ある日、異世界の雑貨屋で

落葉沙夢

はじまり

 空に雲が浮かんでいました。

 当たり前ですね。

 下が平らで、まるで見えないテーブルに乗っているような雲でした。

 雲は空を全部覆ってしまうほどではなく晴れと曇りの中ほどで、人によっては晴れでしょうし、人によっては曇りと言えそうなはっきりしない空でした。

 まるでわたしのような空模様です。

 雲はゆっくりと流れて、ちょうど一切れが太陽と重なって輪郭だけを光らせて特別なものになれそうな様子さえしていました。

 ですが結局そのままゆっくりと流れて雲は太陽とお別れをします。

 そんなこともあります。

 そんなことだらけです。

 そんなことをぼんやりと思うわたしは空を見ていました。

 さっきから雲の話しかしていないので、まぁそうなのです。

 ここのところずっとそんな感じでした。

 そこまで暑くもなく、そこまで寒くもなく、雨が降るわけでもなく、陽が照り過ぎるわけでもなく、とてもちょうどいい陽気がここのところ続いていて、こうして仰向けで寝転がって空を見るには本当にいい季節です。

 ですが、死ぬのには本当に適さない季節です。

 これが真夏なら二日と経たずに干からびるでしょうし、真冬なら二日と経たずに凍り付くでしょう。

 かれこれ三日、ぼんやりと空を見てわたしは死のうとしていました。

 意外と人間死なないものです。

 三日前、びしょ濡れでここに辿り着いたわたしはここを死に場所だと決めて、そのままそこに寝転がりました。

 特に確固たる意志があったわけでもないのです。

 偶々辿り着いたのがここで、寝転がったのがここだっただけです。

 ここが正確にどこなのかも知らなければ、どうやって辿り着いたのかも覚えてはいません。

 まさに、来し方知らずですね。

 どこなのかと問われれば、ここはおそらく神社と呼ばれる場所なのだろうとは思います。

 既に廃れていて、人の気配は希薄で、でもそれほど草は伸びておらず、木々の隙間から切り取るように空が見えます。

 死ぬのにちょうど良さそうだと思ったわたしの勘は珍しく当たりまして、この三日間誰もここを訪れてはいません。

 そして、三日。

 本当に意外と人間死なないものです。

 服はすっかり乾いてしまいました。

 三日間ぼんやりと空を見続けましたが、面白いもので一瞬だって同じではありませんでした。

 当たり前のことのようでしたが、こんなことになるまでわたしはそれに気付けなかったのです。

 次々と変わっていく空を見ていると色々なことを考えなくて済みます。いえ、得てして考えないようにしていました。

 考えてしまえば息苦しいだけです。

 そろそろ、いい感じに死ねるだろうと思うのですが、今日も陽はゆっくりと傾きはじめました。

 底が平らな雲が夕日に染められていきます。

 鴇色、紅色、朱色に柿色。

 一欠片さえ色を変えて雲は夕日を写し取り、そうかと思えば空さえも空色、甕覗き、水浅葱に縹色、場所ごとに色を変えます。

 その瞬間を目に焼き付けます。

 わたしがどんな状態だって世界はまったくどうでもよく動くのです。そうして、こんなに美しい景色を作り出すのです。

 当たり前に。

 もしかすると、今日の夕闇に紛れてわたしは永遠に眠れるのかもしれません。

 そう思えばこれがわたしの見る最後の夕日なのです。

 ああ、そう、全く、全くこの瞬間にわたしは頭の片隅にでも死にたくないとさえ思ったのです。

 この一瞬に、美しすぎる夕暮れにわたしはどうして死にたいかを忘れてしまったのです。

 網膜の奥底に美しすぎる空がただ焼き付いて……。

 ただ、その一瞬だけです。

 全く馬鹿げているではないですか。たった一時の空の色に死にたくないなんて。

 わたしの為にあるわけでもないのに。

 わたしの為にあるものなどこの世にはないのに。

 わたしの優柔不断さには困ったものです。

 昔からそうだったのです。

 だからこんなところまで流れて、こんな夕暮れにあっているのです。

 あの時もあの時もあの時もあの時も。

 もうたくさんではないですか。

 これ以上に死ぬために必要なものなどありません。

 ただ、それだけがわたしに与えられたものでした。

 願わくは、月が輝く前に眠りましょう。




 それなのに、目が覚めるといつも朝なのです。

 いつも朝ですが、少し様子が違うような気がしました。

 なにが、と言うわけではないのです。

 ただ、ぼんやりと眺める開け始めの空。

 青竹色に白むその空が見慣れないものに感じたのです。

 空気、と言うのでしょうか?

