おじいさんとみなさんとわたし

 わたしが退院してから四日。

 おじいさん、わたしを助けてくれた老人は雑貨屋を営む店主でした。

 そんなわけで、わたしの仕事は今のところ店員ということになります。

 それほど広くない店内に様々な種類の商品が置かれていますが、おじいさんの几帳面な性格を現したような綺麗な陳列もあって、とても整った印象を受けます。

 左右の壁には焦茶色の棚があり砂色のコップや藍鼠色の筒、四角い檜皮色の小箱などが適度な間隔を保って綺麗に陳列されています。

 中央には棚と同系色の台が置いてあり、その上には棚にあるものよりも少々大型の商品が陳列されていました。

 手書きの値札にはとても味があり、置いてある商品それぞれの造形も相まって見ているだけで落ち着く空間です。

 こんな素敵な雑貨屋にわたしが店員として居るのがなんとも場違いだとすら思えます。

 いえ、そもそも、店員としての用をほとんど果たせないので、場違いに違いないのです。

 おじいさんのお店は雑貨屋と言っても、取り扱っている商品は魔法雑貨と呼ばれるものでした。

 魔法雑貨というものにそもそも馴染みがないのです。

 その上、来店されるお客さんの大半が冒険者と呼ばれる職業の方ということもあって、不慣れなどという生易しいものではありません。

「ルシャンさんはいるか?」

 まさに今も、使い慣らされた鎧を着て、腰に剣を提げたいかにもファンタジーの住人といった男性がお店の扉を開き、わたしを見て、一瞬驚いた顔をした後、そう言います。

「あっ、えっと、おじいさんなら奥にいますよ。呼びますね」

 わたしのお仕事といえば、こうしてお客さんが来たことをおじいさんに取り次ぐ程度です。

 あっ、ルシャンというのはおじいさんの名前です。恥ずかしながら、お客さんに言われて知ったのですが。

「おじいさん、お客さんですよ」

 わたしが呼ぶと、おじいさんは「ああ」という返事でお店の奥から現れました。

 老眼鏡をかけているので、どうやら本を読んでいたようです。

「おお、お前か、久しいな」

 お客さんを認めたおじいさんは親しげに雑談をはじめました。

 こんな具合で、このお店を訪れるほとんど全てのお客さんがおじいさんに用事がある方なので、本当にわたしは必要ないのではないかと思う次第です。

 いえ、必要とされないことにはそれなりに慣れてはいるのですが、こんなわたしでも助けていただいた恩というものは感じていまして、どうせならなにかしらの役に立ちたいと思うのです。

 そうでなければ、せめて邪魔になる前にどこかに消えようと。

 しばしの雑談の後、お客さんはおじいさんに勧められた商品をいくつか買って帰られました。その様子はとても満足気で、最後のお会計に立ち会っただけですが、なんとも誇らしい気持ちにもなります。

 とはいえ、居たたまれなさは変わらないのです。これはわたしの性分という面も多分にしてあるのでしょう。人間、そうそう変われるものではないのです。

 しかし、それだけでもないと思うのです。

 理由は明白でした。

 言ってしまえば失礼になるのかもしれませんが、このお店、とても暇なのです。

 現に、お昼が過ぎた頃なのに先ほどのお客さんが本日はじめての来客でした。

 おじいさんのお店で働き始めて三日。

 これまでに対応したお客さんは五人。

 平均的な頻度で言えば、半日に一人といった割合でしょうか。

 この世界の物価単位や平均的な客単価だったり人口における冒険者の割合などを知らないのでなんとも言えませんが、どう考えても多いとは言えないでしょう。

 少なくとも、わたしのようなお荷物を抱えるだけの余裕があるとは失礼ながら思えません。

 嫌らしい話ですが、こちらの世界も貨幣経済で成り立っている以上、お金がなければ生きるのは大変だと思うのです。

「あの、本当にわたしがここにいてもいいのでしょうか?」

 だから、つい不安になってこんなことを聞いてしまうのです。悪い癖だと思います。

「どうした、急に?」

 老眼鏡を頭の上に乗せたおじいさんは少々意外そうに言います。

「わたし、いらないような気がしまして」

 いきなりこんなことを言われても困るでしょう。役に立たない上に面倒だとは、なんとも取り柄のない人間です。

「ふむ」

 流石のおじいさんもわたしの突飛な言葉に少し考えるような素振りをします。

 ややあって、非常に少ない手掛かりからおじいさんは答えを導き出しました。

「もしかして、売り上げを気にしているのか?」

 端的に言うとそうなのですが、その慧眼には驚かざるを得ません。

「えっと、まぁ、そういうことです」

 失礼を承知で頷きます。

 失礼だったとしても迷惑をかけるよりはマシだと思ったのです。

「そんなことで気を揉むとは、抜けているように見えて、意外に気が回るな」

 褒められているのでしょうか?

「ふむ、ちょうど頃合いだし行くとするか」

 なにかを思い立ったように、おじいさんはお店の奥へとすたすたと歩いていきます。

 お店は住居を兼ねていまして、奥のほうはそのままおじいさんの家となっています。

 居候させて貰っている身からすればわたしの家と言うこともできますが、流石にそれはおこがましいというものでしょう。

 住居はそのまま店の裏へと抜けられるようになっていて、裏庭には倉庫まであるので、見た目のお店の広さに比べると敷地面積は案外広いです。

「さて、行くか」

 すたすたと奥から戻ってきたおじいさんは、さきほどまで着ていた民族衣装を思わせるゆったりとした服から、洋服を思わせるスタイリッシュな服へと着替えていました。

「行くって、どこにですか?」

「行けばわかる」

 口ぶりから、どうやらわたしも同行するようです。

「でも、お店は」

「閉めても問題ないだろう、どうせ開けててもそんなに来ないからな」

 いえ、その通りなのかもしれませんが、店主が言っていいものなのでしょうか。

 とは言え、店主が言うのですからわたしがそれに反対する権利などないのです。

 お店を閉めて、裏口から裏庭へと出ます。

 用事があるのは倉庫のようで、おじいさんの足は真っ直ぐにそちらへと向かいます。

 この倉庫、なかなか不思議でして、外から見ると三畳ほどの大きさしかないように思えるのですが、扉を開けると奥が見えないほど広い空間が広がっています。

 これが魔法のなせる業なのでしょう。

 日本の狭い土地事情を簡単に解決してくれそうですが、この場合固定資産税はどうなるのでしょうね?

