はじめてのお使い(2)

 快晴でした。

 いえ、朝から本日はずっと快晴だったので今更な気もしますが、いざ野外に出るとなると天気って重要な気もします。

 そういう意味ではお散歩日和でした。

「んじゃ行くか」

 少しの準備を終えたアンさんが言います。

 格好は変わっていませんが、腰には細身の剣を提げ、小型のポーチを肩からたすき掛けにかけてていました。

「剣を持って行くのですか?」

「一応な」

 そう言えば、お店に来られる冒険者の方も大半が剣を持っていました。

 魔物を倒すとおじいさんも言っていたので、冒険者のお仕事はなかなかハードなものなのかもしれません。

 いえ、魔物がどういうものなのか、実際に見たことがないのでなんともわからない部分ではありますが。

「先ずは街を出ないとな」

 そう言って歩き出したアンさんはなぜか城壁の方では無く、街の中心へと向かっていきます。

 そもそも森に行くと言いましたが、この街を出るのだけで結構な時間がかかるでしょう。

 帰りのことを考えると日を改めた方がいい可能性すらあります。

「森って、街の中にあるんですか?」

「はあ?」

 本気で呆れたような顔をするアンさんです。

 わたしだって本気でそう思ってはいないですよ?

「いえ、だってこっち外に行く向きじゃないですよね」

「冗談だよ、こっちの方が外に出やすいんだ」

 どういうことでしょう?

 とは言え、アンさんを信じるしかないので一緒に歩きます。

 少し歩くと、公園のような開けた場所に下へと続く階段が姿を現しました。

 なかなか広い階段で、何人もの方がその中へと吸い込まれていきます。

 なんだか地球でも見たことのある光景でした。いえ、まさか、そんな。

 アンさんの足は迷い無くその階段へと向かいます。

「ほら、行くぞ」

 下からぬるい空気が抜けていく感じなど、とてもよく知っている気がします。

 階段を下りきると広い構内があり、人の流れができていました。

「驚いたか?」

 アンさんが少し得意そうに言います。

「はい、驚きました」

 おそらくアンさんの想定していた驚きとは違うでしょうが。

「ここって」

「地下走道だよ」

「ちかそうどう?」

 地下鉄道とは違うのでしょうか?

「見てみりゃわかる」

 アンさんに連れられるまま歩いて行くと、風を感じました。

 線路?

 いえ、道があります。

 その上に人々や荷物や、馬や馬車までが乗っていました。乗っているものは摩擦を感じさせない平行移動で目の前を通り過ぎていきます。

 さながら動く歩道の巨大版です。

 その速度も速く、少なくともわたしが走るよりも相当速いです。

「これに乗って行けば速くて楽に街の外までいけるんだよ」

「これに乗るんですか?」

 そう言っている間にも、わたしの目の前を人々がすーっと通り抜けていきます。

 エスカレーターに乗ることすら難儀するようなわたしがこんな速い流れに乗れるでしょうか?

「ほら、行くぞ」

 などと、戸惑う間もなくアンさんがわたしの手を引いて、動く歩道へと足を進めました。

「わっ」

 あれ?

 なんだか想像していたのと違う感じです。

 物理とかあまり得意ではありませんでしたが、慣性ってあったと思うんです。動いているものに急に乗ったりすると後ろに引っ張られる感覚。

 わたしの経験上、こんな速さで動くところに急に乗ったら、それは結構な勢いで引っ張られると思ったのです。

 それがまるでありませんでした。思いっきり踏ん張った足がなんだか無駄に宙に浮く感じです。感覚としてはぬっと乗ったのです。

「あれ?」

 感じではなく、実際に宙に浮いていました。

「驚いただろ?」

「はい」

 これが魔法の力というやつでしょうか?

