LINE24:Under Control
先日、母のお見舞いで久しぶりに実家に戻った。
識くんを連れてくるわけにもいかず、眠っている母に対して私ができることは何もなかった。
家政婦さんに母の調子はどうですか、と聞くとたまに立ち上がったりもする、とのことだった。
静かに寝息を立てる母を見ても驚くほど何も感じず、自分も父と同じで冷たい人間なのかもしれないな、と私は思った。
その父は相変わらず仕事らしく、私が実家にいる間に戻ってくることはなかった。
松前遥ちゃんからの連絡によると最新型うつに対しての予防接種のような論理が完成したらしい。
あの日喫茶店で彼女が気を失った時はとても心配したが、識くんに届いたメールには「起きた!」の一言だけ挨拶があった以外は予防の概論や今後の改良案などが興奮気味に綴ってあったらしい。
届いた概論を読んだ識くんもこれはすごい、と興奮していた。天才児たちの感覚はよく分からない。識くんはこれなら僕にもできる、と早速私にその予防を施した。
私には詳細は分からないが、処置自体は数分で完了し、特に何かが変わったという感覚はない。
この予防がどれだけ有効なのかは「少なくとも今のところ自分は無事」ということくらいしか私には分からなかった。
ただ、おそらくLINKは進化している。大学内でも罹患していると思われる学生が以前に比べて急増しているような印象を受ける。
その他に変わったことと言えば、友達の間や大学内でおかしなスローガンのようなものが流行している。
「脱PC、脱携帯、脱ネット」
現代人はネットワークインフラで繋がりすぎてしまっていて、その結果監視社会へと陥り、生活が窮屈になっている、これらに依存しないスローライフを送ろう、というのが主張の概要らしい。
数年前からこういうことを叫ぶ人は一定数いたが、大抵は一部のマイノリティに過ぎなかった。
だが今回はそれなりに浸透しているのか、知人の中にも影響を受けて
「データよりも紙の本に回帰」「メールなんかよりも手書きの手紙を送ろう、会いに行こう」なんてことを公言してそれをできるだけ実行している人もいる。
そのスローガンに付随して「LINKやavenueをやっているとバカになる」というゲーム脳を否定する政治家の言葉のような説得力のない噂の類も同時に流れているようだ。
その噂自体がネットを通じてLINKで送られて来るのだからそもそもの立脚点が矛盾しているのではないのかと私は思うが、実際にLINKやavenueが危険だということを少し知っている私からすると、これで罹患者が少しでも減るのならある意味いいことなのかな、とも思った。
夏休みだというのに大学のキャンパスは大勢の学生の姿で賑わっている。サークル活動に来ている人、補講や集中講義などを受けに来ている人などなど。
私はサークルには入らなかったので後者だ。元々大学に対して明確な志望動機があったわけではない。
あの頃私は実家から出ることだけを考えていて、なんとなく興味が持てそうだと思った法学部を受験し、入学することができた。
来年の終わり頃には同期のみんなも就職活動、もしくは司法試験を受けるなどの進路を決めるのだろう。
私にはやりたいことなんて何もなかったけれど、識くんと暮らすようになり、彼が変わったように私も少し変わった。
子供の成長を見守るということに興味とやりがいを感じ、保育士や教師を目指すのもいいんじゃないかなと最近は少し思える。父や母がそれについてどう思うのかは分からないが。
民法Iの夏期特別講義が終わり、大教室は学生たちの会話で一斉に騒がしくなる。
何となくでしかないがやりたいことが見えてきた私は、興味のない授業や講義を受けるのはつまらないものだな、と人生で初めて思った。
真由、と右後ろから私を呼ぶ声が聞こえる。同期の千夏が少し離れた席から私に声をかけている。
お腹空いちゃったよ、お昼ご飯行こう、と彼女が私を誘う。私は振り向いてうん、と軽く微笑みながら頷く。
「今日は大学に行かないとだからお昼ご飯は冷凍庫にあるローストビーフでも食べてね」と識くんには伝えて来たが、飽き飽きした学食のレトルトカレーやラーメンの味を思い浮かべると私は少しげんなりした。
大教室の前方は相変わらずざわついている。だが、先ほどとは違う緊迫した声が混じっているのを感じて私はふと前方を見た。教授が倒れている。
脳卒中とかそういう症状だろうか?「え、熱中症?ヤバくない?」と千夏が言う。
救急に電話すべきなのか、大学の保健部に伝えるべきか……と考えているうちに、教授の近くの男子学生がまた倒れた。
大教室は静まり返った。ひとり、ふたりと次々に学生が倒れていく。その瞬間、私の頭に嫌な予感と直感が同時に閃く。……LINKだ。最新型うつが発動している。
私は手に持っていた教科書やノートとバッグを投げ捨てて教室の前方に向かって走り出す。
「ちょ、真由!」と千夏の声が後ろから聞こえたが止まるわけにはいかない。前方に携帯を構えながら一人だけ灯台の明かりのようにゆっくりと回転している学生がいる。あいつだ、あの学生が携帯カメラを使って周りに何らかの影響を与えている。
私は長机の上に飛び乗って全速力でその学生の方へ駆け寄り、彼の顔面に私の膝蹴りが直撃する。
普通ならば顔を押さえて痛がるなりひるむなりの反応があるはずだが、彼は微動だにせず片手で私の脚を掴み、投げ捨てられるゴミのように私の身体は大教室を舞った。
2m近く投げ飛ばされ、数人の学生を巻き込む形で机の上に私は落下した。教室内に再び悲鳴やざわめきが響き騒がしくなる。