 どうでもいいことでした。

「荷物を積むぞ」

 わたしがそんなことを考えている間に、おじいさんは倉庫の中からちょうどいい大きさの荷車を取り出していました。

 いつの間に作ったのか、手には品物の書かれたメモが握られています。

 用意周到とはこのことでしょう。

 二人で協力して倉庫から荷物を荷車へと積んでいきます。

 倉庫の中は少しひんやりとしていていますが、寒すぎるというわけでもなく、きっと商品を適切に保存できる温度になっているのでしょう。照明も控えめで、とても快適です。

 それはそうと、荷物の運び出しはなかなかに大変な作業でした。

 量が多いというのも一つでしたが文字が読めず、物によって呼び方が違ったり、そもそも地球には存在しない物だったりして、商品を探す段階でなかなか手間取りました。

 おじいさんが几帳面に全ての商品の棚に書いた名札がまるで意味を成さないのが残念です。

 この程度のこともできないなど、いよいよ存在価値を失いそうです。

「ふむ、こんなもんか……あとは、絵の具だな」

 メモを上からなぞってチェックしたおじいさんは一つ抜けを見つけたようでした。

「絵の具ですか」

 少しでも役に立とうと、わたしにしては珍しく言うのと同時に倉庫へと歩を進めます。

 一口に絵の具と言っても、地球では油性、水性、アクリルと色々ありますし、形も様々です。

 しかし、とは言っても、流石に絵の具ですから多少形が違っても直ぐに見つかると思ったのです。それがダメでした。

 絵の具を見つけるくらい造作も無いと意気揚々でしたが、二往復してもそれらしいものを見つけることができません。

「すみません、絵の具ってどれですか?」

 結局戻ってきて聞くのですから、仕方ないです。

「こっちにあったと思うぞ」

 先走ったわたしを咎めるでも無く、おじいさんはすたすたと先導してくれます。

「これだな」

 そうして手に取ったのは、まるでプラスチックのように表面のつやつやした拳大の直方体でした。

 色は全面白で、六つある面それぞれになにか文字が書かれています。

「これが、ですか?」

 精一杯地球での知識を応用して、それらしいものを探せば、かろうじて固形水彩絵の具が近いと言えるかもしれないです。いえ、やっぱり全然違いました。

「珍しそうな顔をしているな」

「思っていたのと随分違いましたので」

「まぁこちらの世界でも珍しい絵の具にはなるな、元になるのは色憶石というものでな、それを組み合わせてこういう形にしている。」

「しきおくせき、ですか」 

「色億石と言うのは色を覚え込ませることができる石だな。これを専用の筆でなぞると面に対応した色が乗るわけだ。赤、青、緑、白がそれぞれ一面ずつ。濃度変更面が一面、色保存面が一面といった感じでな。本格的な絵画には物足りないだろうが、旅先で絵を描くときには重宝するものだな。」

「なるほど」

 流石のおじいさんで、商品の説明は慣れています。

 三原色に白、あと濃度調整。確かに少しのお絵かきなら事足りるでしょうか?

 いえ、色を保存するのが一面だけというのはなかなかに心許ない気がします。

 もう一つ、全面色保存用のものがあっても少々足りないのではないでしょうか。筆に乗った色を絵の具のようにパレットに下ろせるのでしたなくてもらいいのかもしれません。

 そもそも、どういう色がどういう風に乗るのかわからないのでなんとも言えません。

 なんとなく水彩を想定してしまっていましたが、油彩のようなものだとまた色々と勝手が違います。

「変な顔をしているな」

「あっ、いえ、少し考え事をしていました」

「それは五個もあれば足りるだろう」

「五個だけですか?」

「それほど需要があるものでもないからな」

「なるほど」

 他の商品は物によっては数十個単位で運んだのですが、これは五個だけらしいです。

 絵の具にそれほど需要がない世界なのでしょうか?

 それは少し残念な気がします。

 と言うよりも、積んでから考えましたが、この荷車いっぱいの商品をおじいさんはこれからどうするつもりなのでしょうか?

