おしごと

 朝でした。

「二日続けてとは、珍しいな」

 少し先に起きていたらしいおじいさんが、不思議そうな顔をします。

「はい」

 昨日はたっぷり昼寝をしましたし、今日が待ち遠しかったからでしょう。実に清々しい目覚めでした。

 おじいさんは日課のストレッチをしています。

「ご一緒してもいいですか?」

 なんだかそんな気分だったのです。

「構わんぞ」

 見よう見まねで、おじいさんと同じ行動をしてみます。

 おじいさんのストレッチは、割とよくある普通の準備体操です。しかし、かなり念入りにされるのでそれだけで軽く汗ばむくらいでした。

 わたしが運動不足というのも多文にしてあるとは思います。

「これからお散歩ですよね?」

「そうだが、ついてくるか?」

「いいですか」

 なんだかそんな気分だったのです。

 らしくもなく、うきうきしてしまっているのでしょう。

「シエルが来るのなら、軽めにしておくか」

「遠慮しなくても大丈夫ですよ」

「相当きついと思うが」

「大丈夫ですよ」

 おじいさんが健脚といえど、流石に朝のお散歩で手加減されるほど残念な体力ではありません。なんなら昨日だって散々歩いたわけですし、おじいさんはわたしを侮り過ぎです。


 そう、思っていたわたしが愚かでした。

「お、じい、さん……ちょっと、まって」

 遙か前方におじいさんの背中が小さくなっていきます。

 息も絶え絶えですが、これはわたしが悪いわけではないはずです。

 膝に両手をつき、息を整えます。

 お店を出てからまだ一分。よもや、おじいさんの「お散歩」が競歩もびっくりの速度で行われているとは思いもよりませんでした。

 ついていけたのは最初の数十秒、それも全力疾走です。

 わたしの足が遅いことを加味しても、異常なハイペースでした。

「だから、言っただろう」

 わたしがついてきていないことに気付いて、戻ってきたらしいおじいさんの声がします。

「これ、お散歩じゃないですよ」

 ようやく顔をあげて、おじいさんを見ますが、息一つ切らしていません。

「まだ、馴らしの速さだったが」

「冗談ですよね?」

「いや、ワシの散歩はいつも街を一周してるからな。この速さじゃないと、時間を食って仕方ない」

 わたしとおじいさんの中で、お散歩の概念が完全にずれていたようです。

 たぶん、普通に歩いたら、街を一周するなんて、丸一日で終わればいい方だと思います。

「もしかして、これがこの世界の普通だったりしませんよね?」

「一般的には違うな。冒険者の中にはできる者もあるだろうが」

「おじいさん、もしかしなくても、元冒険者ですよね?」

 別に隠そうとしていたわけではないでしょうが、いつもの聞き方では「雑貨屋」と言われるでしょう。

「昔の話だ。まぁその頃の癖が未だに抜けないのは笑い種だな」

「笑い種ではないですよ、普通にお散歩しましょう」

「だから最初にそう言っただろう?」

「おじいさんの配慮は時々わかりにくいんです」

 おじいさんは、明らかに前提として必要な話をいくつか抜かしてしまう癖があるようです。一を聞いて十を知る、おじいさんならそれでいいのでしょうが、十を聞いて一を誤解するような、わたしでは不十分なのです。

「昨日の今日でまた言われてしまったな」

「言ってしまいました」

「この癖もなかなか抜けないものだな」

 わたしの悪癖といい勝負なのかもしれません。

 そんなこんなで、普通に歩く速度でお散歩が再開されました。

 ゆっくり歩くと、早朝の道というのはとても心地の良いものです。

 まだそこまで人の多くない大通り、開店準備をしている店々、普段は見ることのできない景色がそこにありました。

 人が少ないからでしょう。新鮮な空気が、空から金春色をうつしたような清々しさで、胸を満たします。

 こんなに気持ちがいいのなら、毎日でもしたいものです。

 まぁ、明日は起きれないでしょうが。

 ゆっくりと歩いて、およそ一時間ほど。

 最後にお店の近くのパン屋さんに寄り、朝食のパンを購入して帰路につきます。

 普段、わたしが寝ている間に、これだけの濃度の朝があるのです。いえ、おじいさんは街を一周すると言うことなので、この比ではない濃度の朝を毎日過ごしているのだと思うと、人生のなにかしらを損しているような気にすらなります。少なくとも三文以上は損している感じです。

