お暇

 朝でした。

 明け始め、浅縹の空が見えました。

 早朝と言った方が近いでしょう。

 不意に眼が覚めていまったのです。

 いえ、これではわざとらしいですね。

 眠くならなかったのです。

 昨日の昼間に充分すぎるほど寝たからだということにして、身体を起こしました。

 居間の方では既におじいさんが起きているようで、朝の音がしています。

「おはようございます」

「珍しく早いな」

「なんだか、眼が覚めてしまって」

「ふむ、突然のことで落ち着かないか」

 それもあるのでしょう。

 しかし、それだけとも思えないのです。

 いつもは聡明なおじいさんでしたが、今回は少し的を外したような洞察でした。

「考える時間も必要だろう。今日は休め」

「そんな、悪いですよ」

「店の方は心配しなくても大丈夫だ」

 それは大丈夫なことに違いないのです。

 そもそも、わたしがいて役に立った記憶がほとんどありません。

 そんなわけで、不意にお暇をもらうことになりました。 

 おじいさんがお散歩から帰ってくるのを待って、わたしのお休みが始まります。

 しかし、お休みと言って行くところもなければ、することもないのです。

 買い物でも、と思い雑貨屋を出ます。

 驚くべき事に、わたしのお仕事には給料が発生していたようで、先日おじいさんから初任給をいただきました。

 三食、住居付き、閑職で給料までもらえるとは、なんと好条件な仕事でしょう。

 そんなわけで、少しのお買い物程度なら不自由しないお金は持っていました。

 なにを買うのかも決めず、ふらふらと大通りへと向かいます。

 朝の活気と騒々しさが、大通りに入る前から聞こえて来ました。

 思わず足を止めます。

 この人混みに耐えきれるような気がしなかったのです。

 それではどこに行こうと、来た道を戻ります。

 よくよく考えずとも、わたしはこの世界のこともこの街のことも相変わらずよく知りませんでした。

 知っている場所と言ったら、おじいさんの雑貨屋か学校くらいで、他の場所は数えるほどしか知りません。

 唐突に、足下がぐらついたように感じました。

 いえ、本当はずっとそうだったはずです。ただ、わたしは偶然にもおじいさんに拾って貰って、おじいさんの知り合いと知り合って、なんとなく落ち着いたような気になっていただけなのです。

 ぐらつく足下に抗えもせずに、ふらつきながら歩きます。

 どこに向かっているわけでもありませんでした。

 気付くと、大通りとは違う、少し広い道に出ていました。

 どれほど歩いたのかも覚えていません。

 こちらの道は大通りほど人で溢れているわけでもなく、どことなく生活の雰囲気がしました。

 並ぶ建物も、明らかに感じが異なり、なにかを主張することもない落ち着いた外観のものが多いです。そのことから察するに、住宅街なのでしょう。

 既に人は出払った後のようで、静かなものでした。

 煉瓦色と白磁色が交互に並ぶ石畳。表面は擦れ、ならされています。

 一定の間隔で木が植えられ、深緑の葉が木漏れ日を作っていました。

 木の周りの石畳が、その根に持ち上げられ割れています。

 それ以上の意味は特にないような光景がわたしの歩く速度で通り過ぎました。

 向かう先も決めない歩行は、やがて公園のような場所へと行き着きます。

 閑散とした公園のような場所に口を開く地下への入り口。

 どうやらこの世界での地下への入り口は公園に隣接される決まりでもあるようでした。

 生暖かい風がわたしを誘います。

 ふらふらとその誘いに乗ってしまいました。

 避ける必要の無い人々の間隔を、自分の大きさが縮んでしまったような感覚で歩きます。

 本日も地下走道はうわんうわんと風をならして人々を運んでいました。

 本日はアンさんが隣にいないのです。わたしの手を引いてくれる人はいません。

 誰かに手を引いて貰わないと、どこにも行けないような人間が、どうしてこんなところにいるのでしょう?

 そんな人間がこれからどこに行こうと言うのでしょう?

