第5話 猪瀬貴子

 和彦が暮らすX市Z町は、和彦の通っていた私立V大学の他に専門学校や私立大学、高校と中学があり、彼等をターゲットにしている喫茶店や居酒屋などの飲食店、ボーリングやカラオケなどの娯楽場、ファッション店に本屋、古着屋など若者が好き好む店が多く点在している。


 この街で確かに和彦の青春はあったのだが、前の彼女と別れなければ、オシャレを楽しみ、休暇はバーベキューやら海水浴に出かける清潔感溢れる好青年になっていただろうが、今は昔の面影はなく、ゲームが友達の冴えないオタク野郎である。


 そんな和彦は、数少ない女性友達が出来るのかも知れないという淡い期待を胸に、普段滅多に着ないであろう白の半袖シャツにアイロンをかけて、スリムフィットジーンズにプレーントゥシューズという、いかにも30代前半の好青年の格好をしている。


 仕事が終わってから和彦は一旦家に帰り、普段滅多に浴びないシャワーを浴びて、わざわざお洒落に着替えたのだ。


 一平達との待ち合わせの駅の広場にある喫煙所で、和彦は煙草を吸っている。


(こんなお洒落をしたのは何年振りなんだろうか……? 俺は柊さんに惚れているのか? 第1俺のようなオタクに惚れるわけがないのだが、なぜ俺はこんな格好をしてるんだ? でもなんかな、普通の俺と同年代の人は、みんなこんな清潔感のある格好をしているんだろうな……)


 和彦は、夕方という事もあり、帰宅していく学生やサラリーマンの格好を見て、普通の人のセンスはみんな清潔感があって、自分は明らかに異質なのだなと溜息を軽くつく。


 普段の和彦の格好といえば、アニメキャラがプリントされた、秋葉原で買ったシャツに、穴が所々に空いているジーンズと、ボロボロに履き潰したスニーカーという出で立ちである。


「よう」


 横から不意に声をかけられて、振り向くとそこには一平と咲がいる。


「乙。あれっ? あんたら帰り道って一緒だったか?」


「んー、たまたま駅で会ったんだよ、そろそろ行くべ」


 一平の格好は、黒のシャツと迷彩柄のパンツ、咲はポロシャツにジーンズというラフな格好で、清潔に決めてきた和彦の格好だけが浮いている。


「どこで飲むんだよ一体?」


「御誂え向きの店を見つけたんだよ、そこに行くぞ」


 一平はズカズカと歩き、彼らを案内する。


♫♫♫♫


 個人経営の居酒屋『音酔狂』は、駅のすぐそばにある一等地に一年前にできた店で、まだ出来て間もないのにネットのグルメ関連のサイトのランキングでは常に1位をキープしており、客は常に満員御礼、閑古鳥が鳴く事はまず無い。


「おい一平、ここってかなり人気じゃん、座れる席無くね?」


 店の外から、客でごった返している店内を和彦は見て、これは安い立ち飲み屋で一杯引っ掛けることになるなと不安げになる。


「いやそれがあるんだよ、ついて来い」


 一平は余裕綽々で、店内へと入っていく。


「いらっしゃいませ、何名様でしょうか? 店内は只今満席でして……」


 白と黒の線が入った、独特な柄模様の制服を着た、多分学生のアルバイトであることを伺わせる肌艶の、銀縁眼鏡の店員は苦笑いをしてそう言う。


「あのー、猪瀬で予約を入れた栗林ですが……」


 銀縁の眼鏡をかけたアルバイトの店員に、一平はそう伝える。


「ええ、こちらになります」


「ほらな、言ったろ?」


 一平は微笑みながら、彼等は店員に案内される席へと足を進める。


 奥の方、こじんまりとした座席に、茶髪のボブカットの、それなりに美人の女性がスマホをいじって煙草を吸っているのが、彼等の目に飛び込んでくる。


「貴子」


 一平がその女性にそう言うと、スマホから顔を起こす。


「待った?」


「ううん、さっき来たところだよ」


 咲は彼女が誰なのか分からず、頭にクエスチョンマークを作っている。


「紹介するよ、俺の彼女の猪瀬貴子(イノセ タカコ)。事務担当で現場にいないけどな、つい最近までは俺達と同じ部署にいたんだよ」


「初めまして、一平の彼女の猪瀬です」


 貴子は咲にお辞儀をすると、咲も慌ててお辞儀を返した。



 一平と貴子は、一平が紹介予定派遣として入社してから半年後に、同じ派遣会社から紹介予定派遣として同じ部署に配属となった。


 彼等が仲良くなるまでには時間はかからず、知り合ってから半年して交際を始めた。


 社内恋愛は地獄だと言うが、彼等はそんなジンクスにめげずに順調に交際を続け、仕事も二人で頑張り、彼等はめでたく正社員になったのが5年前である。


 新卒で直ぐに入社した和彦とは違い、一平は高校を卒業してから職を転々としており、器用で工場の経験があった事を買われた。


 一平の年齢は29歳、和彦よりも一つ年下なのだが、彼女が一人だけであった和彦に比べて、貴子と付き合うまで3人彼女がいた事があり、かなり遊び慣れており、社会経験のない和彦を舐めてかかり弄るのだが、仲良くやっている。


 貴子は目の前に置かれたビールを口に運びながら、煙草をふかしている。


「咲さん、あのおばさん結構性格悪いでしょう? あれでまだ独身なのよ」


「そうなんですね! そんな感じしましたよ!」


 咲は日頃のストレスが晴れたのか、笑顔を取り戻しており、彼等と仲良く酒を飲んでいる。


(やっと元の笑顔に戻ったか……)


 和彦は咲の笑顔を見てほっとして、軟骨の唐揚げを口に運ぶ。


「カァ」


「ん?」


 鴉の透き通った鳴き声が和彦の耳に聞こえ、辺りを見回すが、鴉はおらず、日頃の憂さを晴らすかのように酒を飲みにこやかに話しをしている人間達の話し声だけしか聞こえない。


「なんだよ? どうしたんだよ変な顔をして……」


 一平は焼酎を飲みながら、素っ頓狂な顔をしている和彦を不思議な顔で見つめる。


「いや、何でもねーよ」


「そっか、二次会にカラオケに行くか!」


「いいね、行くか」


(さっきのは気のせいなんだなぁ……?)


 和彦は先ほどの鴉の鳴き声が気にかかったが、気を取り直して煙草に火を点けた。



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