 慣れない速度で横の壁が通り過ぎていきます。その壁には色々な文字が書いてあり、時折あるホームのような開けたところで数人が降りて数人が乗ります。

「大陸でもここまでの地下走道があるのはこの街くらいだろうな」

「でも、これ降りられますかね?」

 こんな速度で走っているのです。いきなり止まるのはとても怖いと思いました。

「大丈夫だって、ってかそろそろ降りるぞ」

 アンさんが再びわたしの手を握ります。

「次の駅だな」

 通り過ぎる壁の文字が一際鮮やかになって、それが近いことを知らせます。

 足が震えるました。

「いくぞ」

 ぐいっと、強い力で手を引かれ、その力に身を任せて飛びました。

 ままよって感じです。

「あれ?」

 本日二回目の驚きでした。

 ほら、慣性ってあれが今度こそ来ると思ったんです。

 前に引っ張られる感覚が。

 この速さです。勢い余って壁に衝突するのではないかとすら思ったのです。

 思いっきり両目を瞑りましたもの。

「そんなに踏ん張らなくても大丈夫だぞ」

 そう、大丈夫でした。

 感覚としてはふわっと、わたしは地面に降り立ったのです。

「これ、凄いですね!」

「元気だな」

 ぬっと乗ってふわっと降りる、それが地下走道でした。

「わたし、こっちの方が好きです」

「そりゃよかった」

 地下走道から階段を上って外に出ると、そこは既に城壁の直前でした。

 見上げるだけで足のすくむような高い城壁がすぐそこにあります。普通に歩いたのではここまで来るのにも随分とかかります。

「ほら、こっちの方が早いだろ」

 正直な話、わたしはこちらの世界をまだ少し見くびっていました。

 よくよく考えれば、インフラが整備され、これほどの人々が行き交うような街を創れ、あんなに立派な学校を建てられ、魔法すらある世界が、大量移動手段を持たないという道理もないでしょう。

「帰りも是非乗りましょう!」

「言われなくても乗る予定だよ、そんなに気に入ったか?」

「乗るときと降りる時の感覚がとてもいいですね」

 とは言え、わたし一人ではたぶんタイミングを掴みかねるとは思います。

「また、手を引いてください」

「いいぜ、シエルとろそうだもんな」

 まったくその通りなので、返す言葉もありません。


 そんなこんなで、森でした。

 森と聞いたときにわたしが勝手に持ったイメージは、鬱蒼として人が足を踏み入れるのを頑なに拒む木々の群れでした。

 そのイメージがどこから来たのかはわかりませんが、実際の森は随分と様子が違います。

 深緑の葉を木々たちが揺らし、その隙間から木漏れ日がちらちらと光っていました。

 しっかりと踏み固められた道が整備され、そこだけが他の地面と異なり落ち葉すら落ちていません。

 森とはいいますが、街から続く街道の一部といった感じでした。

 現に、先にも後にも数組の旅人たちがいます。

 深緑の葉を揺らす木々、その隙間から木漏れ日、の下を歩く落ち着いた色の旅人たち、の歩く土器色の道。

 情景だけを切り取れば絵画にすらなりそうな、綺麗な構図でした。

「こういうお散歩もたまにはいいですね」

 元々そう活発に動く人間でもありませんでしたが、この世界に来てからはお店に一日いることが多く、確実に運動不足でした。

 森の中をこうやって歩くのはとてもいいものです。

「今日は天気がいいから尚更だな」

 最近、気温がほんの僅かに上がってきて、動くと軽く汗ばむような感じでしたが、森の中はほどよく涼しくて、本当に快適でした。

 心なしか足取りも軽くなります。

 アンさんは流石に歩き慣れているのか、後ろから見ているとその歩みはまるで跳ねるよな身軽さがあります。

 小さな音を立てて、腰に提げられた剣が揺れていました。

「そういえば、アンさんって冒険者なんですか?」

 冒険者学校の先生をしているのですから、きっとそうだとは思うのです。

「んー、一応な」

 しかし、アンさんの歯切れはそれほどよくありませんでした。

「違うんですか?」

「そもそも、冒険者って定義が色々あってさ、広義だと冒険者ギルドに加入してる人間って意味で、私の場合はそれだな」

「他の定義だとどうなるんです?」

「例えば、実際に依頼を受けてそれで生計を立てている人間、まぁ一般に冒険者って言われるのはここら辺で、大陸中を旅して回ってる」

「アンさんは学校の先生で、依頼で生計を立てているわけじゃないから違うってことですか?」

「平たく言うとそういうこと。ついでにもっと狭義になると、大きな依頼をいくつか達成して世間一般に名前の通った人間って感じになる」

「なるほど」

 一言に冒険者といっても色々とあるようです。プロとアマみたいな感じなのでしょうか?