 いえ、早起きはできないので仕方ないのですが。

「早起きもいいものだろう?」

 わたしの心を読んだようなおじいさんが、お店に着くなりいいました。

「たまにはいいですね」

 我ながら自堕落だとは思います。


 本日、時間はひどくゆっくり進んでいるようでした。

 朝が早かったから、一日が長く感じる。というのも、もちろんあるのでしょう。

 しかし、それ以上に、なにかを待つ時間というのは長く感じるものです。

 待っているのは他でもない、フィユさんでした。

「まだですかね」

 いえ、まだ朝と呼べる時間帯なので、流石に来ないとは思います。

「暇そうだな」

「暇じゃないときの方が少ないですよ?」

「それもそうか」

 もはや、失礼とかそういう次元は飛び越したようなやり取りです。

「それなら、今のうちにこれを渡しておこう」

 おじいさんは、どこから出したのか細長い箱のようなものを持っていました。

 一抱えほどある箱です。

「なんですか、それ?」

「開ければわかる」

 癖を直すとか直さないとか、そういう問題ではなく、もやは性なのではないでしょうか?

 細長い箱は栗色で木製です。上面に本体と同じ色の木製の取っ手があり、その両脇に鈍色の蝶番がついていました。よく見ると、細い線が入っていて、開くようになっているようです。

 開くと、確かにおじいさんの言った通りでした。

「これ、絵の具ですよね」

 地球で言うところの固形絵の具のようなものが、片側に色彩順にずらりと並んでいます。

 反対側はパレットになっているようで、太さ毎に二本一セット、合計四セットの八本、固定されていました。

 いつも使っている色憶石とは比べものにならないほど、上等な画材であることは、一目瞭然でした。仮に、わたしが子供だったのなら、飛び跳ねて喜ぶような物です。

 いえ、流石に今は飛び跳ねませんよ。にやにやする程度です。

「そうだ。絵画魔法ならそのくらいの画材で描いた方がいいだろうと思ってな」

 流石、用意周到なおじいさんです。

 わたしが絵画魔法について知る事になるのが織り込み済みというのが少々引っかかりますが、まぁここは素直に喜んでおきましょう。

「本当にいいんですか、これ高いですよね?」

「気にするな、元々在庫で一つだけ残していたものだ」

「そうですか」

 なんだか、最近、変に勘ぐり深くなっているような気がします。

 とは言え、色憶石ですら殆ど動かない商品なのに、こんなに上等で持ち運びが手間な画材セットが売れるとはあまり思えません。

「どうして残してたんですか?」

 早起きしたからか、いつもより頭の回転が速い気がしました。

 おじいさんが少々驚いたような顔をします。

 そう、聞かれることを想定していなかったのでしょう。

「それについては、機会があったら話すとしよう」

 珍しく、露骨に濁すおじいさんです。

 わたしとしても、それほど気になったわけではないので、別にいいのですが。

 それにしても、実に立派な画材でした。

 数えてみたところ、色は八十色。ここまでの画材ははじめてでした。

「これも色憶石ですか?」

「いや、それはそれぞれの素材を固定化させているものだ。まぁ使い方自体は色憶石とそれほど変わりはしないな、今のうちに使い方も教えておこう」

「よろしくお願いします」


「わぁ、おじいさん、見てください! 発色が全然違いますよ」「色によって滑り方が違うんですね。これ、なんの素材で作っているんでしょう?」「混ざり方が、すごく綺麗ですよ。これだけで一日過ごせちゃいそうです」

 ……年甲斐もなくはしゃいでしまいました。

「満足そうでなによりだ」

 おじいさんが少し引いているような気もしますが、気のせいでしょう。

 とりあえず、はやく絵が描きたくてうずうずしてしまいました。

 つまるところ、フィユさんが来るのを待っているわけです。


「まだですかね」

「暇そうだな」

 デジャビュでしょうか?

