深夜特急にあこがれて

桜雪

第1話:上海1日目

気がつけば、上海行きの片道航空券を手に握ったまま空港のラウンジで呆けていた。

これから私はどうするつもりなのだろうか。目的すらはっきりしない旅だ。

ふと辺りを見回すと、夏休みおわりがちかいからか国に戻る人しか見当たらない。

店員も客もすでに「混沌としていて」まるで日本では無いようなそんな錯覚を覚えた。

私は冷たいものを手に入れるためにその場を立った。


大樹の列。聞こえてくるのは中国語だけ。私の前にいた中国人女性はどうやら英語がわからないらしい。手持ち無沙汰に彼女を助けることにした。ああ、思っていたよりも人助けという偽善者じみたことは案外たのしいではないか。どうやら彼女は生粋の「上海人」で、どこにいけばいいのかまたどこが危険地帯かたくさん教えてくれた。とりあえず上海では死ぬことはなさそうだ。彼女に軽くお礼をいい、ホテルに着き次第彼女に連絡でも入れよう。実のところホテルはまだ予約していないのだが。


搭乗ゲートが開いた。それに吸い寄せられるように人が群がる。

イワシの大群のようだ。ときおり従業員が間に入ってその大群を妨げようとする。

ついに私の番が回ってきた。いよいよ出国だ。


とった航空券はLCC。飛行機場まで歩かなければならない。生ぬるい日本の夏の夜風が私の背中を押す。機内へ乗り込む。いってらっしゃい。いってきます。隣の座席には誰もいなかった。


入国審査がおわり、ついに中国大陸へ上陸した。

思っていた以上に空港内の設備は悪くない。これなら一晩は持ちそうだ。

いやはや、どうにも体はベッドを欲しているらしい。足は案内所へと向かっていた。

ここも人で溢れかえっている。みな宿がないのだろうか。30くらいの男が近寄ってきた。どうやら宿を手配してくれるらしい。さあ、お決まりの値段交渉だ。男は一泊800元と言ってきた。空港から近くアメニティ用具もしっかりしていると。しかしながら私にはそんな大金など皆無だ。私がそんなに金を持っているように見えるかと。男は引き下がってそれでもかなりの額がするが400元ならどうかと尋ねてくる。もう時間も遅い。(到着時間は深夜2時をとうの昔に過ぎていた)私の中の欲求が我慢できなくなり契約書のようなものを手渡され名前やその他諸々を書いた。本当に大丈夫なのだろうか。外にホテル専用バスが到着するらしく足早に向かった。指さされたバスを見ると、バスではなくトラックだった。車内でタバコの吸い殻を捨てても良いという。いわば「動く道路」である。4、5分ほど「動く道路」が迂回すると四川省からきた大量の荷物を抱えた女が3名ほど乗り込んできた。 彼女たちは一体いくらで交渉成立させたのだろうか。どうやら彼女たちは明日には実家に帰るらしい。数分道路が動くとそれらしきところに到着した。ホテルの看板は、ない。近くには民家が数件立ち並んでいた。運転手に従いしぶしぶ中に入った。見窄らしいソファーがふたつ、薄暗い照明、いかにも怪しげな自動販売機がそれを物語っていた。仕方がない、もう行けるところもない。諦めながら私は颯爽とチェックインをすませた。チェックアウト時間は明日の午前11時。そこまで長居する気はさらさらない。道路上で知り合った四川省の女たちにかるく会釈をし部屋へと向かう。オートロック式の部屋を開けると驚いた。剥がれかかっている壁紙のシール、しわくちゃのベットシーツ、水たまりの洗面所。こんなところで私は一晩過ごすのか。軽く頭を洗い、しわくちゃだったベットを直した。照明を落としてみる。30分ほど寝転んでいたものの寝付けるはずもなく、備え付けのコップ内に最後のマルボロの吸い殻を投げ入れた。まだ午前4時。日本にいる知り合いの中国人何人かと空港で知り合った女に連絡を入れてみる。眠気はタバコの煙と共に消えた。動くたびに異音を立てるエレベーターに乗り込みはやくもチェックアウトをすませた。きっと毛沢東はわらっているにちがいない。タバコも切れたので怪しげな販売機を見つめることにした。一箱15元。味はわからないが安い。水に至っては1本3元。少し凹んでいるタバコの箱とボトルの形を直しつつ外へ出てみる。夜明け前であるからか空がうっすらと明るくなっていた。紫と黒とが混ざった、まだ夜の空に徐々に見え出している夏らしい空色。とても美しい。犬の吠える声を耳にしながら一本取り出し吸い出した。夜の味がした。


