第10話 ストリートミュージシャン

 暁月心療内科の診療体制は、デイケアと認知療法、精神内科と分けられ、精神内科の担当医は3人おり、和彦は院長の北條富雄(ホウジョウ トミオ)という、売れない大根役者のような、それとも冴えない放送作家のような名前をした50代前半のベテランの心療内科医の診察を受ける事になった。


 病院での診察は、個室に呼ばれて、担当医と向かい合うようにして座り、自分の病状を伝えて、今後どのようにすればいいのか、どんな薬を処方すれば良いのか話し合って診察は終わる。


「今日はどんな事でここへと来ましたか?」


 和彦は、心という、現代の心理学をもってしても解明できないものを治療するのに、治らないのではないか、ひょっとして、入院する羽目になるのではないかという恐怖に襲われながら、北條の前に座り、口を開く。


「はぁ……実は最近、鴉の鳴き声が気になってしまって、軽く参ってるんすよ……睡眠や精神にも支障が出てるので、睡眠薬とか精神安定剤とか処方できないっすかね?」


「うーんそうですか……」


 北條は、鴉の鳴き声で軽く鬱気味の和彦を見やり、腕を組みながら少し考えて口を開く。


「確か、8年ぐらい前にこちらに来た時は、職場でのパワハラが原因でしたよね? その後変わりはありませんか?」


「は、はぁ……あれから実は、上司が大人しくなり、完全にというわけではないですが、普通に働いてますよ……」


 8年近く前、和彦がここの病院にかかった時、担当医がまだ副院長だった北條であった。


「うーんそうですか、いえ、あなたの病気は統合失調症ですが、これから、治療のプログラムを行なっていこうと思いますが……」


「いえその、統合失調症とは一体なんでしょうか!?」


 和彦は聞いたことがない、いや、聞いたことはあるのだが、よく分からない病気だという認識で、北條の言葉を遮り、自分の病気の事を尋ねる。


「統合失調症とは、心因性のストレスや先天性の脳の器質異常により、脳内伝達物質の異常分泌があり、幻覚や幻聴、妄想や被害妄想、睡眠障害を引き起こすのです。発症しやすい年齢は20歳から30代まででして、以前こちらにかかられた時は統合失調症でありました。まだ完治したのかはわかりません、これから、何度か診察に来ていただいてから診療方針を決めましょう……」


「は、はぁ……」


「まず投薬治療ですが……」


 既に和彦の耳には、北條の言葉が朧げにしか入ってはこないでいる。


 🎵🎵🎵🎵


 診察が終わった時、病院に来たのが診察終了間際だったのか、病院を出ると辺りは夕闇の帳が降りかかっており、近くの薬局に行き、お薬手帳を出して、ベンチに腰掛ける。


(俺もとうとう、無敵の人のようになってしまったのか……)


 病気とは無縁だった和彦にとって、社会から忌み嫌われる精神病になってしまったショックはかなり大きく、オンラインゲームの事は頭の片隅から消えてしまっている。


 無敵の人とは、匿名掲示板のネットスラングであり、精神病の人間は犯罪を犯しても無罪放免になるという意味合いなのだが、実際は責任能力があると分かれば罪が適用になるのである。


「朝霧さん、お薬が用意できました……」


「は、はい」


 まだ和彦よりも少し若い程度の肌艶の男の薬剤師は、みっともなく頭が禿げ上がっている。


「取り敢えず3種類の薬を渡しておきます、まずこの薬は……」


 薬の説明を、和彦は上の空で聞いている、無理もない、一生治らない病にかかってしまった衝撃は計り知れないのである。


 🎵🎵🎵🎵


 辺りが夜の帳が下り、駅前に和彦は来て、もう遅いから軽くここでご飯でも食べて帰ろうかなと、飲食店の多い駅前を和彦は仕事帰りのサラリーマンたちの雑踏に混じり散策することに決めたのだが、ある歌声が耳に入ってきた。


「ん?」


 和彦から少し離れた場所を陣取っている、長い髪の毛の女性らしき人物が、歌を歌っており、そこに沢山の人だかりが出来ている。


(ストリートミュージシャンかぁ、昔やったけどサッパリだったなぁ。どれ、この夢追い他人に少しお金でも入れてやるか……)


 和彦は周囲の人をかき分けて、ギターケースにお金を入れようとする。


「んん?」


 その歌は、ギターのテクニックはそれなりにあるのだが、歌声が透き通るようにうまく、和彦は思わず聞き入ってしまう。


 よく顔を見ると、歌っている人間は咲である。


「!?」


 咲は和彦に気がついて一瞬声が止まったが、直ぐに歌に戻っていった。


 🎵🎵🎵🎵


 皆がいなくなった演奏終了後、咲と和彦はしばらくして見つめ合っている。


「なぁ……」


 気まずい静寂をかき消すかのようにして、和彦が口を開く。


「ストリートミュージシャンを、いつからやってるんだ? しかもなんか、うまいじゃん……」


「え、ええ、実は私ストリートミュージシャンをしてるんですよ、週末の夜に。家が焼けてから、高校の時にやっていたギターが焼けてしまって買い直したんです。……周りに内緒にしてもらいませんか?」


「い、いや、言わないよ。てかな、上手いが、これは動画に載せているのかい?」


 和彦は、スマホを自撮り用の棒で支えているのを見やる。


「ええ、一応自撮りですが載せてます」


「ふーんそうか……」


「あの、朝霧さんはギターはやらないんですか? なんでも昔、大学生の時にバンドをしてたって聞いたのですが……」


「うーん、あぁ、誰かが話したんだな、多分貴子さんと一平だか。今んところ俺はやらないが

 動画は見てみたいな、教えてくれ……」


「あぁ、良いですよ」


 咲はスマホで、和彦に自分のチャンネルと動画を教える。


「聞いてみるわ」


 和彦は何か思い切ったかのように、鞄の中にしまっていたイヤフォンを取り出して耳にあてて、スマホを操作して、『SAKI-MUSIC』という、スマホで誰かに撮って貰ったのであろう、街中で歌っている咲の動画を聴き入る。


 聴く事数分後、和彦は興奮した顔つきで咲を見やる。


「凄いな、これは……なぁ、お願いがあるんだが……」


「何ですか?」


(俺なんかが……才能ないんだが、いや、才能なんざ努力の前では紙一重だ、それに週末だけならば、仕事にも支障はない、よし、思い切ってやるか……!)


「うーん、俺も咲ちゃんに協力させてくれないか?」


 和彦は胸の中で込み上げてくる、熱い塊のような思いに負けてしまい、頭を下げて協力を申し込む。


「良いですよ! 百人力です! 是非!」


 咲は和彦の手を握りしめる。


 その暖かい感触は、数年前に別れた彼女によく似ており、和彦の心に熱い魂が宿った。






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