 変な窮屈が背中を押しました。

 気付けば地下走道に乗ってしまっていました。

 押し合うような人々の中に。

 一人で揺られる人混みは、あの場所とそう違いはないように感じました。

 隣にアンさんがいないだけなのに。

 どこに行くでもないのですから、どこで降りるわけでもなく、無数の看板が通り過ぎます。

 ともすれば……。

 いえ、なんでも人生に例えるような感傷などあまりいいものではありませんね。

どこまでも続くかに思われた地下走道は、人の少なくなった壁の前で加速度を失いました。

 終点のようです。

 ここがどこかもわからずに、降りて、人の背を追って地上へと這い出します。

 直ぐそこに街の外へと続く大きな門がありました。

 アンさんとお出かけした時とはまた違う門です。

 この門をくぐってしまえば、もう街の中に戻ることはできないような、そんな恐ろしさがありました。

 その恐ろしさはわたしを吸い込みます。

 街を出ると、明らかに空気が変わった感じがしました。

 ああ、わたしは、また……。

 ふらふらと歩みは、それでも街から遠ざかります。

 雨など降っていないのに。

 雨が降っていればいいというわけでもないのでしょう。

 情緒の問題です。

 街道はそれほどしっかりしておらず、細く頼りないものでした。

 さて、この道はどこに行き着くのでしょうか?

 少なくとも森ではないようです。

 緩やかな丘、その向こうにも木々は見えず、ただ背の低い草がどこまでも続いていました。

 なんだか不思議な既視感を覚えます。

 風の形がわかるように葉を翻す草たち。

 ややあって、思い出しました。

 ここは、あの時の場所です。

 どういうわけかこの世界に来てしまったわたしが、寝転んでいた場所。

 仮に、これがわたしが主人公のお話だとしたら、なかなかよくできた帰結のように感じました。

 あのときのように寝転びます。

 服の下から、潰されたことに抗議する草の葉が背中を刺しました。

 ただ、空。

 あの時からそれほど時間は経っていないはずなのに、随分と昔のことのように思えました。

 ゆっくりと流れる雲。

 空という名を貰っても、わたしはそのようにはついぞ成れなかったのだと、こんないい天気が当てつけのようにすら思えます。

 小さな雲が、風に形を変えました。

 結局、わたしはこの窮屈を押し込める箱の中でなにも変わりはしないまま、その重さに辟易するしかないのでしょう。

 端の方から綻び、雲は空に溶けて行きます。

 いえ、流石に消えたいなどとは思いません。こうやって、しばらくぼんやりして、夕方には街に戻るのでしょう。街に迷いながらも、おじいさんの雑貨屋に辿り着いて、何事もないように、陽の暮れるように、陽の昇るように、明日を生きていくのでしょう。

 わたしはわたしのまま。

 ああ、いい陽気過ぎて眠くなってきました。

 目を覚ましたら、帰りましょう。


「おい、生きてるか?」

 声が、わたしの足下の方から降ってきました。

 一瞬、幻聴かと思いましたが、そこまで追い込まれているわけでもありません。

「生きてはいますよ」

 目を開けると、空は痛いほどの茜色でした。 

「なんでこんなとこで寝てるんだよ」

 今回、わたしに声をかけたのはおじいさんではありませんでした。

「なんとなくです」

「やっぱり変わってるな」

 アンさんは呆れたように笑います。

「アンさんこそ、どうしてこんな所にいるんですか?」

「シエルを探してたんだよ」

「わたしをですか?」

「店に行ったら休みだって言うから、一緒に昼飯でもと思ってさ」

 時間から考えると、既に夕食の方が近いでしょう。

「それは、悪いことをしましたね」

 とは言ったものの、そのためだけにわざわざ街の外までわたしを探しに来るとも思えません。おじいさんがわたしの事情をどこまで話したのかはわかりませんが、全く何も言わなかったとも思えませんでした。

「心配しなくても、死にませんよ?」

「んだよ、腹芸は苦手じゃなかったのか」

「はい、苦手です」

「ったく、いい性格してるよ」

「それじゃ、帰りますか?」

「帰っていいのか?」

 それは、どういう意味でしょう?