記憶がない。眠っていたらしい。時計を見ると午前6時前を指していた。道路の運転手も出発準備をしていて気づけば5人ほど中国人が並んでいた。彼らはどうやら口が上手いらしい。私と目線が合うたび褒め言葉を投げつけてくる。さすがは商売の地、上海。ホテル名も分かったところで早速検索をかけてみる。あの場所へ向かえば返金してくれるのではなかろうか。一種の確信が私の中に存在していた

エンジンがかかったところで私も乗り込むことにした。


人の数のせいなのかもう既に暑い。辺りはすっかり青と白の世界に変わっていた。

事件発端の場所へ急がなければ。空港内は異常なほどに冷え込んでいた。

しかし夜中に立ち並んでいた人影はない。

どうしたものか。なにやら楽しげに話している警備員らしき男に尋ねた。

夜中の人間は此所の者ではないから、文句があるのであれば近くの警察署へ駆け込め、と。はぁ。まいった。着いて早々事件に巻き込まれるとは。しかし警察沙汰になるのはまっぴらごめんだ。少し濡れていた目元を軽く拭き取り一番の観光名所である外灘へと足早に向かった。

2号線の地下鉄に乗り、一つ手前の南京東路に向かう。プラットホームを抜け外に出る。

すでに準備をしているコーラのキャンピングカー、仕事場へ急ぐ男女、ベンチに座り話し込んでいる老女たち。朝は忙しい。想い想いの朝を過ごしている人たちを横目に標識が指す方向へ。見渡すと、煉瓦造りの西洋らしいビルが立ち並び私を見下ろしている。立退く気はない。その隙間から目的のそれは姿を現した。全身メタルの異質な物体。ああ。あれがそうなのか!私はひどく興奮した。もう少し近づきたい。無意識のうちに体は前に行っていた。私は四川路を抜け北京路をぬけた。すると、ある一軒の店の前に人だかりができていた。昔から中国での美味しいお店の見分け方は人が並んでいるか否かで決められている。つまり、美味しいはずだ。一番のオススメはやはり蟹。 18元。私は一つ買い上げた。海の味がする。皮がもう少し分厚ければなお良かったのだが。ようやくあの真向かいの道路である南京東路に到着した。「人民强国 人民平等 」あくまでも共産主義が謳い文句なのか。既に外灘付近の広場には人だかりができていて蒸し暑い。なおかつ、空気汚染が最高潮であったため白い霧に包まれた天空の城のようにそれは見えた。中国の国旗が強く翻る。カメラのシャッターをきる。時間が止まった気がした。


傘空の下に傘をさす。鉄製のそれが乱反射を起こしあたりが一層暗くなり、私は「夜」へと誘われる。朝はこんなにも静かなのか。過ぎ去る人々の背中を見つめながら静かに私は夜を吐き出した。そういえば今晩の宿はどうしようか。私は夜を潰し来た道を再びあるく。笠雲は相変わらず開いたままだった。

永遠と続く街道。外灘という名がついているように海の向こう側まで続いている。北京路から香るなにかが蒸しあがった湯気の後。反対側の歩道の端から上がるシャッターの後。南京東路を横切ると既に活動は始まっていた。この街ではもう朝はおわりをつげたようだ。