 わたしの疑問に答えるように、おじいさんが裏庭から外に続く戸を開けました。

「さて、行くか」

 同じ言葉を先ほども聞いた気がしますが、今度こそ出発のようです。

 おじいさんが荷車の前を引き、わたしがほとんど形だけで後ろを押します。

 おじいさんのお店があるのは裏通り。

 人通りのそれほど多くない、狭い道です。

 そんな道なので荷車を引くとそれだけで道が埋まってしまいます。

 当然、他の方の邪魔になるので心苦しいのですが、通りを行く人たちはおじいさんを見ると、特に文句を言うでもなく、軽い会釈で道を開けてくれます。

 人徳というやつでしょうか。

 緩やかにカーブを描く裏通りを抜けると、そのまま大通りへと出ます。

 道の幅が一気に数倍になり、人通りもそれに比例して多くなります。

 まるで祭りのように様々な声が飛び交い、人が行き交い、変な熱気が溢れています。

 道の両端には商店が軒先を広げ、通りの真ん中には馬車が、その間を人が埋め尽くしていました。

 こう人の多いのは苦手です。

 そんな中、人の波をおじいさんはすたすたと難なく歩いて行きます。

 わたしにはとてもできない芸当です。

「この街がなんて呼ばれているか知っているか?」

 ある程度歩いたところで、おじいさんが突然振り返り、わたしに声をかけます。街の喧騒があるので必然大きな声となり、一瞬びっくりしてしまいました。

「えっと」

 それほどよくない記憶力で以前聞いたはずの単語を思い出します。

「トア、でしたよね?」

 おじいさんとお客さんの会話から情報を拾う毎日です。確かそんな感じの名前でこの街を呼んでいたはずです。

「街の名前はそうだが、別名があってな」

 それは初耳でした。

「出発の街、そして帰還の街と呼ばれている」

 まるで相反するような別名です。

 いえ、出ていくなら帰ってくるのも当たり前なのかもしれません。

「へぇ、知りませんでした」

「そう呼ばれる色々理由はあるが、その一つがここだ」

 タイミングを計ったように、いえ、実際計ったのでしょうが、おじいさんは荷車を止めました。

 おじいさんが顔を向ける左手には非常に大きな石造りの門が口を広げ、その向こうにはこれまた大きな建物が鎮座しています。

 どちらも白と言うよりは生成り色を基調としていて、非常に存在感のある建物でした。

 あまりに大きすぎて、見上げるのに首が疲れてしまうほどです。 

「ここはこの大陸唯一の冒険者学校だ」

 そう紹介されると、なるほど確かに学校っぽく見えるので不思議です。

 ですが、なんと返事していいかわからず、曖昧な感嘆詞しか出てきません。

 いえ、凄いと思いますが、学校という施設にあまりに縁がなく、その上冒険者学校と言われてもそれにどう反応すべきかがわからないのです。

 大陸唯一と言うくらいですから、珍しい施設なのでしょう。規模から言っても街を代表するような施設だと察せます。

 もしかして、おじいさんは観光案内をしてくれようとしているのでしょうか?

 そう思った矢先、荷車は門の方へと向き、真っ直ぐに進み始めました。

 立派な門の前にはピカピカに磨かれた銀色の鎧を着た騎士然とした方が立っていまして、おそらく予定のない訪問者を排斥する役割を担っているのだろうと思われます。

 つまり、わたしたちのような、というわけですが。

 険しい表情の騎士さんはカチャリと鎧を鳴らし、一歩前へと進み出ると

「ルシャンさん、こんにちは」

 表情を崩し、軽く会釈をしました。

 どうやらこの騎士さんもおじいさんの知り合いのようです。

「そろそろ入り用かと思ってな、納品だ」

「承っています、学長なら自室にいらっしゃるかと」

「そうか」

 まったく、それだけの会話で当然のようにおじいさんは荷車を引いて学校の中へと歩みを進めます。

 流石はおじいさん、顔パスというやつでしょう。などと感心して、その後ろをついて行こうとしましたが

「君は?」

 騎士さんに厳しい表情で止められてしまいました。

 立ち塞がられると、騎士さんの体格や鎧の存在感、表情の険しさもあって圧倒されてしまいます。まるで蛇に睨まれた蛙です。

「ああ、紹介を忘れていたな、ワシの連れだ、店を手伝ってもらっている」

 怖じ気づいて言葉の出ないわたしの代わりにおじいさんが説明してくれました。

「そうでしたか、これは失礼しました、以前従者を装って侵入を試みた事例があったもので」

 それで納得したのか、騎士さんは一気に表情を崩します。

 崩した表情はとても温厚そうな方という印象ですが、立ち塞がられた時など表情だけで呼吸が止まるかと思うほどに恐ろしかったです。きっと真面目な方なのでしょう。

「それにしてもルシャンさんが手伝いとは、珍しいこともありますね」

「寄る年波には勝てんさ」

「またまた、ご冗談を」

 その意見には全面的に賛成でした。

 おじいさんは手伝いが必要なほど歳を感じませんし、やはりわたしは手伝いとしては力不足です。 

 軽く笑い合ったあと、騎士さんはわたしに向き直り、丁寧に頭を下げてくれました。

「ファグです」

 どう考えても自己紹介です。

「あっ、えっと、よろしくお願いします」

 それに対して、わたしは曖昧に返事することしかできません。

 いえ、名前などさして思い入れはないのですが、かつての名前を使うのは少し違うと思ったのです。名前などで変わるものもないでしょうが。

 おじいさんと二人の時は互いに名前なんて呼びませんし、おじいさんもわたしに名前を尋ねたりはしませんでした。それが配慮によるものか、うっかりなのかはわかりませんが、少なくともわたしとしてはとても気楽で助かっています。

「はい、よろしくお願いします」

 名乗らないわたしを少々訝しむように、それでもファグさんは笑顔で返事をくれました。

 自己紹介すらままならないとは、変わらないどころか悪化しているような気がします。

 そんな後ろめたさを感じながらも門をくぐり、学校の中へと進みます。

 授業中なのでしょうか、校内に人気は感じません。

 しかし、こう学校という場所の持つ独特の閉塞感と疎外感というのはあまり得意ではありません。

 ただの先入観から来る偏見なのかもしれませんが、部外者という立場で居ますと特に酷く場違いな感覚といいますか、いたたまれなさといいますか、そういうなんとも落ち着かない感覚を覚えます。

 いえ、きっとわたしの考えすぎなのでしょう。

 少し進み、倉庫らしきものの前に荷車を置いて、おじいさんはすたすたと歩き始めます。

 全く迷いのないその歩き方から、幾度もこの場所を訪れているのだろうことがわかります。

 ようやく、察しの悪いわたしでも流石になんとなくわかりました。

 つまり、荷車いっぱいの荷物はここに卸すものだったようです。

 おじいさんの後に続いて、広い校舎へと足を踏み入れます。

 床は大理石のような硬質な石材で、胡粉色と銀鼠がそれぞれ幾何学模様を作っていてなんとも洒落ています。

 そこにおじいさんの軽快な靴音だけがよく響いていました。

「大きな学校ですね」

 見たまま、当たり前のことを言うしかないわたしです。

 でも、本当に大きいのです。

 今歩いている廊下も先が霞むほど真っ直ぐに伸びていますし、天井もとても手が届かないほどです。横幅だって、おじいさんのお店の前の裏通りよりも広いような気がします。

「冒険者ギルドが本腰を入れて創った場所だからな、学校という括りで言っても大陸有数の大きさだろう」

「へぇ、凄いですね」

 それがどの程度凄いのかは正直わかりませんでしたが、凄いことは確かです。

「もう三十年程前になるか、門の戦いの後に少なくなった冒険者の補充と質の向上を目的として、当時の冒険者ギルドの長だったザミールが主導して創られたのがこの学校になる」