 そういう意味では、先生をやっているアンさんは間違いなくプロ側だと思いますが、なんとも難しいものです。

「まぁとは言え、私だってたまにはギルドの依頼も受けるんだけどな。今回みたいに」

「あれ、もしかしてこれって依頼なんですか?」

「なんだと思ってたんだよ」

「お散歩とばかり、建前の延長線かと」

「仕事って言っただろ。まぁまだ話したいことはあるけどさ」

「本当にお仕事だったとは」

「私をなんだと思ってるんだ」

「アンさんです」

「だろうな」

 だいぶ見慣れたアンさんの苦笑です。

「実は、最近この森で旅人が襲われるってことが何件かあってな、その調査が依頼だ」

「それって、わたしがいて大丈夫ですか?」

 当然ですが、わたしは戦えたりしません。せいぜいお荷物にしかならないでしょう。

「大丈夫だろ、そもそもこの季節に魔物は滅多に出ない。なにより襲われたのは、ケチって護衛をつけなかったやつらばっかりだからな。実際にいたとしてもたいした魔物じゃないだろ」

 なるほど。と納得しかけましたが、魔物がたいしたものじゃなくても、わたしがお荷物なのは変わらないのではないでしょうか?

 わたしの不安が伝わったのでしょうか。アンさんが笑います。

「それに、今回の依頼は魔物の退治が目的じゃないからな。依頼として発行するには情報が少なすぎるから、そのための調査だよ」

「つまり、戦わないと?」

「基本的にはそういうこと。あと、私それなりに強いから、シエルを守るくらいはできると思うぞ」

「なるほど」

 地球にいた頃は「強い」なんて指標を使うことはあまりなかったのでなんだか少し新鮮です。

「とか、こんなこと言うと慢心するなってじいさんい叱られちまうな」

「おじいさんがですか」

 まぁ祖父的な存在としては孫的な存在は気になるものなのでしょう。

「ん、ああ、まだ聞いてなかっ」

 言いかけて、アンさんは言葉を選ぶように明後日の方向を一瞬見て、視線をわたしに戻しました。

「いや、言ってなかったって方が正しいんだろうな」

 表現としてそれほど変わるものでもないと思いましたが、なにかが違うのでしょう。

「じいさんが言ってないなら、私から言う必要もないな」

「なんの話ですか?」

「昔話だよ。誰にだってあるだろ?」

「そう、ですね」

 まぁ、誰でも、この歳まで生きてきたから今生きているので、昔話はあるのでしょう

「シエルもしたくないならしなくていいからな」

 なにかを感じ取ったのか、アンさんが補足します。

「えっと、はい」

「そういう昔話なんてのは、もっと歳食って、これ以上思い出が増えなくなってからすりゃいいんだよ」

 面白い考え方だと思いました。

 その頃には、思い出話のできるわたしになっているといいと。

「それより、今の話しようぜ。えーっと、河に行くんだったな」

 思い出したアンさんが言います。

「あっ、そうです。森の中にあるんですよね?」

 かく言うわたしも割と忘れていました。

「渡るだけなら真っ直ぐでいいけどどうする?」

「あー、水って汲めますか?」

「それなら脇道に逸れるな」

 少し歩くと、直ぐにはそうと気付かないほどの目立たない脇道がありました。

「少し歩きにくくなるけど、大丈夫か?」

「大丈夫ですよ」

 などと、軽く答えたのが間違いでした。

 脇道は余程使われていないのか、落ち葉が積もり足を取られます。所々木の根も張り出していて、油断すると転けてしまいそうです。

 先ほどまでのようにゆっくりと風景を楽しむ余裕はなく、視線は足下で固定されています。本当にそうしないと歩けないのです。

「息があがってるぞ?」

「は、い」

 それなのにアンさんは先ほどまでと全く変わらない調子です。

 なるほど、流石は冒険者です。

「ほら、もう少しだから頑張れ」

 しかし、歩くだけでこうも息が上がってしまうとは、自分で思っていた以上に運動不足は深刻なのかもしれません。そういえば、おじいさんは朝に散歩をしていると言っていましたし今度早起きできたら同行するのも手なのかもしれません。