「暇と言うより、待ちわびているんです」

「それなら、こちらから行けばいいだろう」

「お家を知りませんし」

「知ってるぞ」

「なんで、知ってるんですか」

 驚きと言うか、呆れに近い感想です。

「フィユの親を知っているからな。地図を書いてやろう」

「まだ、行くとは」

 押しかけ営業みたいですし、すれ違いになっても嫌ですし、いきなり行っても驚かれるでしょうし、などと、無数の言い訳を考えている間におじいさんはさらさらと地図を書き上げてしまいました。

「ワシの店がこっち側、パン屋がここだ、進行方向から見て左手側がフィユの家になる」

 おじいさんの書いた地図は簡素でしたが、必要な情報は全て詰まっていました。

「パン屋さんの近くなんですか」

「道はわかるだろう」

 今朝歩いたばかりの道を流石のわたしでも忘れはしません。

「はい」

「それなら、行ってこい。ついでに、画材も持って行くといい」

 なんだか、追い出されるような勢いで地図と画材だけを持ってわたしはお店を出ました。

 それにしても、パン屋さんの近くとは、なんだか身構えてしまいます。

 大通りを突っ切って、徒歩で二十分ほど。

 街の雰囲気が変わります。

 それまで人々や建物がぎゅうぎゅうと押し合っていたのが、一気にすかすかになり、なんだかとても余裕を感じます。そこを歩くわたしに余裕なんてないのですが。

 家々の間隔は驚くほど広く、その間隔に見合うほど家々も驚くほど広いのです。門があって、その向こう、遠くにお屋敷と言えるような建物が少し見えます。

 つまるところ、高級住宅街というやつでした。

 そんな中に、パン屋さんはぽつんとあります。

 小さな店舗なのですが、いつも混んでいまして、それに納得でいるほど美味しいパンがあるお店です。

 そのパン屋さんを通り過ぎて、二軒先。

 地図だと直ぐですが、一軒当たりの敷地面積が広すぎるので、とても長く感じました。

 おじいさんの言った通り、左手側。立派な門があるお宅でした。なんだか、とても入りにくい感じです。

 門の脇には用事があるなら鳴らせ、とばかりに中程度の鐘が吊されています。

 おじいさんを疑うわけではありませんが、もし間違っていたりしたら、とてもではありませんが、恥ずかしさでそのまま帰宅してしまうでしょう。

 そんな感じで、鐘を鳴らすこともできず、門の前でうろうろしています。

 間違いなく、不審者でしょう。

「なにか、用か?」

「えっ!」

 不意に声をかけられました。

 咄嗟に振り向きますが、誰もいません。

「こちらだ」

 そう言われても、声がどこからするかわからないのです。困り果てて、正面を向くと、門を挟んで、そこに声の主がいました。

 いえ、流石のわたしでも正面に立っていれば普通気付くと思うのですが。

「とろいな、刺客ではないか」

 全身を厚手のマントのようなもので覆った、背の高い男性でした。マントの色は陽の光さえ吸い尽くしてしまいそうな漆黒。まるで、男性の立っている場所だけが不自然に風景から浮き出ているような感じすらしました。

「あっ、えっと」

「なにか、用があるのかと聞いた」

 低く響く、とても威圧感のある声です。

「あっ、あの、ここってフィユさんのお宅でしょうか?」

「そうだとしたら?」

「えっと、フィユさんに用事がありまして」

「フィユとの関係は」

 そう聞かれると困ってしまいます。一般的には、店員とお客さんと言うことになるのでしょうが、わたしとしては、そういう形式張った関係よりもう少し深くありたいと思うのです。