 少々懐かしむように、もしくは悲しむようにおじいさんは壁を手でなぞります。

 そう見えただけで、実際は何気なくした仕草なのかもしれませんが。

「そうなんですね」

 一応頷きます。

 しかし、当然門の戦いもザミールという方も知りません。知りませんが、歴史があるということだけは伝わりました。

「まぁ、そこら辺はそのうち詳しく話す機会もあるだろう」

 おじいさんの方もわたしがちゃんと理解しているとは考えていないようで、軽く流す感じです。

「さて、噂をすればだな」

 壁から手を離したおじいさんが廊下の先を見ました。

 そこには黒のローブを着た、いかにもという風体の老人が立っていました。

 冒険者と言うよりは魔法使いでしょうか。

「やぁ」

 魔法使いさんは緩やかに手を挙げておじいさんに挨拶をします。

 廊下に反響しているからでしょうか、不思議な響きを持った声の方でした。

 その様子は親しい友人にするようなそれに見えます。

「おう」

 対するおじいさんもごく自然体で軽く手を挙げて返事をします。

 見た感じの年齢も近いので本当にお友達なのかもしれません。

「持ってきたぞ」

「いい頃居合いだね、丁度頼もうと思っていたよ」

 二人とも話しながら歩いて距離を詰めます。

 並んで立つと、魔法使いさんは非常に長身でした。わたしより背の高いおじいさんよりさらに頭一つ分くらい高いのです。この大きな学校に合わせているのかと思うほどです。

 いえ、流石にそんなことはないと思います。

「ほれ、納品書」

 おじいさんはいつの間に作ったのかしっかりとした書類を懐から取り出しました。

「確かに、後で確認させておこう」

 受け取った魔法使いさんは軽く目を通すと、それを折りたたんで袖口に入れます。

 なんとも簡略化されたやりとりです。

「ところで、そちらのお嬢さんが例の?」

 などと、感心していると魔法使いさんの視線がわたしに向きます。

 例のなどと話題になるほどになにかした記憶もありません。

 なにもしていないから、心苦しいというのもあるのですが。

「ああ、偶々拾ってな」

「君は昔からよく拾うね」

「まぁな」

 人をまるで猫かなにかのように言うおじいさんです。

 まぁ、拾われたという表現にそれほど語弊はない気もします。

「改めまして、こんにちは」

 魔法使いさんが少しだけ身を屈めて、わたしに視線を合わせました。

「えっと、こんにちは」

 自己紹介をすべきなのでしょうが、それ以上なにか言うこともできません。

 わたしを見る目はなんだか吸い込まれそうな浅葱色でして、声の響きと相まってとても捉えどころの無いような不思議な感じのする人でした。

「ルシャンの所はどうかな?」

 どう、と聞かれても困ってしまいます。

「えっと、よくしてもらっています」

 他に言いようもないでしょう。

 おじいさんは優しく気が利きますし、仕事という仕事もあってないようなもので、わたしの必要性を感じないこと以外はとても快適です。

 実のところ、最初おじいさんに誘われた時、頭の片隅でわたしの身体を使ったなにかしらを想定したのですが、そういったことも全くなく、至って健全に快適でした。

「それは重畳だね」

「えっと、はい」

「まぁ、まだ慣れないだろうからわからないことはルシャンから色々と教わるといい、伊達に歳を喰っていないから大抵のことには答えられると思うよ」

「お前も歳は大差ないだろ」

「君よりは若い」

「誤差の範囲だ」

 そう言い合うおじいさんはなんだかいつもより少し若く見えます。

「ところで、アンはしっかりやってるか?」

 どうやらわたしの話題は無事に終わったようで、おじいさんは次の話題に移ります。

「ああ、頑張っていると思うよ」

「そうか、たまには顔を見せろと伝えておいてくれ」

「それなら荷車を持って行かせるというのはどうかな? 持って帰るのも手間だろうし」

「そりゃいいな、あいつが文句を言いそうな所まで完璧だ」

 いたずらっぽい顔でおじいさんと魔法使いさんは笑います。

 その後、二、三真面目な感じのお話をして、おじいさんと魔法使いさんは別れの挨拶を軽く交わします。

「じゃあな」「ああ、また」

 変に感傷的でない別れというのはなんとも気持ちのいいものです。

「お嬢さんも、また会えるといいですね」

「えっと、はい」

 すっかり存在感を消していたわたしにまで挨拶をくれるのですから、流石はおじさんのお友達と言ったところなのでしょうか。

 変な感心の仕方だとは思います。

「さて、行くか」

 魔法使いさんを見送って、おじいさんが踵を返します。

「はい」

 どうやら用事は済んだようでした。

「さっきのがザミールだ」

 広い廊下を歩きながらおじいさんが思い出したように言います。

 さて、どこかで聞いたような名前です。

「えっと」

「つまり、この学校の創設者、現学長、元冒険者ギルドの長だ」

「それって、凄い人じゃないですか」

 いえ、それが果たしてどれほど凄いのか正確にはわかりませんが、こんな大きな学校の学長ならそれは凄いに決まっています。

「そう見えたか?」

 そんなわたしに、おじいさんは嫌味な風でも無く素朴に聞きました。

「えっと、不思議な感じの人だとは思いました」

「だろうな、あいつは昔から変わり者だった」

 わたしからすればおじいさんもなかなかの変わり者のような気がしますが、言わない方がいいでしょう。

「あと、おじいさんと仲が良さそうだなぁと」

「仲が良さそう……確かにそれなりに長い付き合いにはなるか」

 微妙に不服なのか、首を傾げます。

「お友達じゃないんですか?」

「そういう気安い間柄でもなかったような気がするが、まぁ時間で曖昧になるものもあるか」

 なにやら感慨深そうでした。

 それはそうとして、微妙な疑問があります。

「どうして、名前言わなかったんでしょう?」

「ワシが伝えると思ったんだろう、なによりあいつは肩書きに拘るような人間じゃないからな」

「なるほど」

 確かに、肩書きというのは便利そうでなかなか厄介なものでしょう。

 先に肩書きを聞いていたらザミールさんへの印象も違ってしまっていたかもしれません。長身の不思議な人という印象は少なくとも抱かなかったでしょう。

「あと、お前が人見知りなのに気付いて、緊張させまいとした可能性はあるな」

「あー、えっと」

 いえ、人見知りなのはそうなのですが、まさか気付かれていたとは思いませんでした。

「気付いていましたか」

「気付かない方が無理だろう」

 それほどあからさまだったでしょうか?