「ほら、着くぞ」

 そういうアンさんの声に混じって確かに水が流れる音が聞こえます。

 ふと、横を囲んでいた木々が無くなり、明度が一気に上がりました。

 顔を上げると、そこには非常に大きな川がありました。

「はぁ」

 達成感よりも疲労感が先に来ます。

 そして、ようやく情報を頭が整理し始めました。

 わたしが想像していた川は森の中をささやかに流れるような小川だったのですが、実際の川はとても大きく、対岸が少し霞んでいるほどです。流れはそこまで速くはないのでしょうが、とても泳ぎ切ることは無理でしょう。

「綺麗だろ?」

 川の色は深碧で、確かにとても綺麗です。午後の日差しが水面にきらきらと反射しては流れていく様など芸術的ですらありました。しかし飲むのは少し躊躇われる感じです。

「はい」

 河原は小石と砂地の混ざった感じで、所々背の低い草が生え、一部には大きな石があったりと、なかなか多様性のあるものでした。

「足下、気をつけろよ」

 アンさんの忠告もごもっともです。

 先ほどの道を歩いた時点でわたしの足はなかなか限界を迎えていまして、割とふらふらしています。

 まるでわたしの人生のような足です。あまり上手い例えではありませんでしたね。

 そんなことを考えて歩くから転ぶのです。ちょうど足を置いたところがざっとずれて、踏ん張ることもできないままわたしの身体が傾きました。

「っと」

 すっと横に入ったアンさんが傾いたわたしの身体を支えます。

 すらっとした体格なのに思いの外強い力でした。

「大丈夫か?」

「はい、たぶん」

 それにしても綺麗に滑りました。

 足下を見ると、なんだか黒いものが落ちています。

「ん、だんだこれ?」

 わたしよりも先にアンさんが屈んでそれを手に取りました。

 手の平くらいの大きさの、布?

 その臭いをアンさんが嗅ぎます。

 どう見ても、いい匂いのしそうなものではありません。

 案の定、アンさんは顔をしかめます。

 そりゃそうでしょう。

 ですが、顔から布を離した後もアンさんの表情は戻りませんでした。

 そんなに強烈な臭いだったのでしょうか?

「大丈夫ですか?」

「ん、ああ、大丈夫だ」

 なんとも複雑な表情をしています。

「なぁシエル」

「はい?」

「少し付き合ってくれるか?」

 既に森まで一緒に来ているのですが?

「どうしました?」

「いや、思った以上に厄介な案件かもしれない」

「その布がなにか」

「珍しい魔物の特徴と類似しててな」

「魔物ですか」

 それがどんなものかはやはりわかりませんが、アンさんの表情からいいことではないのはわかりました。

「もう少し確証が得られる痕跡が欲しい、少しきついと思うが上流の方まで付き合ってくれ」

「大丈夫ですよ、ちょうどいい運動です」

 などと、軽く強がってみますが、まぁ明日は筋肉痛でしょう。


 アンさんはなにかを探すように、辺りを見回しながら先をゆっくり歩きます。

 ゆっくりとは言え、足場は次第に石がメインになり、とても歩きにくくなります。

 川幅も僅かに狭まったようで、上流へと向かっているのでしょう。

 河原の両端が進むにつれ高くなり、やがてわたしの背を超えました。その後も両端は高さを増し続け、壁のようになり、最終的にほとんど崖と言って差し支えない規模まで高くなっていました。