「えっと、お友達です」

 いえ、しかしお友達と言うには年の差がありすぎる気がすると、言ってから思いました。

 そもそも、フィユさんがわたしを友人と思っているとは限らないわけで、そうするとこの発現はとても身勝手なものに思えました。

「要件は?」

「あっ、えっと、会う約束と言いますか、えっと、お返事をする約束をしてまして」

 なんと言ったものかと考えた結果、なんだかよくわからない返答になってしまいました。

 絵画魔法のことは極力話すべきではないとなんとなく思ったのです。

「そうか」

 男性はマントから腕を伸ばし、門を開けます。

「面会を許可しよう。私はこれから出かける。母屋までついたなら使用人に私からフィユに会う許可を貰ったと言え」

「あっ、えっと、ありがとうございます」

「レユルだ」

 もしかしなくても、名前でしょう。

「あっ、シエルです」

「古代語で空か、名付け親は博識のようだな」

「あっ、ありがとうございます」

 すっと、レユルさんはわたしの横を音も立てずに通り過ぎました。そのまま、振り返りもせずに歩いて行ってしまいます。

「えっと、お邪魔します」

 相変わらず、入りにくさは感じますが、許可されたという大義名分で歩みを進めました。

 外から見たとおり、とても広いお家で、少し歩いてようやく玄関が見えてきましす。

 その玄関の前では、初老の女性が箒で歩道を掃いていました。

 わたしが近づくと、気付いた女性は顔を上げて、訝しそうに見ます。

「あっ、あの、こんにちは」

「どなたでしょうか?」

 落ち着いた声は、それでも疑いの色を含んでいます。まぁ無理からぬことでしょう。

「シエルと言います。えっと、レユルさんからフィユさんに会う許可を貰ったので来たんですが」

「かしこまりました。こちらへどうぞ」

 それだけで了解したような女性は、玄関を開けてわたしを導きます。

 家の中も驚くほどの広さで、玄関ホールというあまり馴染みのないものを通り抜け、人が簡単にすれ違える程の広さを持った階段を上って、幾つもの扉の前を通り過ぎて、女性はようやく止まりました。

「こちらです」

 飾りっ気のない扉です。

 扉を開くと、飾りっ気のない部屋がありました。

「では、ごゆっくり」

 わたしが部屋に入るのを確認してから、女性は扉を閉めます。

「えっ、シエル?」

 扉の閉まる音で気付いたのか、部屋の奥で椅子に座っていたフィユさんがわたしを見ました。

 本日のフィユさんは鎧ではなく、飾りの少ない上下一体型の薄水色のドレスで、いつも以上に幼く見えます。

「お邪魔してます」

「どうして、家が」

 非常に驚いた顔のフィユさんです。

「おじいさんが、フィユさんのご両親とお知り合いだったようで」

「そういう可能性を考えていなかったわ。よく考えなくても、あり得そうな話ね」

「急に来てしまって、すみません」

 長い言い訳でもしようかと、言葉を頭の中で巡らせます。

 来るつもりはなかったけど、おじいさんが、とか。絵を描きたい気持ちが我慢できなくてとか。いえ、これは言い訳じゃなくて本心の方でした。

「来てくれて助かったわ」

 しかし、わたしの言い訳を聞く前にフィユさんは言いました。

「お店の方には行けそうになかったから」

 今更、少し元気がなさそうなのに気付きます。

「どうかされましたか?」

「父が帰ってきたの」

「えっと、もしかして、レユルさんですか?」

「父に会ったの!?」

「あっ、はい、門の前で」

「絵画魔法の事言ってないわよね?」

 やっぱり言わない方がよかったらしいです。

 なんだか、一昨日、虚ろな頭でおじいさんがそんな感じのことを言っていたのを聞いた記憶が朧気ながらあったのです。

「言ってませんよ」

「よかったわ、それならなんとかなるかもしれない」

 先ほどとは一転、なんだか悪そうに笑うフィユさんです。

「えっと、状況がよく掴めないのですが」

 なんとなく察せはしますが、わたしの事なので勘違いという可能性もあります。

「父は私が冒険者になることに反対なの」

「なるほど」

「だから、ヴェツモスを倒せば認めてくれると思ったの」

「はい」

「でも、それが父にバレて、こうやって軟禁されてるわけ」

「そうでしたか」

 だいたい思った通りでした。

 子を想う親心というヤツでしょう。

「だから、ここを早く抜け出して、父よりも先にヴェツモスを討たないと」

 ん?