 言葉を知らないとこういう時にいけませんね。

 もしくは、いよいよ死にかけたわたしの何かが壊れてしまってそう感じただけなのかもしれません。

いえ、そうではないような気がします。

 例えば視界の端で昨日まで揺れていた木がなくなっています。

 夜の内に切り倒されてしまったのでしょうか?

 頭を向けると言うより、重力に任せて頭をそちらに倒すと、久し振りに空以外の風景が瞳に映りました。

 草原でした。

 若草色が一面広がり、ざわっと吹き抜ける風に葉を翻します。

 どう見ても田舎の廃れた神社ではありませんでした。

 なんとも心地よい風がすっかりボサボサになった髪を揺らしました。

 いよいよ、幻覚を見始めたようです。

 ぼんやりとする頭ではそれ以上の答えを導くことはできませんでした。

「おい、生きているか?」

 声が、わたしの足下の方から降って来ました。

 ついに幻聴も始まったようです。

 人間、死ぬときはこんな変なことも起こるのでしょう。

「…………」

 幻聴に返事を返してあげようとして、開いた口は喉の奥まで渇ききっていて声になりませんでした。

「生きているようだな」

 わたしが口を開いたことでそう判断したのでしょう幻聴が言います。

 幻聴にしてはなかなか知的な反応です。

 声質も落ち着いた男性のもので、どことなく安心感がありました。

 いえ、そもそも幻聴ってそういうものだったでしょうか?

 考えるよりも早く、幻覚か幻聴が、わたしを抱きかかえました。

 いえ、この期に及んではその呼び方もわざとらしくてダメですね。

 声の主に持ち上げられて、わたしの視界は高くなり、彼が見えました。

  真っ白に染まった白髪が素敵な老人です。

 充分に歴史の刻まれた皺があり、それでいて老人という括りでは収まらなさそうな快活さを持つ老人でした。

 なによりわたしを軽々と抱えてしまえるのですから、それは快活なのでしょう。

「街に着くまで死ぬなよ」

 その言葉にうっかり頷いてしまうのですから、わたしは本当にどうしようもない人間です。

 老人の歩く振動が伝わり、絶妙に眠気を誘うそれに安心してしまったのか瞼が重くなってきました。

 なにか、不思議なことが起こっているようですが考えるのは目が覚めてからにしましょう。



 助けられてから五日が経ちました。

「あと半日もそのままだったら死んでたね」

 とはお医者さん? の談。

 どうやら、わたしは本当に死ねそうだったらしいです。

 そんなわけで、お医者さんの懸命な治療? の甲斐あって、現在は割と元気な状態にまで回復しました。

 明日には退院? となります。

 事ある毎に「はてな」がついていますが実に無理からぬことでして、そもそも、なぜ言葉が通じてしまっているのかもわからないのです。

 それくらいここは全く日本ではありませんでした。

 建物は絵画で描かれるような西欧風なそれでしたし、そこに暮らす人々も同様に日本人っぽさはありません。

 それじゃどこなのか、と問われれば少なくとも地球ではないようです、としか答えられません。

 だって、お医者さん? はわたしを魔法で治療しましたし、お薬? はなんとかって魔物の爪とかんとかって植物の根を合わせた魔法薬だったそうですし、よくわかりませんが地球ではないことくらいはわかります。