 その縁みたいに残ったわずかな河原を半身になりながら歩きます。

 軽いお散歩がいつの間にかトレーニングでした。

 しかも、足を踏み外せばそこは川ですから、なんともハードなトレーニングです。

 流れがゆっくりなのが幸いでしょう。仮に落ちたとしても、きっとアンさんが助けてくれます。

 落ちたくはないですが。

 ふと、頭の上になにかがぱらぱらと降ってきました。

「あれ?」

 顔を上げると、いつの間にか頭上に橋があります。

 立派な脚のついた、非常に大きな石橋でした。大きな川を渡るのにかかった橋なのでそれは巨大でした。

 歩道の下に弧を描いて石材に見える梁がかかっています。しかし、継ぎ目が見えないので石ではないのかもしれません。

 梁と歩道部は細長い幾本もの支柱で繋がっていました。

 おそらくあのまま脇道に逸れずに進んでいたらこの橋に出たのでしょう。

 上をなにか重いものが通っているようで、その振動で橋の下についたホコリが落ちてきています。

「あれ?」

 アーチ弧を描く梁の一部になにかが揺れた気がしました。

 橋の下なので影になっていて見えにくいですが、確かになにかがありました。

「どうした」

「アンさん、あれって」

 それは風にはためき、先ほどのものよりも随分大きかったですが、確かに黒い布でした。そこだけ明度の異なる黒が浮いています。

「でかした、シエル」

 言うが早いか、アンさんは崖へと取り付きました。

 ほぼ垂直の崖にあってないような足場、苔さえ生えていてとても登りやすそうだとは思えません。それなのに、アンさんはまるで貼り付いているかのようにするすると崖を登っていきます。直ぐに足か手を踏み外したら危ういような高さにまで到達しました。見ているこちらとしては気が気ではありません。

 心配している間にもアンさんは進んで、橋の下、アーチ部分へと到達しました。

 概算としては建物の五階くらい、とても生身で登っていい高さではありません。

 緩やかな曲線を描くアーチ部分はきっと人が歩くことなど当然想定していないのでしょう。狭い足場に無数の支柱が生え、それはとても歩きにくそうです。

 そんなアーチの上を、支柱から支柱へと跳んでアンさんは進みます。

 もちろん命綱などついてはいません。下手なホラー映画よりも恐ろしい映像です。

 直視することすら厳しいですが、目を離せば落ちてしまうのではないかと思うと、見るしかありません。心臓が冷え切っているのに早鐘のように鳴ります。

 布があるのは橋の中央付近。アンさんの身体の身軽さから考えればそんなに時間はかかっていないのでしょうが、見ている側としては一跳び一跳びが緊張の連続で、とても長い道のりに感じました。