活気付いた南京路を曲がり、 裏道の西安路へと入る。近くのレストランの従業員らしき若い男が数人楽しげに、また哀しげにタバコを吸っていた。ひっそりと警備員やドイツ大使館が控えている。興味深い。どうやら一筋縄ではいかない大都市なようだ。


宿を探す。早朝の間違いを起こさぬよう、慎重に。視界に飛び込んできたホテルへ、まずは一軒め。その宿の真横には鴨の首の煮たもの、おそらく中国の西南の内陸部に位置する武漢の料理である店の前で、人々は行列をなしていた。今日一晩だけの宿は空いているのか。空いているらしかったがどうも料金がおかしい。(言われた金額は350元)こんな安っぽい立地に接しているのにも関わらず、馬鹿らしいにもほどがある。もちろん「チェンジ」だ。

西安路を歩き続け西安西路についた。街の雰囲気には不似合いな派手な、青っぽい色の大きな看板が手招く。一泊120元ほど。

…、どうやらここで一晩過ごすらしい。

渡された部屋番号が記載されているカードキーを手に寝室へ向かう。

「白」に統一されている部屋には、日本を出る前に祖母に手渡されたチョコレートの金色の包み紙がよく映える。真夏の陽射しと洗濯物、シーツを揺らした。


静かなホテルの部屋の中まで外のクラクションの音が聞こえその爆音で私は目を覚ました。2時間ほど眠っていたようだ。窓の外を眺めると斜め奥に先ほど私を出迎えてくれた全身メタルのそれが顔を見せた。その真下に広がっているのはスラム街と言い換えれるほど薄汚れた人々の居住地が見える。なにを思って彼らはこんなところに住んでいるのだろうか。少し体力が元に戻ったところで私は静安寺へと足を運び出した。


鉄のアレに出くわすために通った大通りを今度は反対方向に歩く。この通りがいわゆる南京歩行街であるようだ。どこの地域なのかわからない出稼ぎ労働者が通りすがりの子供たちに向かっておもちゃを巧みに操る。いたる店前で行なっている売り子の声かけ。やる気の見えない警備員たち。所々に現れ出てくる西欧チックな建物。工事の騒音と行き交う人たちのおおきな喋り声。どれもが「上海」という街を形どっている。私が想像していたそれとは大きくかけ離れていた。私は歩く。異国であるはずであるなのにまるで母国に帰ってきたような「デジャブ」をこの身で確かに感じた。木々で覆われたメトロ中山駅内を階段で駆け下り乗り換えなしの上海で一番大きな仏教寺である静安寺へと向かう。

つくと、そこは平日の昼間であるはずなのだが観光客でごった返していた。メインの部分は現在改装中であり、再来年には復刻するらしい。中国にしてはそこまで派手ではない掠れた金色で文字が書かれている大門を抜け、入り口近くで入場料50元払った。祈り方は日本のそれとは大きく異なっている。何度かお堂に向かってお礼をしたのち今度は跪きみなこうべを垂らしていた。香港の時に数多く見かけたことがある方法と相違である。郷に入りては郷に従え。特に神に話すほど大したものはない、まず神の存在を信じていない故に私は無言で堂に向かって面を下げた。それにしてもバカみたいに広い。見渡すと上に階もある。供物がおいしげに見えた午後である。私は少し後ろに戻り階段をのんびりと駆け登った。


ふらふらと眠りの悪魔に襲われながら寺院の展示品を覗く。全てが大きい。錆びた金色の仏像やら器やらが私を見下す。悪魔が鎌を振り落とした。もう限界だ。どこか座る所はないのか。ふと見渡すと椅子らしきものがあり現地の人であろう中国人の小綺麗な年配の女が二人座っている。私はそこに滑り込むように座る。眠りについた時にはその女たちは遠く離れていた。


