来客
フィユさんがお店を訪れてから一日が経ちました。
また来る。とは明日来るという意味で無いことは知っていますがなんとも落ち着かない感じです。
そんな落ち着かない感じで昼下がりの店番中です。
本日もとても暇でした。
「持ち運び式魔法灯は発光方式で大きく分けて二種類ある。一つは一般に家屋で用いられるものと同じで魔力をそのまま光に変換するものだ。これは明度が高く広範囲を照らすことができるが、反面消費魔力は大きくなる。魔法灯としては大型でかつ直接供給機構や魔力蓄積機構を備えているものも多い。もう一つは魔光石に魔力を通して発光させるもので、少量の魔力で一定時間光源として機能する。光量と光色は魔光石の質によって変化するが、光源として用いることのできる魔光石が希少であることと、機構として空気中から魔力を集める吸魔方式を採用することの多い関係上高額になりやすいな」
暇だったのでおじいさんから魔法雑貨の説明を受けます。
細長い円筒とずんぐりした鐘みたいなものがわたしの目の前にありました。
「一般的に前者を力灯、後者を石灯と呼ぶな」
「石灯はなんとなくわかりますけど、なんで力灯なんですか?」
「魔力をそのまま使うからという意味合いもあるが」
おじいさんがずんぐりとした力灯を持ち上げて、わたしに手渡します。
「わっ!」
おじいさんが片手で持つものですから、片手で受け取ったのですが、その重さに思わず落としそうになってしまいました。
両手でも非力なわたしにはなかなかの重さです。
「持ってわかったと思うが、力灯は相当重い、そして頑丈だ。それで魔物を殴ったりするのにも使われる」
「それで力灯ですか」
なんとも乱暴な使い方とネーミングセンスでした。
「昔は魔灯と呼ばれてたんだがな、ある冒険者がそんな使い方を広めたおかげで呼び方まで変わったわけだ」
冒険者にも色々な方がいるようです。
「わたしは石灯の方がいいですね」
「そうだな、最近はそっちの方が主流になりつつある。力灯は重いし可動限界もあるからな。対して石灯は比較的壊れやすいという欠点がある。まぁ壊れやすいのは力灯と比較してだから、一般的な用途ではまず壊れないわけだが」
「なるほど」
「実際に使ってみるといい」
そんな感じで実演まで体験して、おじいさんの説明は終わります。
まぁこうやってゆっくりと説明を聞けるのもお店が暇だからこそだと思えば、なんとも複雑です。
「さて、そろそろか」
説明を終えたおじいさんが立ち上がります。
「なにかあるんですか?」
「アンが来ることになっている」
「ご飯ですか?」
わたしの言葉に「なんで最初に出てくるのが飯なんだよ」とお店の扉が開かれました。
「おじいさんのご飯好きだって言ってたので」
当然のようにアンさんです。
「それ以外の用事でも来ることはある」
「例えば?」
「例えば、じじいの使いとかで」
ポーチから紙を取り出したアンさんはそれをおじいさんへと手渡します。
「ふむ、ご苦労」
受け取ったおじいさんはそれに軽く目を通しました。
「ったく、人を雑用係にするんじゃねーよ」
「雑用ついでに店番も頼むぞ」
「はぁ?」
「少し出てくる」
そう言ったときには既に裏口へと向かっているおじいさんです。
「おい!」
「ついでに晩飯も買ってくるが、なにがいい?」
お店の奥からおじいさんの声がしました。
「肉だ、上等なのな!」
間髪入れずにアンさんが声を張り上げます。
「ったく」
それでもちゃんと残ってくれる辺りやっぱりアンさんです。
「大変ですね」
「そう、大変なんだよ、入学式も終わって仕事が山積みなのにさ」
そうは言いますが、アンさんはそれほど嫌そうではありません。
「もしかしなくても、サボってた分のつけが回ってきましたね」