 わたしが入院? しているのも病院と言うよりは教会のような場所ですし、あまり親しみはありませんがファンタジーの世界と言えばこうなのかもしれないなぁと思う次第です。

 まぁ色々と集めた情報を要約すると、どうやらわたしは異世界に来てしまったようでした。

 なにをどう間違ったら自殺しようとして異世界に来てしまうのかわかりません。神社でしたのが罰当たりだったのかもしれないなぁと、教会の庭で寝転がり考える昼下がりです。

 こんなことになって、もっと慌てるとか、驚くとかしてもいいかもしれないと思いますが、死のうとしていたくらいなので、それもわざとらしいでしょう。

 寝転がって見上げる空はやはりどこか地球の空とは違うような気がしますが、あちらの空にしても同じ姿は一瞬としてないので、どう違うかをわたしが説明するのは難しい気がします。

 色は案外と同じで、雲の形だって似たようなものです。

 もっと根本的な、空を作っているなにかが少し違うのかもしれません。

 学がないので、それがなにかはわかりませんでしたが、こちらの空も嫌いではないことだけは確かです。

「今度は元気そうだな」

 声が足下の方から降って来ました。

 落ち着いた男性の声。

 見ずともあの老人であることがわかりました。

「おかげさまで」

 それがわたしにとって幸いなのかは知りません。

「違う世界に来て色々と戸惑うだろう」

「そう、ですね」

 聞いた話では、この世界では他の世界からの来訪者は珍しいですが、全くないわけではないとのことでした。

 わたしの場合は説明するよりも前に服装でそうだとわかったようです。

 まぁ、この世界で事務服はあまり似合わないでしょう。

「それにしても、いきなり死にかけてたのには驚いた、元居た世界じゃ普通のことなのか?」

 老人の声が少し近付きました。どうやら、わたしの横に腰を下ろしたようです。

 声には少し心配するような音色が含まれていました。

「いえ、珍しいと思いますよ」

 わたしなんかが凡例になっては流石に地球と日本が不名誉でしょう。

「きっと大半の人にとってはそれほど生き辛い世界ではなかったのだと思いますよ」

「そうか」

 老人は頷くように言いました。

 もしかしたら本当に頷いていたのかもしれません。

 たった一言でしたが、それはわたしの言いたいことを汲み取った響きをしていました。

 つまり、大半の人にわたしが含まれなかっただとか、得てしてわたしが死にそうになっていただとかの事情がわかってしまったような「そうか」でした。

 しばし沈黙が流れます。

 まぁ助けたのが死のうとしていた人間だったなど、あまり面白い話ではないですね。

 しばしの沈黙のあと、老人は口を開きました。

「それで、これからどうする?」

 まるで今日の夕食を何にするのかを尋ねるような、気さくな声でした。

 それでも「これから」という言葉が持つ響きに胸の奥が冷たくなる気がしました。

 これから、とは未来の話です。

 明日になれば退院となるわたしは、身よりどころか知り合いすらいないこの異世界でどうするのでしょう?

 もしかしたら、また人気のないところをふらふらと探して死にたがるのかもしれません。

 そして、今度は成功してしまうのかもしれません。

「行くところがないなら、ワシの所に来ないか?」

老人は至って普通のことのように言いました。

「……え?」

 思いがけない言葉になんと返したらいいのかわかりません。

「別に強制するわけじゃない、明日にはここを出るのだろう、その時までに決めればいい、なんにせよわからないことだらけだろうしな、他に行くでも色々と口をきいてやれるかもしれん」

 なぜこの老人はわたしなんかにこんなことを言うのでしょう?

