お絵かき

 絵を描いています。

 それほど本格的なものではなく、たまたま余っていたと言うA4くらいの大きさの紙につい先日倉庫で見た「しきおくせき」の絵の具を使ったお絵かきです。

 なぜ、こんなことをしているのかと言えば、少し前のこと。


「おじいさん、魔法雑貨について教えて欲しいのですが」 

「珍しいな」

「いえ、店員をする以上、ある程度知っておく義務があると思いまして」

 いつまでもお仕事がおじいさんを呼ぶだけでは流石に申し訳ないと思ったのです。

「それは殊勝だ、そうだな」

 おじいさんは少し考えて、店の奥に消えます。

「先ずはこれからがいいんじゃないか?」

 直ぐに戻ってきたおじいさんが手に持っていたのは、白い直方体。

 昨日荷車に最後に積んだ絵の具でした。

「それですか?」

「昨日、やけに食いついていただろう、興味のあるものから覚えた方がいい」

 なるほど、そうかもしれません。

 しかし、その魔法雑貨の説明はそれこそ昨日受けています。

「それがどういう物かは知っていますよ?」

「使ったことはないだろう?」

「はい」

「ただの情報じゃ客に伝えるのには足りないからな、実際に使って得た経験こそ意味がある、なにより客が求めるのはそういった知識だ」

 そう言うおじいさんは、いつもよりもキリッとしていて、なんというか貫禄がありました。流石は店主といった感じです。

「なるほど」

 確かにお客さんに説明するには実際に使った方がわかりやすいのでしょう。

「ところで、絵の具なんて冒険者の方が使われるのですか?」

 それはささやかな疑問でもありました。

「直接どうこうってものじゃなく、補助稼のひとつだな」

「ほじょか?」

 あまり聞き慣れない言葉です。

「冒険者の主な収入は依頼として魔物を倒したり資材を集めたり、護衛をしたりまぁ色々あるわけだが、いつでもそういった依頼があるとは限らない、特に駆け出しの時は信頼が足りなくて依頼が回ってこないなんてこともあるからな、そういう時に路銀を稼ぐ手段が補助稼だ」

「へぇ、それで絵を描くんですか」

「だが人気のある補助稼ではないな、売れる程の絵なんて早々描けんし、描くのにも時間がかかるからな」

 なるほど、ごもっともです。

 絵で生計を立てるなどよっぽどでしょう。

「そういうわけだからあまり動く商品じゃないが、実際に使ってみればいい、ちょうどいらない紙もあったはずだ」


 と、こんな感じでわたしはお絵かきをすることとなりました。

 店番をしながら。

 これは、店員として真摯な態度と言えるのかなかなか微妙です。

 まぁ、相変わらずお客さんは来ないのでお絵かきをする時間はあるのです。

 それにしても、絵を描くことなど随分と久し振りでした。

 最後にいつしたのかも覚えていません。

 いえ、嘘です。

 覚えています。

 思い出したくないだけです。

 描くものについてはそれほど悩まずに決まりました。

 おじいさんに詳しい使い方を聞いてから、居間から持ってきた椅子に座り、商品台の一角をお借りして早速描き始めます。

 真っ白な四角い絵の具の表面に書かれた文字をなんとか解読して、青色を筆に乗せてみます。

 面白いもので、手で触る分にはまったくただのつやつやした石なのですが、専用の筆をつけるとじんわりと青色が筆に染みていきました。

 実に魔法っぽいです。

 そのままでは想定していたよりもなんだか随分と重い紺色でしたので、「濃度変更」面に筆をつけてみます。すると、まるで水で溶くように筆に乗った青が少しずつ薄くなります。

 試しに紙の端っこに軽く色を乗せてみると、いい感じの水色がすっと紙に走りました。

 筆の走りは水彩よりも少し重い感じがしますが、伸びは悪くありません。

 真っ白だった紙の端っこに一本惹かれた水色の線。

 なにかが戻ってきたような気がしました。

 わくわくするなにかです。

 それは忘れて久しいもののような気がしました。

 描き始めて夢中で、どれくらい時間が経ったでしょう?

