかない事は到底無理で、ぶつからずに逃げ出す事も当然無理だ。構っていられない。


「ねえ、ちょっと」


 腕を掴まれた。

 振り切るのも気が引けた。ぶつかったのはこっちだ。

 まともに向き合うと、撫肩の華奢な男が訝しげに顔を覗き込んでくる。知らない顔だ。


「大丈夫?」

「ああ、ごめん。ホントごめん。急いでて」

「見ればわかるけど、大丈夫? ゾンビみたいだよ?」


 一瞬、頭が真っ白になる。

 初対面でそれはないだろ。

 腕にかかっていたそいつの手が、次は手首を掴んでくる。そのまま無遠慮にスマホを見ようとするもんだから、これは慌てて振り切った。


「やめろよ」

「いや、だって。それ見て死相浮かべてるから」

「関係ないだろ」


 ぶつかったのはこっちだが、繰り返すけれども知らない奴だ。余計な事に構っていられないほど切迫している状況で、変な奴を追加する余裕など全くない。勘弁してほしい。だが十歩も歩かないうちに、そいつが隣に並んでまたスマホを覗き込んできた。


「なんだよ」

「いや、だから、歩きスマホ危ないし困っているように見えるから」

「おまえに困ってるわ!」


 つい怒鳴ってしまった。いけない。

 だがそいつは妙ちくりんな驚き顔を作って肩をすくめてから、再び俺の手首を掴んだ。小柄で小動物を思わせる、所謂カワイイ系にしては力も強いし押しも強い。甘やかされて育ったに違いない。だが今はそんな事はどうでもいい。


「おい、やめろって」

「見せてよ」

「え?」

「見せて」


 謎の生物に遭遇し、俺は対処法を見失った。

 もう一度考えてみるが、俺はこいつを知らない。友達は多い方だと思うし、同じコマを取ってる顔見知り程度の学生の内にも含まれない。一方的に知られるような立場でもないから、同じ大学に通っているとしてもやっぱりこいつとは初対面だ。

 ぶつかったからって、人のスマホ見るか?

 在り得ない。


「誰だおまえ」


 頬を包む茶色い髪、狸みたいな丸い目、尖った頬。女子にモテそうな目立つ顔だ。梅雨が明けたこの時期にスカーフを巻いている。デザイン系や美術系は電車で二十分かかる別の棟に入っているから、こいつのファッションセンスは個性的すぎる。


「僕? ハルキだよ」


 獲物を狙う目で俺のスマホを見つめる様子に、一種の恐怖を覚えた。

 変な奴だ。


「知らねぇ……」

「僕もあなたを知らないけど、明らかに様子がおかしかったよね」


 いや、おかしいのはおまえだ。


「ちょっとほっとけない感じがしたから、確かめさせて。迷惑メールくらいじゃそんな顔しないでしょ。何か恐いんだと思うし、友達に相談しようって雰囲気もないし。でも親が死んだとかそういう悲壮感もないんだよね」


 絶句だ。手を八の字に動かして逃げているのに、猫が遊ぶような姿でとりついてくる。咄嗟に麻薬中毒者を思い描いた。見ず知らずの俺のスマホに何を期待しているんだ。恐いじゃないか。


「ま、待って。待って、大丈夫だから。ありがと」


 なるべく優しく言ってみる。

 だがそれが隙を作り、相手をつけあがらせた。両手で俺の手首を掴むと、願い事をする姿勢で胸元に寄せ、まっすぐ俺を見つめてくる。

 なんて透き通った、綺麗な瞳だ。


「脅されてる?」

「──いいえ」


 恐怖が勝った。


「エロサイトに請求された?」

「違う」

「彼女が妊娠」

「違うよ!」


 恐いし不謹慎な奴だ。

 

「あのさ、いい加減放してくれない? 俺の問題だから」

「ほら! やっぱり何か困ってるんじゃん。なかなかないよ、そこまでゾンビみたいな顔するような問題って。ちょっと僕に話してみなって」

「なんで」

「見過ごせないでしょ。ゾンビだよっ?」


 俺はついにキレた。


「ふざけんな! 俺がゾンビならおまえはヤンデレストーカーだ!」

「なんでもいいよ。死んで後悔するより一人でも仲間増やした方がいいと思うな」


 未知の生物を前に俺の憤怒は忽ち萎れた。


「気持ちはありがたいけどさ……」

「いやいや、僕はお礼が言って欲しいんじゃなくて、あなたの無事を見届けたいんだよね」

「そうか……」


 途方に暮れ始め弱ってきたところに追い打ちをかけられる。


「言っとくけど学生課行けばあなたの事なんか一発で調べがつくからね」

「え」

「僕に話してくれないなら、あなたが困ってそうだって相談窓口に言っちゃうかも」

「待てよ」

「だって嫌でしょ? あの時ちゃんと話を聞いていれば~って思いながらあなたが死亡したニュース見るの」


 その一言で体が冷えた。

 すると見る見るうちに目を爛々とさせて、


「ほらぁ、ヤバいんじゃん」


 とどめを刺された。

 俺はそのハルキと名乗った男を連れて食堂を出ると、構内で比較的人の少ない並木道のベンチに並んで座った。最後の足掻きで、訊ねられるまでは絶対に名前を名乗らないと心に決める。