「いつもより表情が硬いぞ」

「そう、ですか?」

 こんなにも自分が顔に出やすい人間だったとはついぞ知りませんでした。

 もしくは、アンさん相手だから出てしまっているのかもしれません。

「じいさんが悩んでるみたいだ、って言ってたが、なにがあった? 私でいいなら話聴くぞ」

「えっと…………」

 人に悩みを相談するなんて、これまでに経験したことのないことでした。

 そもそも、情報を人に伝えるのが苦手なので、わたしの話は要領をなかなか得ない形でしたが、それでもアンさんは時折相槌を打ちながら聴いてくれました。

 わたしの絵が魔力を持つこと、それを知らなかったこと、絵を依頼されたこと、どうしていいかわからなかったこと、なんでこんな気持ちになっているのかもわからないこと。

 言葉にすると気持ちは少しだけ解像度を増したように思えました。それでも、わからないことだらけです。

「なるほどねぇ」

 話を聞き終えて、アンさんは考えるように顎に手を置きました。

「つまり、シエルはじいさんに怒ってるんじゃないのか?」

 怒ってる。

 なにか、正鵠を得るような、言葉でした。

「わたし、怒ってるんですかね?」

「私相手には普通に怒るくせに、じいさんには気付かないのか」

 引け目とか、負い目とか、遠慮とか。ですがなるほど、そういうものを取っ払ってしまえば、確かにわたしはおじいさんに怒っていたのかも知れません。

「アンさん、帰りましょう。おじいさんに言わないといけないことがあります」

「おう、腹も減ったからな」


「おじいさん、なんでわたしの絵が絵画魔法って知っていたのに黙ってたんですか?」

 開口一番、お店の扉を開くなり言います。わたしにしては珍しく動的な行動でした。

 短絡的とも言います。

 それでも訊かないといけなかったのです。

 わたしがこの世界で生きていくためには。

「だから訊いただろう、描くことを仕事にするかと」

 驚きながらも、おじいさんは手を止めてわたしに答えました。

「それって、そういう意味だったんですか?」

 わたしはおじいさんではないので、それだけで察するのは無理というものです。

「単に絵画としても充分仕事になると思った。だが、そうなれば知られるのは時間の問題だろう」

 理屈としてはそうなのかもしれません。

 ですが、やはり釈然とはしないのです。

「なにより、絵を描いている時のシエルは楽しそうだったからな。少なくともこの世界に来てから一番楽しそうに見えた」

「えっ?」

「お前は色々と気にしいだろう。言えば絵を描くことも辞めてしまうだろうと思ってな」

「えっと、そう、かも、しれませんが」

「だから、こうして知られてしまうか、期が来るまでは黙っておこうと考えた」

 それは紛れもなく、おじいさんの優しさ故の行動でしょう。

 それすら窮屈に感じてしまう自分が嫌なのです。

 その窮屈に気付かない振りをして、この世界でも押しつぶされてしまうのはもっと嫌でした。

「配慮は、とても嬉しいです。でも、ちゃんと言って欲しかったです……悩むくらいのことはさせてください」

 わたしは確かに気にしいで、後ろ向きな人間で、頼りないですし、なにもできないような人間で、一度は折れてしまった傷物です。

 また折れてしまうとも知れない不安定な存在でしょう。

 今回だって、アンさんに言ってもらえなければ、また自分を押し込めて、窮屈に潰されることを選んだような、ダメな人間です。

 自分がなにに傷ついているのかすらわからないような人間です。

 それでも、今度は、この世界では、そうなりたくないと思っているのです。

「すまなかった」

 おじいさんは頭を下げました。

 命の恩人に、その恩を返せてもいないのに、こんなことをさせるのです。それはそれで、小さな窮屈にもなりそうでした。

「じいさんはなんでも自分の尺度で考えすぎなんだよ」

 生じ掛けた小さな窮屈をアンさんがさっと吹き飛ばします。

「そう言えば、アンにも昔言われたか」

「そう、全部自分で決めないでくれって、言っただろ。覚えてたんなら、そうしてくれよ」

「悪かった」

 再び頭を下げるおじいさんです。

「これからはちゃんと全て話すと約束する」

「シエルもだぞ」

 アンさんがわたしを見ます。

「じいさんに遠慮して、我慢するなよ」

「えっと、はい」

 直ぐには難しいかも知れませんが、アンさんがいるならきっと大丈夫だと思いました。

「よし、終わったな。飯食おう、腹減った」

 全てをまとめて、アンさんは区切りをつけるように敢えて、明るく言います。

「そうですね、お腹空きました」

 思えば、昨日の夜からなにも食べていません。

 それはお腹も空くというものでしょう。

「まだ作ってないぞ。ちょうどいい、手伝え」

「よしきた」

「はい」

 さて、明日にはフィユさんが来て、わたしは依頼をお受けすることになるでしょう。

「飯を食べた後で、絵画魔法についてちゃんと説明しよう」

「よろしくお願いします」

 あまりなにもできないわたしが、少しだけできることです。

 明日が楽しみになっている自分に気づき、なんとも単純な人間だと思いました。

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