「もしかして、レユルさんも冒険者なんですか?」

 見た感じ、これまでお会いした冒険者とは雰囲気が違ったと言いますか、なんだか意外でした。

「当然でしょ、って知らないわよね。父の本当の名はフィレユル。レユルは家の人間だけが使う呼び方ね。不死狩りのフィレユルって言ったら冒険者の中でも有名よ」

 そう、説明するフィユさんはなんだか誇らし気でした。

「お父さんの事が好きなんですね」

 もっと、こう、親子の確執的なものを想像していたのですが、考えて居たより問題は簡単なのかもしれません。

「当然でしょ、だからこそ認めさせなきゃいけないのよ」

 フィユさんは立ち上が、わたしを見ました。

「それで、答えをまだ聞いてなかったわね。絵を描いてくれるかしら?」

「わたしの絵でよろしければ」

「その答えを待っていたわ」

 満面の笑みで、フィユさんはわたしの手を握りました。

「あなたの世界ではこうするんでしょ?」

「はい」

 さて、お絵かきのスタートと言いたい所でしたが、少し問題がありました。

「脱走するだけなら、簡単なのよ。見張りも使用人だけだし、お父様もヴェツモスを討つまでは帰ってこないだろうし」

 そう、問題はそこではありません。

「ただ、装備一式を取られちゃってるの」

 つまり、戦う為の道具がない状態でした。

「本当なら剣の鞘か盾の裏に描いてもらおうと思ってたんだけど、どちらもないのよ」

「どこにあるのかもわからないのですか?」

「わかってるわよ」

 それなら話が早いです。 

「父が携帯してるわ」

 あっ、早くありませんでした。

 実質的に装備を取り戻すのは無理と考えた方がいいでしょう。

「なるほど。でしたら、外で一時的に買って、それに描くというのはどうでしょう?」

「ダメよ」

「だめですか?」

「あなたの絵は一生ものにしようと思っているの。市販品になんか描かせられないわ」

「えっ、いや、後からまた描きますよ?」

「ダメよ。自分の絵と能力を安売りしないで」

 安売りしているつもりは全くないのですが。

「あなたが絵を描くことはもう仕事になったのでしょう?」

「あっ、そう、ですよね」

 言われてから、はじめて気付くのですから、多少早起きしたところでわたしの頭はそれほど早くは回らないようです。

 それにしても、仕事とは。

 絵を描くことが仕事になったと、あの頃の私が知ったらさぞ驚く事でしょう。いえ、皮肉かと思うのかもしれません。

「とても貴重な技術だし、あなたの絵も素晴らしいのだから、絶対に安売りしてはダメよ」

 フィユさんは真剣な顔で言います。そこまで買って貰っているとは、なんとも気恥ずかしいものでした。なにより、まだ一度も絵画魔法として絵を完成させたことがないのに、こう評価されるのは後ろめたさすら感じます。

「それにしても、本当に何に描いて貰おうかしら」

 辺りを見回します。

 部屋は本当に飾りっ気のないもので、簡素なタンスと椅子、テーブル、ベッドがあるだけです。年頃の女の子の部屋としては淋しさすら感じました。

「身につけるものがいいですよね」

 戦いのことはよくわかりませんが、その中で使うとなれば、所持するのに無理のないものの方がいいでしょう。

「そうね、なにかあったかしら?」

 タンスを開き、中を覗くフィユさんです。

 フィユさんが今着ているのとほぼ同じ、飾りの少ないドレスが三着かけてあるだけです。

 わたしも着るものには気を遣わない方ですが、フィユさんもそのようでした。

 タンスの下板は蓋になっていて、それを開くと今度は下着と鎧の下に着るのでしょう黒で統一されたパンツやシャツが綺麗に畳まれて入っています。

「ないわね」

「フィユさんって装飾とか嫌いなんですか?」

 部屋もですが、鎧や服に関しても、すっきりしたものが多い印象でした。

「嫌いじゃないけど、冒険者には必要ないでしょう?」

「なるほど」

 機能性重視ということでしょう。

「装飾……そうね」

 なにか、思い付いたようにフィユさんはがさごそとタンスの奥を探ります。

「あった」

 そう言って取り出したのは少し長い、幅の広めな布でした。

 片側の端にだけ金属の留め具がついています。

 白の無地で、絵を描くには申し分ないものでした。

「それって、なんですか?」

「髪留めよ。私は結うほど長くないから使ってなかったんだけど、どう?」

 所変われば、と言いますが変わった形の髪留めです。帯をとても短くしたものと言った方がわかりやすいでしょう。

「描くのには充分だと思います」

 手渡された髪留めは、明らかにいい生地を使っているらしく、手触りからして違いました。滑らかなのに、しっかりとしていて、髪を留めるだけならどれだけ使っても壊れるようなことはないでしょう。

 明らかに一生ものレベルの品物でした。

「でも、いいんですか?」

「いいわよ、母の形見なの」

「えっ、それ、本当にいいんですか?」

「タンスの中で腐らせて置くくらいなら、シエルに描いて貰った方がいいわ。きっと、母もそう言うでしょう」

「本当にいいんですね?」

「ええ、お願いするわ」

 フィユさんは真剣な顔で頷きました。

 それは、なにかを覚悟するようにも見えました。

「わかりました。では、これに描かせていただきます」

 きっと、それは冒険者としての覚悟なのでしょう。

「魔法だけど」

「極冷魔法でしたよね?」

「それも考えたのだけど、使い勝手が悪いと思って」

 極冷魔法。

 冷気魔法の最上位に位置する魔法体系の一つだそうで、その名の通り、物を冷やすことを基本とした魔法が揃っています。例えば、指定地点を瞬時に凍結させたり、空気中の水分を凍らせて凝縮させることで氷の槍を作ったりする魔法。