私は再び机の上に立ち上がろうとするが、机にぶつけた身体よりも掴まれた右足の痛みがかなり強く、バランスを崩して転んでしまった。苦悶の表情を浮かべながらも私は珍しく大声を張り上げる。
「携帯を奪って!」
誰しもが何を言っている?という顔をしている。
だが私を投げ飛ばし、携帯を構えて無表情のままゆっくりと回るその男子学生の姿を見た学生たちは異常さを感じ取ったのか、一斉に覆いかぶさるように彼に飛びかかった。
体格の良い男子学生が携帯を構えた男の腕を掴む。だが圧倒的に体格で勝っているはずの彼は筋力で負けそうになっており、耳まで真っ赤にして全身に力を入れているようだった。
さらに三名ほど他の学生が加勢したところでようやく学生たちは携帯を奪うことに成功した。
不審者が数人に取り押さえられた結果窒息死、という少し前に見たニュースを思い出し、呼吸はできるようにしてあげて、と息を荒げながら私は彼らに言う。
だが押さえつけられている学生はものすごい力らしく、数人がかりでないととても抑えきれないと体格の良い学生は答えた。千夏がこちらに小走りで向かってきて言う。
「真由、大丈夫!?というかこいつ何なの……?携帯を奪ってってどういうこと?」
彼の持っていた携帯を借り、撮影していたと思われる写真を開いて千夏や回りの学生たちに見せる。教授と、倒れた数人の学生が写っている。細かく説明できなくても写真を撮られるのが危険、と知らせるには十分すぎる証左だった。
しかしこれ以上ここにいると色々と聞かれたり面倒なことになりそうだ。私は千夏の手を取りご飯行こ、と言うとそそくさと大教室を出た。
学食へ移動しながら千夏が言う。
「ちょっと色々理解が追い付かないんだけど……まず真由の膝蹴りが衝撃的すぎたよね」
うっ、これは恥ずかしい……。緊急時とはいえ悪目立ちしてしまった。
ふと掴まれた右足を見ると手形のアザができている。歩くのには問題ないが、改めて認識したら急に痛みが強くなってきた。識くんが見たら心配するだろうな……。
学食に着いたので私はハンバーガーを注文して席につく。真由にあんな一面があるとは思わなかったよ、と千夏はクスクスと笑いながら質問を始める。
「で、何で携帯カメラが危ないとか知ってたの?」
突然あんなことが起きて質問したくなるのも無理はない、私も少し状況を整理する意味で色々と説明することにした。
識くんや遥ちゃんのことなど伏せるべき点は伏せ、一通り説明したところで私にも疑問が湧く。
撮影された教授や学生はその瞬間に倒れた。従来ならば写真がアップされてから時間をかけて少しずつ意識不明のような状態に進行していくはずだった。
それに、母のように立ち上がる程度の患者は今までにもいたようだが、さっきの彼は完全に目的を持って動いているような印象を受けた。すなわち感染者を増やすこと……。
今までの拡大方法はやや偶然に頼ったものだった。例えが正しいか分からないが、風で飛ぶたんぽぽの綿毛や、動物や人の身体を利用して広がるオナモミのように。
だが、今のLINKは無意識下の人を操っている?これが修くんの言っていた進化なのだろうか。
だとすれば恐ろしいことになる、私は背筋が凍る思いがした。
私の話を聞いた千夏も怯えている。そうだ、この子にも予防をしなくちゃ。識くんのことをどうやって説明しよう……。
千夏、この後時間ある?と問いかける。大丈夫とのことなので、とりあえずうちに連れていって追々説明をしていくことにした。
部屋に戻ると識くんは相変わらずカタカタとPCを操作していた。今さら伏せても仕方ない気もするが、一応親戚の子を預かっているといういつもの設定で千夏には説明する。
あらかわいい、と珍しく子供扱いされた識くんは普段よりかしこまって照れていた。
今日大学であったことを報告すると識くんは顔色を変えて私の心配をしたが、膝蹴りの件をしっかり千夏にばらされてしまったのですぐに大笑いされた。
千夏への予防接種も済み、彼女を駅まで見送るついでに夕食の材料を買ってくるね、と私たちはアパートを出た。
識くんは二階からまたね、あと気を付けてね、と手をパタパタと振っている。千夏はかわいい子だねぇ、とニコニコしている。
確かに普段はあの感じだが実はハッカーだったりデイトレーダーだったりという彼の一面を知ったら彼女はどう思うのだろうか……。
私たちは駅に到着する。昼間みたいに暴走する罹患者もいるかもしれないから気を付けてね、と私が伝えると分かった、色々ありがとうね、と言って彼女は改札を通過して人混みの中に消えてゆく。
さて、今日の夕食は……と考えながら私も識くんの待つ家へと踵を返した。
8月も終わりに近づき、まだまだ暑い日が続いているが少しだけ日が短くなったのを感じる。
識くんが来てからもうすぐ一年か、と私は感慨に耽る。現実問題として、この先どうしていけばいいんだろう。
今の私たちは結局、現実から逃避しながらこの街に隠れているのと変わらない。とは言え、識くんの能力で様々なことを改竄してしまうのも間違っている気がする。
彼は自分の正体を探る、と言っていた。何度も何度も考えたことだが、それが分かってしまったら彼がいなくなってしまいそうで私は怖い。考えても考えても相変わらず答えは出ない。
そんなことを考えながら歩いていると、家にほど近い帰り道の暗がりに二人組の男が待ち伏せしていた。
「野中真由さんですね」
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