「言ってないのに事務関係ってなんでわかるんだよ」
「だって、仕事から逃げられてよかったみたいな顔してますし」
「別にサボってたわけじゃないからな、字面で処理するんじゃなくてちゃんと顔を合わせてから対応できるように取って置いたんだ」
「そういうことにしておきましょう」
「そういうことにしといてくれ」
苦笑いをしたアンさんは中央の台に軽く体重を乗せるように寄りかかりました。
「それにしても、店番なんかしなくても暇だろこの店」
「まぁそうですね」
失礼だとは少し思いながら頷きます。
「なんで店番なんか……」
言いかけたアンさんは、なにかに気付いたようにハッとして、直ぐに苦虫を噛みつぶしたような顔になりました。
「あのジジイども、はめたな」
「どうしました?」
「昨日じいさんには珍しく入学式に出てただろ」
「はい、ザミールさんがわざわざお誘いに来てましたし、おじいさんかなり渋ってましたので、やっぱり珍しかったんですね」
「少なくとも私は初めて見た」
「そうなんですね」
「んで、そこでじいさんは古い知り合いに挨拶したりしてたんだが、そこら辺の連中は今日か明日には街を出る」
「はい」
「んで、たぶんその連中は街を出る前にこの店に寄ってじいさんに挨拶をして行くだろう」
「なるほど」
「じいさんはそれが面倒だから外出して、じじいはそのことを予想してシエルだけで対応させないように私をここに寄越したってわけだ」
「流石ですね」
「面倒なことを押しつけやがって、じじいに時間外労働手当請求しよう」
「でもおじいさんの知り合いなら、別に大丈夫じゃありませんか?」
「じいさんの知り合いだぞ?」
なんか噛み合いません?
わたしのこれまでの経験上、おじいさんの知り合いはアンさん含めていい人ばかりだったので、全く心配はありませんでした。いえ、きっと緊張はするでしょうが。
しかし、アンさんはとても嫌そうな顔をします。
「嫌なんですか?」
「その程度の問題じゃねーよ」
カチャリ。
扉が開かれました。
「ルシャン、いるか?」
そう言いながら入ってきたのはしっかりとした身なりの初老の男性でした。白菫色の髪と同色の手入れされた髭、そして非常にがっしりとした身体つきが印象的な方でした。
「あっ、いらっしゃいませ、おじいさんは今出てまして」
がっしりとした体型は普段お客さんとして来られる冒険者の方々と近いものを感じますが、纏っている雰囲気は明らかに違うものでした。なんというか、威圧感といいますか、重さとでも表現できるような雰囲気です。いえ、表情自体は明るく温和な感じでしたが、なんとも一癖ありそうな方でした。
「おっ、君がルシャンの言ってた子か」
薄々そうだとは思っていましたが、きっと先ほどアンさんの言っていたおじいさんの知り合いでしょう。
「えっと、はい、たぶん」
「思っていたよりも若いな、しかしルシャンは不在か」
ふいと、髭の男性は振り返ります。
「ルシャンはいないそうだ」
そして、扉の向こうにそう告げました。
まだ他にいるようです。
「それは残念だね」「逃げられたと言うやつだろう」「それよりも僕たちが原因じゃないかな、彼体制側ってのが嫌いだったはずさ」「俺らが体制側か?」「議員の君が言うと皮肉にもならないぞ?」「お前だって大概だろう」「私はただの役人だよ」「どの口が」「どっちもどっちさ」「一番体制寄りの人間が」「同類ってことだよ、僕ら平等に嫌われてるって話さ」「ルシャンとはよい友人であったと思っていたが嫌われていたとは知らなかった」「いや、お前は大丈夫だと思うぞ」「そう君に体制なんて言葉は似合わないさ」「少なくとも私たちの中じゃ一番好かれてるのは君だろうね」
髭の男性の声に反応したようにみなさんが入ってきます。