 ついに辿り着いたアンさんは布を橋から取り外します。

 それを軽く畳んだアンさんは来た時と同じように支柱の間を跳んで、わたしの頭上付まで戻ってきます。

 そこでなにを思ったのか下を見ます。見上げるわたしと視線が交差しました。

 いえ、まさか。

 そして、アンさんは軽く、階段の最後の一段を飛ばすくらいの様子で飛び降りました。

 足から落ちたって、とても痛いことになるのがわかるほどの高さです。

 風を切りながらアンさんは落ちてきます。

 いよいよ地面が近づいて、思わず目を瞑ってしまいました。

「心配しなくても、このくらいの高さは大丈夫だぞ」

 目を開けるとアンさんが五体満足でそこにいました。足下が微かに金春色に光っています。

「もしかして、魔法ってやつですか?」

「当たり前だろ、なにも準備せずに飛び降りるかよ」

 そんなの知る由もないもないこちらとしては、とても心配したのです。

 心臓が止まるかと思ったほどです。

「おじいさんがアンさんを怒った感覚がとてもよくわかる気がします」

「ん?」

「わたしは少し怒っていますと言ったんです」

 わたしの言葉に少しきょとんとした後、アンさんは笑いはじめました。

「真面目に言ってるんですよ、心配したんですから」

 あんな高いところに何も言わずに登ってしまいますし、危ないことをしますし、その上なにも言わずに飛び降りてしまいますし、どれほどわたしが心配したと。

「わるいわるい。自分が怒ってるのをそう言うヤツははじめてだったからさ」

「本当に心配したんですからね」

「わかってるよ。すまなかった」

 アンさんは頭を下げます。

「無事で本当によかったですよ」

 ともすれ、今までのわたしなら怒ったことや心配したことを悟られまいとしたのかもしれません。それらの感情はきっと我が儘でしょうから。

 それでもアンさんには伝えたいと思ったのです。

「でも、私だって別に死にたがりじゃないからな。もう少し信頼してくれ」

 信頼とはまた随分重い言葉です。

 しかし、その重さを背負うのは悪くないかもしれないと少しだけ思いました。少なくとも窮屈ではなかったのです。

「それなら、信頼させてくださいね」

「ホント、いい性格だぜ」

 アンさんはにやりと笑いました。

「んじゃ、帰るか」

「お仕事はもういいんですか?」

「ああ、コレで確証が持てた」

 コレをアンさんは広げました。

 濡羽色の大きな布です。アンさんの身体の半分を隠すほどの大きさがあり、しかし所々穴が空いていて、綺麗とは言い難いものでした。

 微かに甘い臭いが漂ってきます。

「魔物ですか?」

「ああ、珍しい種類の魔物だな」

 そういう系統に乏しいわたしの知識では魔物と布というのがあまり頭の中で結びつきません。もっとも、知識と言っても地球での空想上の生き物としての魔物なので結びつくはずもないのかもしれません。

「まぁ、心配しなくてもギルドが依頼を出して、退治されるだろう」

「そうですか」

 おじいさんのお店に来られる冒険者の方々をみるにつけ、確かに強そうな人たちばかりだったので、その点の心配はいらないのかもしれません。

 やっとハードなお散歩が終わるかと思うと少し安心します。

「帰り着いて報告するまでが依頼だからな、気を抜くなよ」

 わたしの安心を感じ取ったようにアンさんが言いました。

 わたしの場合はお使いなのですが。

 それはそうと、ここから帰るとなると、また先ほどの険しい道を通らないといけないようです。

「あの、アンさん」

「どうした?」

「信頼しているので、おぶってくれません?」

「さーて、私は急いでギルドに報告しないといけないから、ここで解散するか」

 テキパキと布を畳むアンさんです。

「あっ、冗談です」

「でも、まぁ、あの道帰るのは面倒だから、近道するか」

 なぜか上を見て、アンさんはにやりと笑いました。

「私のこと信頼してるんだろ?」


 自分の言葉をこれほど後悔するとは思いませんでした。

「あの、まだ、つきません?」

「おまっ、耳元で話すな、こそばゆくて力抜けるだろ」

「それは、ダメです」

「話すなって、気になるなら目を開けろよ」

「それは無理です」

 目を開けたら気絶する自身があります。

 わたしはアンさんの背中にしがみついていました。正確にはロープで固定されているのですが、寄る辺なさから言ったら大差ありません。

 そして、アンさんは絶賛崖を登っています。

 近道だからと言って、あんな上にある橋にまで崖を登って行こうなんて、正気の沙汰とは思えません。しかも、わたしを背負って。

 簡単に信頼してるとか言うべきではありませんでした。

 いえ、事ここに至っては信頼するしかないのです。

「あの、まだですか?」

 それにしても随分長い気がしました。

 確かにわたしを背負っている分速度は落ちるのでしょうが、それにしても先ほどアンさんがみせた崖登りと比べると数倍の時間は経っているはずです。

 アンさんの返事がありません。

「あれ、アンさん?」

「わっ!」

 アンさんの声と共に、重力の向きが変わりました。お尻ではなく、背中が引かれ、加速度を感じます。

「えっ!」

 まさか、落ちて?

 目を開くと、とても青い空が見えました。

 そして、木々。

 直ぐに加速度は止まり、アンさんはえび反りにした身体を戻します。

 次に見えたのは地面とわたしたちをとても興味深そうに見つめる旅人たちの目でした。

「アンさん!」

 わるいわるい。とお腹を抱えて笑うアンさんです。

 信頼した途端にこれです。

「もう! 街までこれで行きますよ! 降りませんからね!」

「よしきた!」

 なぜかノリノリのアンさんは走り出しました。

 事ここに至っては人の目など気にすることもないのです。

「あっ、ちょっと止まってください、紐がお尻に食い込んで痛いです」

 まぁそんな感じで、柄にも無くはしゃいでしまいました。

 はじめてのお使いにしては上々だったのではないでしょうか?


 追記。

 浄化椀で川の水を飲むという目的はついに果たされませんでした。

 川に行くまでは覚えていたのです。

 忘れた用事があるというのも、なんともわたしのはじめてのお使いらしいと納得することにします。

 

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