 地球ではもう少し上手く立ち回れていたような気がするのです。

 なにより、おじさん相手だと特に緊張したりはしないので余計に意外でした。

「それを悪いとは言わんさ、初めて会う相手を警戒するのは正しい、まぁ多少慣れればいいとも思うが、知り合いが多くなれば必然どうにかなるだろう」

「はい」

「それはそれとして、客が少なくても大丈夫な理由がわかっただろう?」

 そう言えば、すっかり忘れていましたがそういうお話でした。

「学校に卸しているから大丈夫ってことですよね」

 地球でも似たような経営形態の小売業は存在しましたので、そう珍しい形態でもないのかもしれません。

「その通りだ、季毎の納品で売り上げの三分の一は賄っているな」

「生命線じゃないですか」

「まぁ上客ではあるな」

 それならもっと平身低頭しておくべきだったのかもしれません。いえ、きっとザミールさんはそういうことを避けたいと思っていたのでしょうけれど。

 しかし、三分の一と言うことは残りの三分の二はお店での売り上げということになるのでしょうか?

「また変な顔をしているな」

「いえ、それでもお店が暇すぎて計算が合わないとか考えていませんよ」

「素直だな」

 これはたぶん褒められてはいないと思います。

「はい」

「そうだな、せっかく外に出たし、あいつの所にも行っておくか」

「どこですか?」

「同業他社だ」

 それはもしかしなくてもライバル店というやつではないでしょうか?

「殴り込みですか?」

「物騒だな、敵情視察辺りにしておけ」

 実情としてはそれほど違わない気もしないではないのです。

 ファグさんに挨拶をして学校を出ます。次にお会いするときにはもう少しちゃんと挨拶ができればと思いました。簡単に「次」などと言ってしまうのですから仕方がないです。

 再び、熱気溢れる大通りへと戻ります。

 今回は荷車がないので、かなり身軽でした。

 だからといって、人の多いのが苦手なのは変わらないのですが。

「いつも凄い賑わいですよね」

「移動季も終盤だから、今はまだ落ち着いてきた方だな」

「移動季ですか」

「人々が移動する季節だから移動季だ、わかりやすいだろう?」

「なるほど」

 気温はほどよい暖かさがこの数日続いているので、地球で言うところの春か秋なのでしょう。確かに移動には向いている季節なのかもしれません。死ぬのには適さない季節であることは知っています。

「三季三節については実際に通して体験した方がわかりやすいだろう」

「はい」

 まぁ、通して体験できるほどわたしが生きていたらの話ではあります。

「それはそうと、そろそろ着くぞ」

 いつの間にか随分と歩いたようで、街を囲む城壁が随分と近くなっていました。

 相変わらず人は多いですが流れが少し変わったようで、なかなか前に進めません。

 真っ直ぐに進もうとする流れと、左手側に曲がろうとする流れが合わさって、人が溜まっていました。その熱気は息苦しいほどです。

 様々な声が行き交いとてもさわがしです。その中で一際大きな声が聞こえました。

「冒険者なら寄ってきなっ! 冒険者じゃなくても入っといで!」

 よく通る女性の声です。

「そこのあんた! これから旅だろ、足りないもんはないかい!」

 人の垣根の隙間から背の高い女性の姿が見えました。

 歳はおじいさんより少し若いくらいでしょうか。おじいさんが若作りなのであまり参考にはなりませんが。

気付くと隣にいたおじいさんがいません。

「なんだい、まだ死んでなかったのかい!」

 女性の声が客寄せのものから会話へと変わります。大きさはあまり変わっていません。

「口の減らないジジイだよ」

 見ると、いつの間に移動したのかおじいさんが声の大きな女性と話していました。

「今日はなんの用だい!」

 おじいさんの声は至って普通の声量なのでこちらまでは届きません。

 なにやら返事をしたおじいさんはなにかを探すように視線を動かし、わたしと目が合いました。

 どうやらそちらまで行かないといけないようです。

 苦手なことの少なくないわたしですが、人混みをかき分けて歩くというのもとても苦手です。何度、すみません、と言ったかわからないほど、すみません、と言って人と人の間を通ります。

「アンタかい!」

 ようやっと辿り着いた途端に、声の大きな女性に見下ろされました。

「敵情視察とはいい度胸だね!」

「えっ、えっと、はい」

 どうやらおじいさんは素直になんの用事で来たのかを話したそうです。これでは本当に殴り込みと大差ないような気がします。

「存分に見るがいいよ、大陸一の魔法雑貨屋を!」

 しかし、女性は全く気にも留めないようで、両手を広げて迎え入れるような仕草をした後、わたしの背中を大きな手で押しました。

 女性に押されて、人と人の間に沈み込むように前へと進みます。

 あまりの圧に息が止まりそうになります。それでも背中を押す力は緩みません。

 もう無理と思ったところで、急に圧が消え、開けた空間に出ました。

「「「いらっしゃいませー!」」」

 いくつもの接客業独特の明るい声が重なるように響きます。

 顔を上げると、そこはお店の中でした。

 それにしてもよもや、人に溺れそうになるとは思いませんでした。

 開けたとは言いましたが、それでも人口密度は高く、お店の前と比較して多少マシ程度なものです。次々と後ろから入ってくるお客さんに押されるようにお店の中へと進まされます。