最初の方を合わせて四人。
お店はかつてないほどの賑わいをみせていました。
まぁみなさんお客さんではないでしょうが。
「そう一斉に喋ると困ってしまいますよ」
その後ろから更にザミールさんが入ってきました。
賑わいの中でも通る不思議な声です。
ザミールさんは視線をすーっと動かして、わたしを見て軽く会釈をしました。
「あっ、こんにちは」
「こんにちは、ルシャンはやはり出かけましたか」
「えっと、はい」
「少し騒がしいとは思いますが、大目に見てやってください」
「あっ、はい」
そして、わたしの隣に立っているアンさんを見ます。
「学長が来るなら私来なくてよかったですよね?」
少々、いえ、かなり不満そうでした。
「君は私に雑用をさせようと?」
普段の声から不思議な響きをさらに強めた声でした。
静かですが、とても強い威圧を感じ、空気が重くなったような感じがしました。
しかし、その空気も一瞬で、表情を崩したザミールさんは「冗談だ」と笑います。
「君がいた方がシエルさんの気が楽だろうとルシャンが言ってね」
「やっぱりじいさんと示し合わせてたんですね、学長はじいさんに甘過ぎるんですよ」
上司であるはずのザミールさんにも実にアンさんらしいアンさんです。
「まぁそう怖い顔をしないでくれたまえ、そこまで長居するつもりはない」
「もしや、君はパランのところの娘さんかな?」
最初にお店に入ってきた髭の男性がアンさんを見下ろしました。
「はい、父をご存じで?」
先ほどまでの不機嫌そうな表情が一瞬で緊張したものに変わります。
「彼と奥さんにはいくつかの依頼で世話になった」
「そうでしたか」
「パランと言うと?」「アルスの旦那さ」「アルス……ああ、夫婦で冒険者の彼らか」「そんな夫婦がいたとは、知らなかった」「彼らの子供がもうこんなに大きいとは時代を感じるね」「時代など、新世代すらもう古参と言われるほどだぞ」
一斉にしゃべりはじめるみなさんです。
アンさんはみなさんに囲まれて、なにやら都度相槌を打ったり忙しそうでしたが、わたしは完全に蚊帳の外なので安心です。
なるほど、確かにアンさんがいた方が気が楽でした。
「おっ、力灯じゃないか、懐かしい」
などと気を抜くとダメです。
片付けを忘れたまま置いてあった力灯を見つけた髭の男性がそれを手に取りました。
「この重さがいいんだ」
あんなに重い力灯を軽々と振る髭さんです。
「石灯はダメだな、軽すぎて持っている気がしない。簡単に壊れてしまう」
「えっと、そうなんですね」
「知っているか、これは昔魔灯と呼ばれていていたんだが、俺が力灯という呼び方を定着させたんだ」
なんだか、丁度今日聞いた話のような気がします。
「ドネルという魔物と戦った時の話だ。深い森での戦い。あれは強敵だった。身の丈は俺の倍ほどもあり、四本の腕にそれぞれ石を削った棍棒を持っていた。一振りで木々がなぎ倒されるほどの力。刃を通さないほどの堅い皮膚。まさに強敵。そして、長い戦いが始まった」
「またあの話をしているね。君の話は長くなるから端折ってくれ、ほら最後のところだけでいいだろ」
アンさんと話していた男性の一人が声をこちらに飛ばします。
「まぁそれもそうか」
髭さんは頷き、少し考えた後、また話を再開しました。