 下書きすらせずに描き始めたにしてはそれほど悩むこともなく絵は進んでいました。

 なんだか本当に久し振りに時間を忘れるほどの楽しい時間にいる気がします。

 なにより筆を洗わなくていいのが無精なわたしと相性がいいです。

 この筆、面白い機能がついていまして 「けす」のボタンを押すと筆に乗せた色が綺麗に消えるのです。

 この機能は是非地球の筆にも搭載するべきでしょう。

 筆を洗うのを忘れて何本かぴかぴにしてきたのかわからないのです。

 一度色を乗せてしまえば、それ以上足す必要がないというのも大変魅力的でした。

 まぁこれは掠れを表現しにくいという面で一長一短だとは思います。

 当然面倒な部分もあります。

 事前に危惧した通り、色記憶の面が一つだけというのはやはり全く足りませんでした。

 どちらかと言うと筆自体を色記憶に使い、複数の筆で描き分けるというやり方になります。色記憶の面は色を混ぜ合わせる時に使うのがメインといった感じでした。

 そんな感じで久しぶりのお絵かきはほぼ完成と言った進捗です。

 そこでお店の戸が開かれました。

「いらっしゃいませ」

 お客さんを迎えるにはなんとも適さない格好での挨拶です。

 椅子に座り、商品台の一角を占領して絵を描く店員の図は子供ならまだ微笑ましいでしょう。

 実際はわたしなので、微笑ましいどころではなく、急いで広げた画材を集めて立ち上がらないといけません。転がる筆から色を全て消し、絵の具とまとめて描いていた紙に包みます。なんとか体裁を保ち、それらを椅子の上に。こんなに俊敏に動いたのは久し振りです。

「やあ、昨日振りですね」

 しかし、そんなに慌てて立ち上がったのにも関わらず、お客さんはお客さんではありませんでした。

 まさに昨日振りのザミールさんがお店の入り口にいました。昨日と同じような、とても魔法使いっぽいローブを着ています。

 いえ、お客さんには違いないのです。調子が独特なので忘れそうになりますが、なんなら一番の上客ですらあります。

「こんにちは」

「こんにちは、ご機嫌いかがですか、お嬢さん?」

「あ、えっと、いい感じだと思います」

 ご機嫌いかが、なんて生まれて初めて聞かれました。それにしても、いい感じとは我ながら気の抜けた返事です。

「それは重畳ですね、ところで」

「あっ、あの」

「どうされました?」

「わたし、シエルと言います」

 強引に話を切ってするのが自己紹介というのがなんともまた、人見知りで嫌になります。

 でも、しないといけないと思ったのです。

「そちらを選ばれたのですね」

 わたしの失礼を軽く流して、ザミールさんは微笑みます。

「いいと思いますよ、素敵な名前だ」

「はい、気に入っています」

「そういえば、私も自己紹介をしていませんでしたね、失礼しました」

 ザミールさんは長い身体を少し折って、会釈をするように不思議な声で言いました。

「ザミールです、どうぞよろしく」

 既に知っていることでしたが、本人から聞くとなんとも感じが違います。

「よろしくお願いします」

 背の高い、不思議な魔法使いさんがちゃんとザミールさんになった感じがしました。

「ところでルシャンはいますか?」

「あっ、はい、呼びますね」

 振り返ったところで、お店の奥から足音が聞こえます。

「お前がわざわざ出向くとは珍しいな」

 呼ばずとも来たようです。

「いくつか追加の注文があってね」

「それを珍しいと言っている」

 おじいさんは眉を寄せています。よっぽどなのでしょう。

「察しているだろう?」

「行かんぞ」

「今年くらいはいいじゃないか、三十周年の節目なんだ」

「五十周年になったら考えてやろう」

「その頃には君も私も流石にいないと思うけれどね」

 なにやら二人だけのお話が始まったようでした。

 邪魔になると悪いので、わたしは隅の方でお絵かきの続きでもしておきましょう。

 入口側へと椅子を移動させて紙を広げます。

「その方がいいだろう、いつまでも古い人間が居たんじゃ下も窮屈だ」

「それには賛成だけどね、しかし当分はいるのだからその間には背中を見せる程度の役割だってあるだろう?」

 紙にほぼ余白はなく、あとは気の済むまで色を重ねれば完成です。

「そういうのは表の人間がすればいい」

「私たちの世代に表の人間なんているのかい?」

 しかし、おじいさんたちの会話はなんとなく耳に入ってきてしまいます。いえ、聞き耳を立てているわけではありませんよ。

 ただ、この世界のことは色々と知っていた方がいいでしょうし、なによりおじいさんとザミールさんの関係とか色々と気になります。

「お前だ、他にもいくらでもいるだろう。ティク、ガマ、マプニ辺りは表と呼んで差し支えない」

「それらだって結局同類だよ、なにより君を知っている者は君が来るのを望んでいる」

「ろくなやつらじゃないな」

「まぁ、それは認めるけどね」

「いまさら会ってどうこうしたいやつらでもない」

「積もる話だってあるだろう」

「世間話なら店に来てすればいい」

「君が出ないんじゃ、ここにだって来難いと思うけどね」

「それならそれでいいだろう」

「どうしてそんなに出たがらない、なにも特別に席を用意するわけじゃない、雑多の来賓の中に紛れるような所を用意しよう。君を知らない者以外はそうとはわからないよう取り計らう」