 まぁ、これはおじいさんからの受け売りなのですが。

「えっと、別の魔法にします?」

 てっきり、極冷魔法に決めているものかと思っていたので、他の魔法については聞いていません。

「ええ、極雷魔法にしようと思うの」

 名前から雷であることは察せますが、どんな魔法があるのかとかはわかりません。

「えっと、どんな魔法なんですか?」

「お願いしたいのは、極雷魔法野中でも強化魔法、と言っても極雷魔法にそんなものは存在しないのだけど」

「つまり、創るんですか」

「そう、私とシエルで新しい魔法を創るの」

 なんとも嬉しそうな顔です。

 絵画魔法の最大の特徴、「その魔法がどのような魔法でも構わないこと」とはおじいさんがフィユさんに話していたことです。

 改めて詳しく解説してくれた内容ですと、絵画魔法って、正確には一つとして同じ魔法の存在しない、オリジナルな物だということでした。

 描かれる絵が一つとして同じものではないように。

 例えば、実在する魔法を模した絵画魔法を創ったとしても、発動される魔法は厳密には違う魔法だそうで、描き手がその絵に込めたイメージが絵の完成度によって魔法に昇華さる。

 それが、絵画魔法。

 つまり、存在しない魔法もわたしがイメージできて、それを絵に込めることができれば創れるのです。

 残念ながら、わたしは魔法に関して詳しくないですし、戦いのイメージもあまり湧きません。それをフィユさんが補えば、新しい魔法もできるかもしれません。

「いいですね、やりましょう」

 お絵かきのはじまりでした。

 フィユさんは自分のイメージした魔法がどういうものなのかを、身振りを加えてわたしに一生懸命伝え、わたしはそのイメージから更に絵をイメージしてそれを描いていきます。

 こういった経験は初めてでしたが、とても楽しい時間でした。

 あっ、いえ、新しい画材を使うのが楽しかったって話ではありませんよ。

 それも、まぁありますが。

 元々絵ではないもの、風景ですらないものを、そこから絵をイメージして描くというのはとても新鮮で、抽象画とかあまり得意ではないのですが、これに関しては得意と言っていいのかもしれません。

 なにより、フィユさんと一緒に絵を描いている感覚がとても新鮮でした。

 およそ、三時間。

 絵は完成していません。

「どうでしょう?」

「……凄いわ、シエル」

 フィユさんの持つ髪留めには、黒雲と雷、そしてその中を飛ぶ鳥が描かれています。

 わたしには珍しく、とても動的な絵でした。フィユさんの活発さや、前に進もうとする意志、語られる魔法のイメージ、それらから自然に浮かんだのがこの絵でした。ともすれば、黒雲の中を駆ける鳥はフィユさんなのかもしれません。