「戦いは一昼夜を超え終盤となった。ドネルの腕三本を切り落とした俺の剣はついに限界を迎え砕け散る。他に手持ちの武器はなにもない。万事休すかと思われたそのとき、腰に吊していた魔灯が触れた。俺はそれを掴み、ドネルの腕をかいくぐり、その身体に駆け上った。やつの首に足を絡ませ、渾身の力を込めて頭を殴りつけた。ドッ、という鈍い音がして凹んだヤツの頭から血しぶきが飛び、低いうめき声が上がる。たまらず、棍棒を投げ捨て、俺を掴もうと手を伸ばすドネル。その間に三度、更に俺はやつの頭を殴った。殴って、殴って、殴った。四度目、魔灯を振り上げた時、俺の手はドネルの血でまみれ、握力は既になくなっていた。俺の手を離れた魔灯が空を飛ぶ。ドネルの腕が俺に迫る。が、その腕は俺を通り越し、あてもなくだらりと垂れた。後ろで魔灯が地面に落ちる音。そして、重心をよろめかせドネルが倒れはじめる。ズドン!凄まじい音で地面に倒れたドネル。俺は投げ出され、転がり、木にぶつかって止まった。ヤツは事切れていたよ。」
なんとも壮絶なお話です。
「困ったのはその後だ。長い戦いを終え、満身創痍の身体がようやく力を取り戻す頃には既に陽が暮れ始めていた。星の光さえ届かない深い森だ。周囲に灯りとなるものはなにもない。頼りの魔灯も流石に壊れてしまっていた。夜が明けるのを待つ間、これほど長い夜はないと思ったな。獣たちの声が響く中で俺は壊れた魔灯を抱きしめていたよ。夜が明けて、なんとか街へと戻った俺はその足で魔法雑貨ギルドへと向かい、魔灯でドネルを倒した話をした。そして、強度をもっとあげるように頼んだんだ。魔物を殴り殺しても壊れないくらいに強く頼むとな。雑貨屋どもがしっかり取り組むように、方々でこの話をしていたら、いつの間にか魔灯は力灯と呼ばれるようになっていたって話だ」
「なる、ほど」
力灯がこんなに重くなった原因は思っていた以上に乱暴だったようです。
「懐かしいな、魔法雑貨ギルド」
いつの間にかアンさんの話を終えたみなさんが後ろに来ていました。
「俺はあっちの方が融通が利いて楽だったんだが」「色々と問題があってね、まぁ悪習というか」「国預かりの方が冒険者には都合がいいさ」「雑貨屋連盟にとっての間違いだろう?」「まぁ今が最善だとは思わないけどね、色々と頑張ってはいるよ」「そりゃお前には頑張って貰わないと困る、省になってからいい噂を聞かんぞ」「これは手厳しいね」
思いがけず、話の輪に囲まれてしまいました。
話の内容がよくわからないので相槌さえ打つことができません。
「思い出話はそのくらいで、そろそろ自己紹介でもしたらどうかな? いきなり知らない人間に囲まれるというのもかわいそうじゃないかな」
そんなおしゃべりを止めるようにザミールさんが手を叩きました。
「それもそうだな」
髭さんが賛同して、頷きます。
「ティクだ、国議議員をしている」
力灯さんとも呼べそうですが、ティクさんと覚えることにしましょう。
「なんだか自分で自己紹介なんて新鮮だね、私はフクテス。魔法雑貨省で一応長官をしているよ」
次に口を開いたのは、もこもことした服を着ている男性でした。足はすらっとしているのでがたいがいいわけではなさそうです。
「それじゃ次は僕かな?」
そう言って手を挙げたのは、みなさんの中で一番若そうな男性です。
髭……ティクさんに次いで身体が大きい方でした。
「防衛大臣ダラムってのは僕のことさ、昔は大盾のダラムとか呼ばれてたけど、まぁ知らないだろうね?」
なんだか、一番軽い感じのする方です。
「えっと、はい」
「まぁ転移者だから仕方ないさ、それじゃ最後は君だよ」
ダラムさんに背中を叩かれたのは、みなさんの中で一番背の低い方でした。
唯一、スーツっぽい格好ではなく白衣のようなものを着ています。
「ん、ああ、ボクはソル」
ソルさんはわたしから少し視線を外して言いました。
これでみなさんの自己紹介が終わりましたが、一度で覚えられる気がしません。
「彼は魔法ギルド長さ」
えっと……ダラムさんがソルさんの背に手を置いたまま注釈を入れました。
「そんなことより、君のことを知りたい」
その手を軽く払いのけ、ソルさんはわたしを見ます。いえ、やはり少し視線を外して。