 真意が読めずに困惑しているわたしを他所に老人は少し離れたところへと腰を移し、寝転がったらしいことが気配から伝わってきました。

「なるほど、こうやって空を見る機会なんて滅多になかったが、いいものだな」

 薄く広がる雲を透かして優しく降る太陽のような声で彼は言います。

 色々と考えるのが面倒になって、わたしも空を見上げました。

 ずっと見上げていたのですが。

 そこには当たり前のようにとても広い空があるだけでした。

「これから」

 小さく呟いてみますが、なんとも現実味のない言葉です。

 そんなものがわたしにあることが不思議でたまりませんでした。

 あの時、確かにわたしはそれ以上の些細ななにかさえ必要ではなかったのです。

 まして未来など、もっとも望まないものでした。

「明日」

 やがて今日の日も暮れて、夜が来て、それは明けるのでしょう。

 その次も同じように。

 もしもそれがわたしにあるのなら、なにを選ぶべきだろうと考えました。

 生か死かなどと言ってしまえば大げさですが、要は身の振り方という話です。

 行くところはありませんでした。

 それは、ここが異世界だろうが地球だろうが変わらないことです。

 このままのわたしに辿り着けるところなど、どの世界でもあの神社に決まっているのです。

 このままのわたしでは。

 ふと、なにかを変えられるかもしれないと思いました。

 そんな淡い期待に今まで何度裏切られたか知らないのです。

 それでも、「今回は」と思ったのです。

 空が違うように、世界が違うように、わたしも違う存在になれるかもしれないと。

 それがそのまま答えだと気付くのにそれほどの時間はかかりませんでした。

 老人はなにも言わずに空を見ていました。

 薄い雲がゆっくりと形を変えていきます。まるで見えない誰かがアクリルの具を薄くプラスチック板に引くようでした。だとするなら、こんな絵を描ける誰かはとても幸せに違いないのです。

「あの」

 寝転がったままわたしは言いました。

面と向かって言う勇気もないのです。

 それでも、精一杯のわがままのつもりでした。

「お願いしてもいいでしょうか?」

 不思議な沈黙が流れます。

 …………あれ?

 長過ぎる沈黙に身体を起こすと、老人は寝息を立てていました。

 確かに昼寝をするにはもってこいの陽気でしたが、なんとも間が悪いものです。

 心地よい風が髪を揺らしました。

 わたしを通り過ぎた風は気持ちよさそうに眠る老人へと抜けて、なんとも気が抜けます。

 老人の表情には些末な心配事さえないように思えました。

 無論、そんな人間がいるはずはないのでしょうが、不思議と安心してしまったのです。

 老人に倣ってわたしも再び寝転がります。

 ああ、もう、なんていい天気なんでしょう。

 

 昨日からすれば、明日。

 わたしにとっての未来。

 今日がやってきました。

 お医者さんへと老人がお金を払い、わたしは無事に退院となりました。

 病院から出て、数歩。

 並んで立つと、わたしの背がそれほど高くないことと、彼の背筋がピンと張っていることもあって、十センチ以上も彼の方が長身でした。

 風貌にもどこか美丈夫の面影があり、若い頃はさぞモテたことでしょう。

 そんなことは、あまり重要ではないのですが。

「それで、どうするか決めたか?」

 老人はやはり口を開きました。

「あの、本当にお願いしてもいいのでしょうか?」 

言ってしまってから思うことでもありませんが、もしかしなくてもわたしは途轍もなく図々しいことを言っているのではないかと。

 助けてもらい、治療費を出させ、その上に厄介になろうと言うのですから厚顔無恥も甚だしいとはこのことです。

「いいから提案したんだ」

 しかし、老人はわたしのごちゃごちゃする思考をすっと解くようにあっけらかんと答えました。

「ですが……迷惑では?」

「そんなこと気にしなくていいだろう、勝手なのさワシは」

 勝手、そんな言葉を使いながらも彼の口調には少しも嫌味はありませんでした。

「偶々倒れてたあんたをワシが勝手に助けたんだ、そして今度は勝手に助けたいと思った、それだけのことだ、その程度の勝手は許される世界だからな、お前ももっと勝手に生きればいい」

 それは間違いなく老人の気遣いでしょう。

 間違っても、助けてなどとわたしは一言も言ってはいません。

ですが、こうして生きているわたしは、どうしたって助けを求めるのです。それが生きることです。それを、勝手と流せるほどにわたしは達観できてはいませんでした。

 結局、わたしはあの神社で寝転がっていた時から然程変われてはいないのです。

 そんな窮屈が背中に張り付いているように感じました。

 それはいつかわたしをまた責め立てるのでしょうか?

「それに働いてもらうからな、丁度人手が欲しかったんだ、勝手だろう?」

 そんなことを考えるわたしに老人は今日の空を写したような晴れやかな笑顔を向けました。

  

  

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