第9話 出港

昭和20年3月29日、広島県の呉にいた大和に出港命令が出ました。


この頃からアメリカ軍はいよいよ1700隻の軍艦や船で沖縄の島々に攻撃をはじめていったのです。


大和はアメリカ軍と戦うために出撃せよと言う命令でした。


しかし上空を援護してくれる飛行機もなく、お供の軍艦は巡洋艦矢矧と駆逐艦と言う小さい軍艦が8隻、合計10隻と言う寂しい艦隊でした。


しかしこれが当時は「世界一」と言われた海軍の最後の艦隊だったのです。


いくら大和が世界一の戦艦といえども1700対10ですから勝てるはずがありません。


負けるのを最初からわかっていながら出された命令なのです。


いよいよ決戦に出向くのです。


出港の前日、乗組員全員に上陸の許可が出ました。


これには「人生最後だから本土の地を踏んでこい」と言う意味と「大切な家族と別れをしてこい」という2つの意味があったのです。


今のように携帯電話のないこの時代、福山にいるお父さんお母さんに連絡の取りようがなかった僕は「上陸しても家族との別れはできないな」と思っていたら、なんとお母さんが桟橋に来ていたではありませんか。


これには本当に驚きました。

おそらく当時の上官が僕に内緒で母親に連絡をしてくれていたのだと思います。


一晩上陸した呉の旅館で、お母さんと一緒に布団を並べて寝ました。


寝ながらも「お母さんとは二度と会えないだろうな」と考えると「明日の別れ際になんと言ってお別れの挨拶をしようか」と悩んだものです。


次の朝、「康夫起きなさい。朝ですよ。たくさん雪が降ってますよ」という声で目が覚めました。


広島県で3月の終わりに雪が降ることはめったにないことです。


しかし旅館の中庭はお母さんが言ったように本当に白一色の雪景色でした。


一緒に最後の朝ごはんを食べている時も「どういう風に最後の挨拶をしようか」と悩んでいました。


皆さんだったらどうしますか?

大好きなお母さんと、今日が最後でお別れを言わなければいけない時にどんな言葉を言いますか?


しかし旅館を出る時、言葉が自然に出てきました。


お母さんの正面を向いて敬礼しながらはっきりとした口調で「お母さん、今まで育ててくれてありがとうございました。では行ってきます」と言いました。


そしてくるりと方向を変えて港の方へ行こうとする私を追いかけてきて、お母さんははっきりと言いました。


「あんた、元気でなー」と。


そしてもう後ろを振り返ることができなかった僕の背中に向かって最後にこう言ったのです。


「体に気をつけてなー、体に気をつけてなー」と。


これが僕と家族との別れでした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る