「逆に聞くが、どうしてそんなに出したい?」

「それは、君がルシャンだからだよ、君は本来もっと知られるべき人間だ、歴史に名を残すべきだとすら思っている」

「その話はもう決着しただろう」

 なにやら重要そうな話になってきています。

「その決着に私は納得していないけれどね」

「ともかく出ないからな」

「君も強情だね」

「知っているだろう」

「嫌と言うほど知っているよ」

 しかし、なんとも不明瞭な会話でした。

 わたしがいるからあえてぼかしているのかもしれません。その程度のことは造作も無い二人でしょう。

 それはそうと、お話に聞き耳を立てながら絵は完成しました。

 あっ、いえ、聞き耳はそこまでですよ。ほどほど程度です。

 本当ですよ?

 絵は会心の出来と言うほどではありませんが、久し振りにしてはまあまあ描けたと思います。

 久し振りだから判定が甘くなっているというのはあるのでしょう。たぶん、翌日に見たら無数に修正箇所が見付かるパターンのやつです。

「そうそう、これが追加注文の分だよ、よろしく頼む」

 先ほどのお話は終わったようで、何事もなかったようにザミールさんは袖口から紙を取り出しおじいさんへと渡します。

「確かに」

 おじいさんも、何事もなかったようにそれを受け取りました。

 割と激しめな議論だったように感じましたが、そういえば二人ともそれほど語気を荒らげることはありませんでした。

 大人の会話というやつでしょうか?

「それじゃ、失礼するよ」

 ザミールさんが入り口へと歩いて来ました。

 邪魔になるといけないので、椅子を引いて立ちます。

「では、シエルさんもまたお会いしましょう」

 相変わらず、わたしにさえ挨拶を忘れないのですから流石です。

「はい、またいらしてください」

 お見送りのつもりでいつもより少し深めにお辞儀をします。

 きっと、その間に戸を開けて出て行かれると思ったのですが、顔を上げてもザミールさんはそこにいました。

「その絵は?」

 広げたままの絵を見られたようです。

「あ、えっと、魔法雑貨の勉強に、実際に使わないとってことで」

 これで伝わったでしょうか?

「つまり、シエルさんが描かれたと」

「えっ、はい」

「そうですか、少し拝見しても?」

「あっ大丈夫ですよ」

 ザミールさんは絵を持ち上げて、じっと見ます。

まあまあ描けたとは言っても、そんな真剣な鑑賞に堪えられるものだとは思わないので、耳が熱くなります。

 ほら、久し振りでしたし、慣れない画材でしたし、元々わたしなんてたいした技術を持っている訳でもありませんし、などと無数の言い訳が頭の中を巡ります。

「とても素晴らしい絵だと思います」

 じっと見た後、ザミールさんは紙からわたしへと視線を移し、言いました。

「あ、ありがとうございます」

「ルシャンも見るといい」

 そのままおじいさんへと紙が渡ります。

「ほう、空を描いたのか」

 ザミールさんもおじいさんもきっと絵を見る目があるタイプの人間でしょうし、そういう方に見られるのは軽いお絵かきであってもとても緊張します。

「えっと、はい、いつの空と言うわけでもないですが、空は散々見たので描けるかなぁって、夕暮れが始まる空を描きたかったので、そういう感じにですね、えっとはい、仰望視点で描くのって初めてでして、微妙に空を湾曲させて描いたつもりなんですけど、対象物がないので伝わりにくいですよね」