 おじいさんのお店の十倍はあるでしょうか、いえそれ以上かもしれません。

 ずらっといくつも並んだ商品棚、その上には色とりどりの商品が沢山詰められています。

 溢れる色はそのまま店内の明るさとなっているような気もしました。実際に店内の明度はかなり高く、天井から吊されたいくつもの照明がその理由でしょう。

 通路も広く、人が簡単にすれ違える程度にはあります。それが何列も続いているのですから、お店の規模は相当なものでした。地球の大型スーパーを想起させます。

 人の流れに身を任せるようにして店を一巡し、入ってきたのとは別の入り口へと辿り着きました。

 そこではやはりスーパーを思わせる形のレジが四つ並び、商品を求めるお客さんが長い列を作っています。

「どうだい、凄いだろ!」

 真後ろからの大声に思わず身体を震わせました。

 振り返ると、先ほどの女性とおじいさんが並んで立っています。

「えっと、はい」

「そうだろう! なにより、ウチは安いからね!」

 それは確かに気になっていた所でした。

 歩きながら、様々な品物に感心すると同時に、いくつかおじいさんのお店で見たことがある商品と似たものもあったのです。

 なんとか覚えた数字を読んで回ったところ、こちらのお店の方がかなり安くなっていました。

 具体的には桁が一つ違う程です。

「はい」

「ウチは大陸全土に進出しているからね! 規模が違うのさ!」

「ネミの店は流通網を整備して、生産地と直接契約することで大量入荷と廉価販売を成立させているんだ」

 おじいさんが補足しました。それはまるで地球の大型流通企業です。

 すぐに大型スーパーに駆逐される地方の個人経営商店の図式が浮かびます。

 明るい店内に、活気のある声、溢れる人。

 一方、おじいさんのお店は落ち着いた静寂とたまに来るお客さん。

 なにもかもが違います。

 正直、勝負になってすらいないと感じました。

「凄い、ですね」

 これはもう、素直に感心するしかありません。

 敵情視察なんて言葉が空々しく感じる程です。

「だろうさ! ジジイの店が潰れたらウチにきな雇ってやるよ!」

「その時は世話になるといい」

 わざわざわたしを見て、そんなことを言うのです。

 息が、一瞬、詰まりました。

「おじいさん?」

 なんてことを言うのでしょう。

 確かに勝手だとは言っていましたが、これではまるで拾った猫をそのまま放し飼いするようなものです。

 いえ、わたしは猫ではありませんけど!

 なんだか慣れない感情で変なテンションです。

「まぁ、当分はその心配はないだろうがな」

 しかし、わたしが感情の整理をしてなにかを言う前におじいさんは笑いました。

 まさか冗談?

「せいぜい頑張りな!」

 女性もわかっていたようで、事も無げに笑います。

 なんという独り相撲でしょう?

「お前もな、それじゃまた来る」

「来なくていいよ!」

 おじいさんがすたすたと店外へと向かうので、わたしも仕方なくその後を追います。

 どう名状していいかわからない感情というのは久し振りです。

 女性のお店から少し離れ、人の通りがある程度落ち着いたところでおじいさんは振り返りました。

「ん、どうした?」

 振り返ったおじいさんはわたしの顔を見て首を傾げます。おじいさんにしてみればなんの気ない冗談を言っただけなのですから当然の反応でしょう。

 ここで「なんでもありません」と言うことはとても簡単でした。

 そして、それはわたしが往々にして選択してきた答えでもあります。

 それが窮屈に繋がることは嫌と言うほど知っています。

「たぶん」

 だから、わたしはそれ以外の言葉を選ぼうと思いました。

「わたしは不機嫌なんだと思います」

 自分で言っておきながらなんとも変な言葉です。

「ふむ」

「おじいさんが、世話になるといい、って言ったのが嫌だったんだと思います」

 しかも、なんと身勝手なのでしょう。出かける前には自分から「いらないのでは」と言っておきながら、こんなことを言うのです。面倒なことこの上ありません。

「そうか、悪かった」

 それなのにおじいさんは頭を下げて謝ってくれます。

「いえ、わたしこそすみません、おじいさんは悪くないです、わたしが勝手に思ってしまっただけなので」

「感情を抱くことは悪いことではないだろう」

 言われてみれば、そうかもしれません。

「不快に思ったのなら素直に言えばいい、ワシも言うしな、それで完全というのは無理でも互いに慮れるようになればいい」

「はい」

 こういった会話はこれまでの人生で初めてするような気がしました。

「今回の件は確かにワシが軽率だったな、お前が売り上げのことで気を揉んでいたのを知っていてネミの軽口に乗ってしまった」

 そして、少なくともこの会話では窮屈にはなりませんでした。

「わたしも冗談と気付くべきでした、おじいさんのお店は安泰だと知った後でしたし」

「まぁ、当分は安泰だな」

 にやりとおじいさんは笑います。

 その笑顔の憎めなさには敵いそうもありません。

「ところで、ネミの店を見てどう思った?」

 そう、またすっかり忘れそうでしたが目的は敵情視察でした。

 そして、とても自然におじいさんが呼んでいるので気付きませんでしたが、あの女性はどうやらネミさんと言うらしいです。

「とても大きいと思いました、あと、安いと」

「そうだろうな、類似品でもウチと比べれば半額、ものによっては十分の一以下というのもある」

 値段設定というのは小売業にとって非常に大切だと思うのです。

 より安く手に入れたいというのが消費者心理というものでしょう。

「値下げしなくていいんですか?」

「客層が違うからな、気付いたか?」

「えっと」

 人混みの混乱の中で他のお客さんをゆっくりと見てはいませんでしたが、そういえば鎧を着ているような人はいなかったような気がします。

 というよりも、なんか

「若いお客さんが多かったですよね?」

 そう、それがお店の活気にも繋がっていたような気がするのです。

「そうだ、ネミの店は駆け出しの冒険者や学校の生徒、他には一般の客がよく使う店だ、扱っている商品はそれなりの質で安いものが多い、商品も一般雑貨のようなものまで扱っているからな」

