第5話 海兵団 入団
僕が海兵団に入団したのは15歳の時で、昭和18年8月10日の暑い日でした。
汽車で広島県の西の端にある大竹海兵団と言うところに行きました。
たくさんの家族や知り合い、友達から「八杉くんがんばってこいよ」と暖かい見送りを受けて福山駅を出た僕は、翌朝大竹駅に到着しました。
駅に降りると、同じく海軍に入る仲間が何千人という数で海の方角にある海兵団を目指して歩いていました。
最初の三日間は「お客さん扱い」でしたので「海軍って怖いところと聞いていたけど優しい人ばかりなんだな」と思っていましたらなんのなんの、4日目から正式に入団になった途端にまさに「地獄のような生活」が始まったのです。
大竹海兵団での教育は、ボートの漕ぎ方、鉄砲の打ち方、手旗信号、ロープの結び方、駆け足、剣道、柔道、海軍での生活などなど水兵として一人前になるためにたくさんのことを教えられました。
学校とは違って軍隊ですので少しでも成績や態度が悪ければ、殴られたり「バッター」と言って硬い木の棒でお尻をいやというほど叩かれたりしました。
たったの3カ月間でさっきまで少年だった僕たちを軍艦に乗せる一人前の水兵に仕上げないといけないのですから、並大抵の教え方ではいけないわけですよね。
例えば「鉄拳」と言って動作が遅いとか言葉遣いが悪いとかの理由で「何をしとるか!歯を食いしばれ!」と言われては殴られたものです。
しかし厳しい中でも1つだけ感心したのは決してここでは「死ね」とは言われなかったことです。
むしろどんな状況でも「生き延びる」ことを教えられたことです。
ある時こういうことがありました。
教班長と言う、僕たちの上官で先生のような人が来た後命令しました。
「総員、集合!自分の釣り床を急いで3分以内にきれいにたため」
釣り床と言うのは今で言うハンモックです。
軍艦の中で僕たちの寝るための寝具のことです。
当時の釣り床は皆さんも知ってるハンモックより硬い布でできていました。
これを毎朝僕たちは汗だくになって5分位かかって畳んでいたのでした。
それを「たったの3分で片付けて、しかもバナナのような形にたたんで、肩から担ぐようにするなどとてもできない命令だ」と最初は思いました。
しかし上官は丁寧に「ほら、ここを抑えてこういうようにたためばきれいなバナナ形になるんだぞ」と何度も何度も教えてくれました。
1週間ほど経てば僕たち全員が何とか3分で釣り床がきれいにたためるようになったのですが、その後またやってきて「よーし、みんな3分で何とかできるようになったようだな。今度は1分でやってみろ」とニコニコして命令するのです。
皆さんどう思いますか?
汗だくになって、ようやく3分で畳めるようになったばかりなのにそんなことできるわけないと思いますよね。
そこで上官は、「お前たちの考えはよーくわかってる。私も昔はお前たちと同じように思ったものだ。しかし私が今からお手本を見せるからよーく見ておけ」と言うと僕にストップウォッチを持たせて「ヨーイドン」の掛け声とともにみるみるうちに見事なバナナ形を作り上げたのです。
それは僕たちが3分もかけて作ったバナナ型と比べてシワ1つない素晴らしい出来上がりでした。
にこっと笑った後、上官はこう言いました。
「いいか、なぜこれをしようと命令しているかを説明する。お前たちは海兵団を卒業したらどの船に乗せられるかわからない。もし夜眠っているときに敵の魚雷攻撃を受けたら船はわずか1分で沈没する。その残された1分間に自分の釣り床を今のようにバナナにして海に投げ込んで捕まるんだ。そうすれば救助が来るまでしばらく生きられる。いいな、だから1分でできるようにうるさく言うのだ。わかったな」
海軍ではいつも言われていたのは「うかうか死ぬな」と言う言葉でした。
つまり、「船や飛行機はなくなったら後からいくらでも作ることができるが、お前たちは死んだらすぐには作れない」と言う意味でした。
ですから「命を粗末にするな」と言うことを体に叩き込まれたのです。
「なんとしてでも生きろ」と言うように何度も教えられたのです。
このようにして大変厳しかったけどあっという間に大竹海兵団での3カ月間が終わりました。
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