「実はさ」


 木陰に初夏の風が吹きこんで、気持ちがいい。たとえ俺がゾンビだとしても。

 障りのない程度に事のあらましを話す間、ハルキは静かに耳を傾けている様子で、もっと口を挟んでくるかと思っていただけに意外だった。そして俺が話し終えた瞬間、待っていましたとばかりに言った。


「その見張られている感じっていうのは、ネットだけ? 現実にもあるの?」

「んー。スマホの操作に変な間が空いたり、たまにだけど画面の色がいつもと違ったり」

「ハッキングだね」

「やっぱそうなのか。えええ……」


 一通のメールを受け取ってから、そういったスマホの違和感は始まった。


「それが恐くて、気のせいかもしれないけど現実でもつけられてるふうに感じちゃう? それとも実際、何かあるの?」


 親身になって聞いてくれた事で、ハルキの印象は次第に変わっていった。初対面で無遠慮な恐い奴だと思っていたものが、困っている人を見捨てておけない正義感溢れるいい奴という感じに。だがこの小柄でひ弱そうな男を巻き込む事はあっても、助けてもらえるとは到底思えない。そもそも何を持って俺が助かるというのか、明確な答えは持ち合わせていなかった。


「あるっちゃあ、あるけど」

「なに」

「んんん……」


 言うわけにはいかない。


「なんだよっ。ねぇ、壁だと思って言いなよ。どうせ行きずりの仲なんだから。後腐れないんだからさ」


 そんな出会い系みたいな言い方やめてほしい。

 あの事だけは言えないが、ただ一つ現実的な恐怖は確かにあった。


「家が、バレた」

「はあぁっ?」


 突然、獣のようにハルキが吠える。


「なに。返信したの? 住所書かないよ普通」

「プレゼント贈るって言うから」

「嘘に決まってんじゃん!」


 天を仰ぎ額を叩いて、まるで我が事のようにハルキは嘆いた。感受性豊かだなと頭の片隅で思う。さっき会ったばかりなのに、ずっと一緒にいた親友のような気分になってくるから不思議だ。


「警察は?」


 真顔で言われ、本当に(いい意味で)狸顔だと思った。そして同時に、言葉の端々からなんとなく、異質なものを感じ始めていた。可愛い系の顔に、この粘着性、そしてスカーフ。こいつ、オカマか。


「行ってない」

「なんで!」

「普通よっぽどの事じゃなきゃ行かないだろ警察って」

「バカなの? 状況わかってる?」


 やっぱり失礼な奴だ。


「え、家に来たの?」

「……来た。届いた」

「ああ、郵便がね」


 そこそこに憤慨した様子で俺から目を逸らし、腰を浮かせて尻のポケットから財布を取り出す。思わず凝視してしまった。ハルキは年齢のわりにブランド物の財布を使っている。今抱えている問題とは別に、恐いものを感じた。ハルキには、まさか、パパがいるのか。


「あのさ、無理に警察行かなくていいから、ちょっと付き合ってくれない?」

「俺そういうのちょっと……」


 目を逸らした俺の頬に、尖った何かが突き刺さる。立ち上がったハルキが、俺の頬に名刺を突きつけていた。半目になって、随分と憤慨したような表情で。


「勘違いすんな。タイプじゃない」


 やっぱ、そっちか。初めて会った。

 ちょっと感動した。


「僕のバイト先サイバーセキュリティー会社なんだけど、特別にタダで解決してあげてもいいよ」

「いや、それは悪いよ」

「もう一回言うね? 僕のバイト先サイバーセキュリティー会社なんだけど、特別にタダで助けてあげてもいいよ。だって摘発したらお金になるから」


 頬にグサグサ名刺が刺さる。痛いし恐いしでとにかく受け取って眺めてみた。

 小井出遥来こいではるき

 フルネームを知って初めて、自分が名乗っていない事を後ろめたく感じた。訊ねられたわけではないが、俺は立ち上がり、改めて遥来を見下ろして言った。


「ありがとう。お世話になります、日辻宗平ひつじそうへいです」

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