「えっと、わたしのことですか?」
「ルシャンは君が絵を描いていると言っていた、興味深いから見に来るといいと」
「おじいさんがですか?」
「彼の名誉の為に言うと、それを言い出したのはザミールだったね」
えっと……フクテスさんが補足します。
「ルシャンがそういう言い方をするのは珍しいことだとボクは記憶している。つまり、ボクは君の絵に興味があるからここに来た、見せてはくれないだろうか?」
「悪いね、彼は昔からこういう性格でさ」
ダラムさんが笑います。
「まぁ私も興味あるんだけどね」「俺も見てみたいな」「これは乗った方がいい流れかな?」
まさかの事態でした。
わたしとしては、おじいさんのお知り合いをまぁそれなりに緊張しながらもなんとか差し障りなくお迎えしてお見送りすればいいだろうと思っていたのです。
それが、まさかこんなことになろうとは。
「えっと、わたしの絵なんてホントたいした物じゃないので」
謙遜と言うよりは本音でした。
「シエルさん、私が口を滑らしたばっかりに、すみません」
ザミールさんが心底申し訳なさそうに言います。
そんな顔をされても困るのですが。
「彼らは昔からこうなると譲らないたちでして、少しでいいから見せてやってはくれませんか」
絵を見せること自体は別に構わないですが、期待されたとしてもそれに応えられるようなものがないのが心苦しいのです。あっ、いえ、恥ずかしいという意味では結構構うかもしれません。
できればわたしのあずかり知らぬところで勝手に見ていただいて、勝手に感想を持っていただくのが一番いいのです。
「あっ、えっと」
「無理ならいいぞ」
わたしを心配したのか、アンさんが耳元で助言をくれます。
いいと言いますが、これを断れるようなわたしなら苦労はしないと思います。それはとても窮屈に感じました。
「そいつの口車には気をつけろよ」
空耳?
なんとなく、今一番聞きたい声が聞こえた気がしました。
「口車とは酷いじゃないか」
いえ、空耳ではありませんでした。
振り返るとおじいさんが立っています。
「あっ、おじいさん」
「おお、ルシャン」
「君はいつもいいところで来る」
「遅いじゃないか、待ちわびたよ」
「君、ボクを嫌っているというのは本当かね?」
「一斉に喋るな、お前らの相手は後だ」
買い物に使う袋を持ったままのおじいさんはすたすたとわたしの横に立ちます。
「あっ、おかえりなさい」
「老人どもの相手大変だっただろう」
「まぁ」
頷くのはどうかと頷いてから思いました。
「それで絵だったな」
おじいさんが袋から紙切れを出します。
裏面でそれがなにかを察してしまいました。
「あっ、おじいさん」
伏せたままのそれをおじいさんはわたしに渡しました。
「自分で決めるといい、見せたくないのならワシが断る」
これで見せたら、まるでわたしが見て欲しいみたいではないですか。
いえ、実際どうなのでしょう?
なぜ絵を描くのか?
それが好きだから、それ以上の理由ははじめはありませんでした。きっと、それは今もあの時も変わらないのです。
はじめて私の絵が人目に触れる所に飾られた時、感じたことは?
緊張、恥ずかしさ、それとももっと別の?
あまりに昔過ぎて忘れてしまったような気がします。
ただわかることは絵を描くのがただ好きだったということ。
それだけでいいと思っていたのです。思っているのです。
それでは、なぜわたしは表現を考えるのでしょうか?
誰に見られる為でもないとしたら、わたしの心の中でだけ留めておけばいいはずの細かな表現。
例えば、アンさんの背中越しの景色、例えば寝転んで見た少し湾曲した空。
わたしは絵を見て欲しかったのでしょうか?
それがわたしの存在の証明になるような気がしたから?