「最後に呪文を決めないとですね」

 絵画魔法を発動させるのには呪文が必要です。パスワードと言ったところでしょう。

「それに関しては、はじめから決めてるわ」

 改めて、髪留めを見つめ、フィユさんは、顔を上げました。

「クドフル、でお願い」

「クドフルですね」

 響きからして古代語なのでしょう。

「意味はなんなんですか?」

「それは秘密」

 くすりと笑うフィユさんです。

 まぁ、発動呪文を決めるのに意味は必要ないのですが。

 発動呪文として「クドフル」という単語を思いながら、最後の一筆、鳥の目を入れました。

 画竜点睛ならず画鳥点睛というやつです。いえ、この世界では通じないことわざでしょうけど。

 そんなわけで、わたしの初めての絵画魔法は概ね完成しました。

「ありがとう。大切にするわ」

 まるで宝物のようにフィユさんは髪留めを胸に抱きました。

 いえ、実際、お母さんの形見と言うことでしたら、宝物なのでしょう。

 それも、今や元の白さがわからないほど、絵で埋め尽くされてしまったわけです。

 罪悪感と言うのとは少し違いますが、なにか胸の中で鳴りました。

 これで、わたしの描いた絵が絵画魔法として機能しなかったら、なんと申し開きしていいのかわからない程です。

「それで、代金だけど」

「それに関しては、はじめから決めてます」

 フィユさんの真似をしたわけではなくて、本当に決めていたのです。

「いくらかしら?」

 ちなみに、おじいさんに相場を聞いてみたところ、冗談と思えるような金額を提示しました。

「いくらでも絶対に払うわ……分割になるかもしれないけど」

 解放の小太刀で換算すると、千個ほどの金額だそうで。しかも、それが最低値だとか言うお話でした。「希少度とその有用性から考えれば妥当」らしいです。

 まぁ、確かに、生きていくのにはお金が必要なのは事実です。

 わたしが今後、これを仕事にするのなら、今回の料金がわたしの絵の相場となることは明白でした。

 流石にそのくらいはわかります。

 だから、お友達料金で受けるわけにはいかない、ということもわかります。

 そう、生きていくのにはお金が必要なのです。

 ……ですが、現状わたしはお金に困っていませんでした。

 おじいさんのお店で働く分には、少なくともその心配をすることはないのです。

 いつまでもお世話になる事はできないでしょうが、当面はまだ追い出されはしないでしょう。

 と言うより、そんなお金があっても使えません。

 だから、色々と考えて、わたしの絵の相場を決めました。

「今回の依頼、フィユさんに同行させてください。それが、この絵の代金です」

「は?」

 呆れたような、驚いたような、いえ、これはきっと呆れた顔でしょう。

「冗談?」

「じゃないですよ」

「どうして、それが代金になるのよ?」

「ふふ、聞きますか?」

 本当に色々と考えたんですよ?

「先ずですね、その絵画魔法がちゃんと動くかわからないので、それを確認したいのです」

「それなら、今ここですればいいじゃない」

「だめです。実戦で使えるかを、見ないといけませんから。次にですね、わたしは魔法雑貨屋さんなので、冒険者の方に助言をしないといけないんですよ。そこで、フィユさんがヴェツモスと戦うのを実際に見ることで、それが可能になると言うわけです」

「見なくてもできるわよ。なにより、危ないし」

 そう、依頼に同行するなんて、よく考えなくても危ないことです。

「最後にですね、フィユさんがわたしの絵画魔法に命を預けるのと同じように、わたしは描くことに命をかけたいのです」

 危ないことに、フィユさんは挑むのです。

 わたしの描いた絵がちゃんと機能しなければ、最悪命を落とすことすらあるのです。

 それがわたしが絵を描くということに生じる責任だと思いました。

 いえ、これは綺麗な言い方過ぎますね。

 絵を描くことで、誰かが傷付くことがあるなら、わたしは絵を描くことを続けられないでしょう。

 絵を描けないわたしは、きっといずれ私に戻るでしょう。

 そんなわたしに、意味があるとは思えませんでした。

「わたしの絵の代金はわたしの命です」

 はい。というわけで、これがわたしの絵の相場となります。

「なんで、受け取る側が差し出してるのよ」

「あれ?」

 そう言えば、なにかおかしいですね。

「えっと……あっ、じゃあ、わたしの命を守ることが代金です」

 これなら、ちゃんと受け取ってます。

「驚くほど高い代金ね」

「そうですか?」

「ええ、でも、ちゃんと払うから安心して。シエルは私が守るわ」

「お願いしますね」

 さて、取り敢えず、出発の準備は整ったと言っていいでしょう。

「では、行きますか?」

「流石に陽がある間に抜け出すのは止めた方がいいわ」

「でも、レユルさんより先に倒さないといけないんじゃないですか?」

「大丈夫よ、ヴェツモスは夜にならないと動かないの。流石の父でも、隠れたヴェツモスを探すには時間がかかるから、今夜中くらいの猶予はあると思う」

「それなら、夜まで待ちますか」

「シエルは一旦、帰っていいわよ。これ以上、長居するのも怪しまれるでしょうし」

「それも、そうですね」

 軟禁されているのはフィユさんだけですし、わたしが外に出る分にはなんの障害もありません。

「あっ、独りで行っちゃだめですよ?」

「心配しなくても、ちゃんと迎えに行くわよ。解放の小太刀もまた買わないといけないから」

 解放の小太刀も、装備一式の中に含まれていたのでしょう。

「では、お店で待ってますね」

「ええ、本当に素晴らしい絵をありがとう」

 別れを告げ、お屋敷から出ます。

 いつの間にか、昼過ぎでした。

 さて、今度は夜が待ち遠しくなります。

 楽しみ、と言うのとは違います。正直に言うと、少し怖ささえ感じていました。自分で言い出したのに、これでは仕方ないですね。

 それでも、待ち遠しいと思ったのです。

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