 それはつまりそのまま量販店ということでしょう。

「そういう価格に助けられている者も多いだろう、特に駆け出しの頃の装備調達は冒険者にとって頭の痛い問題だからな」

「でしたら、おじいさんのお店は」

「ワシの店は中堅以上の冒険者がよく使う店だな、置いてある商品も最上級のものが揃っている」

 つまり高級店です。

 なんということでしょう。わたしはわたしが思っている以上に場違いだったようです。

 おじいさんのお店でしかお金に触れていなかったので、標準的な金銭感覚がわからなかったというのもありますが、もう少し早く気付くべきでした。

「客単価が高いからな、そんなに忙しくなくても大丈夫というわけだ」

「そんなお店にわたしがいて本当に大丈夫ですか?」

「大丈夫だから置いている、知識はゆっくり付けていけばいいだろう」

 よくわからない後ろめたさは消えませんでしたが、店主がいいと言うのですからこれ以上ごねるのは、我が儘なのかもしれません。

 少なくとも今のわたしは場違いではあるので、そうならなくするためのなにかが必要でしょう。

「あと暇なのは移動季の終盤だからな、ウチを利用するような冒険者の大半は既に街を出ている」

「閑散期ってやつですか」

「そういうわけだ、逆にネミの店は冒険者学校の入学生や卒業生が利用するから今は特に忙しいだろうな」

「同業なのに繁盛期が違うって面白いですね」

 おじいさんは「そうだな」と肯定して、伸びをします。

「外に出たついでだ夕飯の買い物でもして帰るか」

「はい」

 思いがけず、長い一日となりました。


 お店に帰り着く頃には日が傾きはじめ、鴇色、紅色、朱色に柿色やはり空は美しく色付きます。色は同じで、でもやっぱり地球のものとは少し違う夕焼けでした。

 もう少し見ていたいという気持ちを抑え、夜の準備を始めます。

 夕闇に紛れるのにはまだ早いと思いました。

 お料理はおじいさんの担当です。

 こちらの世界の食材がわからないというのもありますが、まぁ、なんというか、その、食材がわかったところでどうにもならないこともありますし。

 なにより、おじいさんの料理は非常においしいので全く問題はありません。

 適材適所というやつです。

 それなら、わたしの適所とはどこかと言われれば、得意なことも別にないので普通に洗濯物を取り込んで、畳んで、仕舞います。ついでにお風呂の支度だとか、部屋の片付けだとか細々としたものをします。

 そう、お風呂があるのです。

 この世界、インフラがしっかりしてまして、電気こそないものの代替するように魔法や魔法雑貨がありますし、水道もあるので上下水道も整備されています。

 まぁ魔法に関してわたしは使えないのでその分不便ですが、要は慣れなのでしょう。

 そんな風に準備をしていると、裏口の戸が叩かれました。

「すまん、出てくれ」

 手が離せないのでしょう。おじいさんの声が台所からします。

 お店に用事のある方でしょうか?

 いずれにせよ、裏口からの来客というのは、はじめてでした。

 珍しいと思いながら裏口を開けると、若い女性が立っています。

 若い、と言っても最近の交流と比較してというお話でして、見目わたしとそれほど変わらない年齢に思えます。

 それを若くないと言うと角が立ちそうなので、やっぱり若い女性が立っていました。

 短めの髪は亜麻色で随分前に流行った歌を思い出します。

 しかし、目の前の彼女は歌に歌われる乙女よりも活発そうな印象を受けました。

 身体に沿うような動きやすそうな服装なども理由の一つでしょう。

「あれ、じいさんは?」

 わたしを見た彼女は少し驚いた様子で眉をひそめます。

 まぁ知人の家を訪ねて知らない人間が出てくれば訝しくも思うでしょう。

「ってか、あんた誰だ?」

 誰だと聞かれると困ってしまいます。

「えっと」

「その声はアンだな、あがっていいぞ」

 なんと答えればいいのか思いあぐねている間におじいさんの助け船が出ました。

「言われなくても上がるけどさ」

「あ、どうぞ」

 邪魔になるかと思い道を開けます。

「どうも」

 ……なんとも微妙な空気でした。

 いたたまれないと言うのとは違いますが、わたしの異物感が増すと言いますか、なんとも寄る辺ない感じです。

 廊下の中程で女性は立ち止まり、振り返ります。

「それで、あんたは?」

 こういう時に端的に説明できる言葉があるといいのですが、難しいものです。

「おい、どっちでもいいから料理を運ぶのを手伝ってくれ」

 再び、おじいさんの助け船でした。

「はいはい」

 アンさんは慣れた様子でお家の中へと進みます。

 そのまま台所へと向かったのでしょう。おじいさんと話す声が聞こえました。

「この量、私が食べる前提だろ」

「食べないのか?」

「食べるけど」

 声を聞く限り、二人はとても親しげでした。

「お前もこっちに来い」

 おじいさんの呼ぶ声がします。

 お前と言うのはおそらくわたしでしょう。まぁずっと誰もいない裏口に立っているのも変だとは思うのです。

 居間へ向かうと、既にテーブルの上に料理が運ばれ、おじいさんとアンさんがそれぞれ席についていました。

 檜皮色の広めの丸テーブルはここ数日ですっかり見慣れたものでしたが、席につく人が増えるとなんとも新鮮な感じがします。

 おじいさんはいつもの壁側の席に、アンさんはその右手側にほどよい隙間を空けて座っています。いつもは二つしか椅子が置いていないのでどこからか持ってきたのでしょう。

 必然、わたしはおじさんの左手側、アンさんの右手側に座ることとなりました。

 それぞれの席の前には黒いお皿に乗った大きな一枚肉があります。こんな大きなお肉を食べきることができるでしょうか?