いえ、それだけと言うには違うと思いました。しかし、大きく間違っているわけでもないような気もします。
「まぁ、こいつらに見せても悪いようにはしないだろう」
えらく長く悩むわたしの背をおじいさんの言葉が押しました。
少なくともこの答えを出すのはここではないようです。
少なくともここはアウェーではないはずです。
「あっ、えっと、本当にたいしたものじゃないですからね」
最後の保険をかけて、紙をひっくり返しました。
わたしがこの世界で最初に描いた絵を。
わたしの名前と同じ「空」の絵を。
「おお、これはなかなか」
「ふむ、いい絵だと思うよ」
「たいしたものじゃないか」
「なるほど、そういうことか」
口々にいい感じの言葉が出てきました。まぁお世辞であるとは思います。
「私の言った意味がわかっただろう?」
「そもそもお前が口を滑らせなければな」
「おや、君だって端からこうするつもりだったんじゃないのかな?」
「お前は昔から本当に嫌なヤツだよ」
「君にそう言ってもらえるとは光栄だよ」
おじいさんとザミールさんが悪態を吐き合っていました。
そして、二人を交えてみなさんがお話をはじめます。
どうやらわたしの役目は終わったようです。
「お疲れさん」
アンさんでした。
「本当ですよ」
「にしても、絵なんか描けたんだな」
そう言えば、アンさんには言ってませんでした。
「ただの趣味ですよ」
「いい趣味じゃないか」
「そう言えば、このまえ森に行ったときの絵も描いたんですよ」
「本当かよ、後で見せてくれ」
「いいですよ」
アンさん相手にならなんとも思わずに見せることができるのに不思議です。
「お前達も飲むか?」
いつの間にかおじいさんが手に同じ円筒型のボトルを持っていました。
「なんですか、それ?」
「酒だ」
これ以上ないほどわかりやすい説明です。
「ラコールとは懐かしい」
おじいさんからボトルを受け取ったティクさんがそれを掲げます。
「ラコール?」
どうやらこのお酒の名前のようでした。
「昔からある安酒だ、これを買いに出てた」
「若い頃はよく飲んだね」
懐かしそうなフクテスさんです。
「最近はあまり見なくなったものさ」
と、ダラムさん。
「それはお前らの生活環境が変わったからだろ」
「今でも学生たちはよく飲んでるよ」
「不正確な観測者からは不正確な結果が導かれるという一例だね」
「そんなに難しい話にしないでくれよ」
お話をするおじいさんたちはその気安さから古い付き合いだということがわかります。
「君も飲むといい」
ソルさんがボトルを渡してくれました。
「あっ、いただきます」
お酒はそれほど苦手ではありません。特別好きでもありませんが。
受け取ったボトルは深碧。カタカナの「ト」のような形で、斜め下の方に飛び出た棒が上の方についています。どうやらそこが飲み口になっているようで、栓がついていました。大きさは五百ミリペットボトルほど。お酒では少し多いかもしれません。
アンさんにも行き渡り、全員がボトルを持っています。
「こういう場ではルシャンだな」
ティクさんがおじいさんを見ます。
「確かに」「ふむ」「さぁ音頭を」
みなさんの声を受けておじいさんがボトルを掲げました。
「亡き友に!」
「「「「生きる、我らに!」」」」
わたしとアンさん以外のみなさんが声を合わせてボトルを掲げます。
そして、一斉にラコールをあおりました。
なんだか置いてけぼりにされた気分です。
ワンテンポ遅れて、わたしも栓を開けました。
開けた瞬間、押し出されるように中身が出てきまして、口で受け止めなければなりません。
舌の上で跳ねるような微かな刺激とそれを追って苦味がやってきます。
わたしの少ない経験から似た味を探すと、インディアペールエールが近いような気がしました。それよりも苦みは抑え目でなんとなく薄い感じで飲みやすいです。
つまり嫌いな味ではありませんでした。
少し飲むと、溢れるのは止まり、逆に結構傾けないと出てこなくなります。
なかなか不便なボトルだと思って隣を見ると、おじいさんがボトルを逆さまにしていました。
なるほど。
それに倣って、ボトルを逆さまにすると、今度は止まらずどんどんお酒がでて来ます。
止まらないので、全部飲むしかなく、結果一気飲みになってしまいました。
元に戻せば止まると気付いたのは、飲み終えてからです。
「一気か! お嬢ちゃん、見かけによらずやるな」
わたしより先にボトルを空にしていたティクさんが上機嫌でした。
「えっと、はい?」
なんだかほわほわします。
そういえばおさけとか、ひさしぶりでした。
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