 緊張が極まると変に口数が多くなる癖があります。

 滅多に出る癖ではないのですが。

「いや、上手く描けていると思うぞ、いい絵だ」

 おじいさんが絵をわたしへと返してくれます。

「ありがとうございます」

 お世辞でも、そう言ってもらえると、恐縮しながらも少し嬉しいです。

「ところで、ルシャン」

 ザミールさんが声色を少し変えました。いつもよりも一層不思議な響きの声です。

 その後に続く言葉がわかっているようにおじいさんは頷きました。

「ああ、今年は出よう」

 どうやらいつの間にかそういう風にお話は決着したようです。

 おじいさんがどこで折れたのかわかりませんが。

「楽しみにしているよ」

 ルシャンさんはお店を出ました。

「それにしてもよく描けているな、覚えがあるのか?」

 二人きりになった店内で、おじいさんが再び絵を見ています。

「昔に、少しだけですよ、でも久し振りに描くと楽しいですね」

 それは偽らざる気持ちでした。

 あの時は、もう二度と絵を描くことはないと思っていたのです。

 まさか、異世界に来てもう一度描くことになるとは思いませんでした。

「気に入ったのなら、今後も描けばいい」

「いいんですか?」

「しばらくは暇だろうからな」

 まぁ事実です。

「なぁシエル」

「はい?」

 おじいさんが名前を呼ぶのは珍しい気がしました。そうは言っても、昨日まで名無しのごんべいだったのでそれはそうなのですが。

「絵を描くのは好きか?」

「えっと」

 好きなのですがそれを率直に「はい」と返事するのは少し憚られました。

 いえ、この世界でそれを咎める人なんていないのですが、そうそう割り切れるものでもないのです。

 ふと、あの場面が浮かびました。

 息もできないような空気。

 色は褪せて、ほとんど白黒でした。

 色は言葉に乗っていました。

 あの人の吐く言葉に。

 酷く毒々しい色が。

 耳を塞ぎたかったのです。

 それすら許されないほど、指は悴んでいました。

 あらゆる感情を消し去って、ただその時間が終わることだけを願っていました。

 言葉と言葉が行き交い、しかしその先に希望などあるはずもないと知っていたのです。

 彼女とあの人の会話は永遠に思えて、逃れ得ぬ一つの結論に収束します。

 だからいいと言ったのです。

 希望など、もとよりなかったのに。

 私のために戦った彼女に恨みに似た感情さえ抱き、その場面は終わります。

 その場面、三者面談。

「描くことは辞めないで」

 その場面の最後の言葉。

 なんで今になって。

 忘れようとしていたことを思い出すのでしょう?

 忘れたはずのことを思い出すのでしょう?

 理由があるとすれば一つでした。

「はい、好きです」

 なんとも長い時間がかかったものです。

「仕事にしたいと思うか?」

「えっ?」

「可能性の話だ」

「わたしの絵はお金を取れるほどのものじゃないですよ」

「仮にと言う話だ、絵を描くことが仕事になっても後悔しないか?」

 なぜ、いきなりそんな話になるのでしょう?

「えっと、わかりません」

「そうか、なら飾らない方がいいだろうな」

「えっ?」

「お前の絵だ、店に飾ろうかと思ったが」

 なんということでしょう?

 返答を間違えればわたしなんかが描いた絵がこの素敵なお店に飾られてしまうところだったようです。

「そんなのダメに決まってます」

「いいと思うがな、彩りにもなる」

「ダメです」

 わたしの絵なんか飾ったらお店の雰囲気が台無しでしょう。

 おじいさんのお店なんですから、そういうところをもっと気を遣うべきです。

 いえ、そのお店でお絵かきをしていた人間が言うのですが。

「ふむ、まぁお前が嫌なら無理強いはせんさ」

 それはありがたい限りでした。

「ところでおじいさん、どこかに行くのですか?」

 そう、わたしも聞きたいことがあったのです。

「入学式にな」

「冒険者学校のですか?」

「ああ」

 ザミールさんがわざわざ来て誘うのですからそうに決まってはいました。

 それにしても、入学式に出るのをあんなに渋るとはおじいさんにしては意外です。

「それは、大変ですね。頑張ってください」

 わたしは人が多いのが普通に嫌いですし、式典のような厳粛な空気も苦手なので、出たくない気持ちはよくわかります。

「出ること自体は別に構わんが、その後が面倒でな」

「そうなんですか」

 どうやらおじいさんが渋った理由はわたしが出たくない理由とは全く別物らしいです。

「まぁいい、そろそろ店を閉めて夜の準備を始めるか」

「はい」

 えっ?

 返事をしてから、もうそんな時間になっていたと気付きました。

 おじいさんたちの話を聞くのもですが、絵を描くことで思いのほか時間が経ってしまっていたようです。

 思えば、昔から絵を描くと時間を忘れていました。

 いまさらそんなことを思い出したのです。

 

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