 中央にはパンとサラダがそれぞれ大皿に置かれていました。

 いずれにせよとても美味しそうです。

 ふと、視線を感じ顔を上げるとアンさんがわたしをじっと見ていました。

「荷車持ってきてくれたんだろう、すまなかったな」

 焼きたてで湯気を上げるお肉の向こうでおじいさんが口を開きます。

「ったく、時間外労働だぞ、職権乱用だ」

「こうでもせんとお前は顔を見せんだろう」

「気が向いた時には来るって」

「どうだかな、まぁいい、先に食べるか」

 おじいさんがナイフを手に取ります。

「そうだな……って流せるか!」

 アンさんが一度手に取ったナイフを肉に突き立てました。

 ミディアムレアなお肉が、ナイフの入った切り口から肉汁を流しています。

「誰だよ、こいつ」

「偶々拾ってな、店の手伝いをしてもらっている」

「はぁ、また厄介事か?」

「今のところはそれはないな」

「ならいいけどさ」

 アンさんはわたしの方を向きます。

「私はアン、冒険者学校で教員をしてる」

 自己紹介でした。

 今日はそういう機会が多くて困ります。これまで一度もまともにできていないのですからなおさらでした。

「えっと、おじいさんに拾われた者です」

「しまらんなぁ」

 おじいさんが呆れたように笑います。

「なんだそれ」

「転移者なんだよ」

 おじいさんの補足が入りました。

「おい、充分厄介事じゃねーか」

 どうやら厄介事だったようです。

「手続きは全て済ませてあるから大丈夫だ、こういう時、お前のとこの学長は便利でいいな」

「じじいまで共犯か、ったく」

 なるほど、わたしが「例の」と言われた理由が少しだけわかった気がしました。実際にどのような手続きがあったのかはまるでわかりませんが。厄介事ではあったようです。

「ああ、手続きと言えば」

 なにかを思い出したようにおじいさんがわたしを見ます。

「名前だが」

 その言葉になんだか息が詰まってしまいました。

 いえ、自分の名前がそれほど全く好きではなかっただけで別に聞かれることは構わないのです。呼ばれるのも、これまで散々そうだったので慣れてはいます。

 ただ、あの名前をこちらでも使うのはあまり積極的にやりたいことではなかっただけです。

 いえ、名前など突き詰めてしまえばただの記号なのですから、それだけでなにかが変わるわけでもないでしょうし、名前が変わらなかったからと言ってわたしが変われないわけでもないでしょう。

 などと考えてしまう時点でわたしなど変われようもないのかもしれません。

「シエルってのはどうだ?」

 そこまで長々と考えたわたしをおじいさんは一言で止めました。

「えっ?」

「書類に必要でな、仮と言う形で勝手に付けさせてもらった。古代語で空という意味だ、あくまで仮だから気に入らなければ変えることもできる」

「いえ、とてもいいと思います」

 とても素直な感想でした。

 シエル。空という意味の名前。

 わたしに空なんて、あまりに大それたもののような気もしますが、おじいさんのくれた名前です。

「えっと、わたしはシエルです」

 アンさんに向き直って、この日はじめてのちゃんとした自己紹介をしました。

「いや、聞いてたんだけどさ、今のやり取りなんだ?」

 まぁ、ごもっともな疑問です。

「あれか、記憶喪失とかそういう」

「違いますよ」

 そうだったらどれほどよかったのでしょう。

「じゃあ、転移者にだって元の名前くらいあるだろ?」

 まぁその通りなのですが、シエルとなったわたしには必要ないものでした。

「いえ、わたしはシエルです」

 あまり納得した感じではありませんでしたがアンさんは頷きました。

「じいさんが拾ってくるのは変なやつばっかりだってことはよくわかった」

「それじゃ食べるぞ、肉が冷めちまう」

 言うが早いか、おじいさんはお肉を口に運びました。

 なんとも若々しいおじいさんです。

 アンさんもナイフで突き刺したお肉をそのまま持ち上げ、豪快に食べ始めます。

 それでは食べることにしましょう。

 お肉の上には松葉色の小さな欠片が見えます。なにかの葉っぱでしょうか?

 ほかにも香辛料と思われる、小さな粒がついていました。

 一口大に切って、食べてみます。

 最初に香ったのは香草の匂いでした。

 独特の風味に混じって、それほど強くない酸味もします。

 お肉をかむと、充分な歯ごたえと同時に牛肉の赤身に似た、それよりも甘さの控えめで旨味の強い味が広がります。

 最後に、香辛料の僅かな辛みが舌に触れました。

 それぞれの味がお肉の美味しさを引き立て、端的に言ってとてもおいしいです。

 サラダとパンもそれぞれお肉と合うもので、食べきれるか不安とさえ思ったお肉はいつの間にかなくなってしまっていました。

「久し振りに肉も美味かったな」

 満腹そうなおじいさんが深く椅子に座り、お腹をさすります。

 テーブルの上の器は全て綺麗に空っぽになっていました。

「歳なのによく食うよ、残したら食べてやろうと思ってたのに」

 一番早くにお肉を食べ終わったアンさんも満足そうに笑います。

「残念だったな」

 親しげに話す二人に、美味しいご飯を食べて珍しく冴えたわたしの頭がなにかを閃きました。

「もしかして、アンさんっておじいさんのお孫さんですか?」

 我ながら慧眼ではないでしょうか?

 年齢から考えてもちょうど合いますし、お二人の仲のよさもわかるというものです。

「こいつがワシの孫か、そりゃいいな」

「どうだか、まぁ似たようなもんだけどさ」

 二人は同時に笑い出しました。

 どうやらわたしの頭はそれほど冴えてはいなかったようです。

「私の実家がこの近くなんだよ」

「アンの両親は冒険者でな、家を開けることが多かったから世話をしてたんだ」

「まぁそんなとこ」

「そうでしたか」

 残念ながらハズレでしたが、二人の繋がりはとてもいいと思いました。

「さて、これで直ぐに会えるのには一通り会ったかな」

「そうだろうとは思ってたけど、私を呼んだのはシエルを紹介する為か。それならそうと最初に言えよな、雑用のついでじゃなくてさ」

「それじゃお前は来んだろう」

「まぁそうだけどさ」

「この店でこれからも働くのならいずれ会うんだ、どうせなら早いほうがいいだろう」

 これからも。

 わたしがいらぬお店の心配をして勝手にいたたまれなくなっている間に、おじいさんはわたしのこれからを考えていたようです。

 まったく、勝手なおじいさんです。

「まぁとりあえずよろしくなシエル」

 アンさんが右手を差し出します。

 こちらの世界でも握手はあるようです。

「はい、よろしくお願いしますアンさん」

 アンさんの右手を握り返すと、少し不思議そうな顔をされました。

「へぇ、あんたの世界じゃそうするのか」

 どうやら違ったようです。


 それから少し雑談をしてアンさんは帰りました。

 とても疲れた一日でした。

 今日会った方たちにまた改めて自己紹介をしにいかないといけないと思います。

 そもそも、もう少し早く名前の話をおじさんがしてくれればよかったのにとも思いましたが、それを言うのならわたしがかつての名前をそのまま使えるような人間だったのならなんの問題もなかったのです。

 いえ、いずれにせよ人見知りのわたしが初対面でうまくやれた気はしません。

 次にお会ったときにはきっとわたしの名前を伝えましょう。

 簡単に「次」なんて言うのですから本当に仕方がないのです。

 では、今日はもう眠りましょう。

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