気持ちよい目覚め。腕時計を見ると夕方の2時過ぎを指していた。いかん。なにか食べなければ。またあの悪魔が鎌を持ってくる。私は急ぐように地下鉄の静安寺駅へと向かう。

頭の充電が10%ほどできていたため、辺りを見渡すことができた。案内板が立っている。かの有名な豫園はここから500m、か。今日はどうやらその場所は私を呼んではいない。地下鉄の長いエレベーターを呆けたように降りる。いつも通りに荷物をベルトコンベアーの上に乗せる。荷物が来るのをしばし待つ。改札口を抜けホームへと。相変わらずの喧騒。半日にしてすでに慣れた。


戻ってきた。朝いた場所だ。今度は歩行街をくまなく見てみよう。今朝いた出稼ぎ労働者の老女は未だ子供に玩具を売りさばいている。裏道を覗く。視線を感じたのか一服中の男、半裸の男たちと目があった。軽く会釈をして私はその場を去った。暑い。私は少し抵抗があったものの一枚脱ごうか考えた。脱いでも問題ないのでは。この国はもはや無法地帯だ。袖をいっぽん、また一本と抜いていく。私はなにかに放たれた気がした。と同時に急に尿意を感じた。どこかトイレはないものか。百貨店らしき建物。「新世界」に入った。一階には日本のそれと同じ高級コスメブランドが連立している。場所は私にとっては「新世界」だが、「旧世界」である。


尿意の後は空腹が襲う。人間はいそがしい。決して安くはないであろうが初夜だ。ここはちょいと奮発してもいいだろう。私はエスカレータに飛び乗り地下のフードコートに向かった。


日本の食品ブランドが売られている。西欧諸国のそれも。騒ぐ声と笑う声と売り込む声。

活気とはこういう意味なのだろう。厚かましい店員たちに扇動され、私は火鍋を選んだ。


どうやら私は日本人であることを認められていないらしい。現地のメニュー表を渡される。説明を受ける。何を言っているのか全くをもってわからない。 看不懂,听不懂。

とりあえずお勧めを聞いた。そして唯一わかる青島ビールを一瓶頼んだ。ビールは嫌いなのだが。暇なのか頼んだ直後にそれらは出てきた。思っていたより量が多い。食べきれるのだろうか。人生初の火鍋。空腹の中に急に辛いものを入れたからか腹が効果音のようになりだした。思っていたほどには辛くはない。鍋の中が具材でいっぱい。お腹もいっぱい。たった半分飲んだだけの青島ビールの瓶を湯気越しにみつめた。


会計。「小姐姐、买单!」と私は叫ぶ。店員はポーズボタンを押したように会話を中断してこちらに駆け寄ってくる。合計250元。ちゃんと値段を確認すればよかった。手元には50元しかない。私は必死に店員に訴える。听不懂、听不懂、たがいに听不懂。

あきらめて私はカバンの中に入れていたメモ帳を取り出し筆談をする。【这儿只有五十块,但有二百块钱在酒店。】ようやく状況がわかったらしい。身分証カードはあるのか。いや、私は外国人だからそんなものは持っていない。パスポートならある。ならばパスポートを預かる。ちゃんと200元持って来ればパスポートは返してやる。疑わしいほかない。最悪それのコピーはしてある。しかも仮に取られたところでここは「上海」だ。私はしぶしぶ店員に渡す。ああ、日本人だったのか。やはり私は「日本人」ではなかったらしい。


急ぎ足で「新世界」から抜け、きた道を再び歩く。あの老婆はもう姿を消していた。

怪しげな裏道に入る。西安ロード。朝に見た男の従業員は前より群をなし警備員と話をしている。笑い声が聞こえる。どうやら単なる聊天儿らしい。


ようやく泊まる先についた。疲れた。カードを差し込み部屋を開ける。

チョコレートを一粒齧る。カバンの中を漁る。キッカリ200元。ある。

私は休む間も無く部屋を出た。


3度目の「新世界」についた。時間も時間なのか来た時よりも活気で溢れている、否、騒がしいと言い換えたほうがいいだろう。相変わらず店員たちは店前で客を売り込んでいる。一人の店員が私に気づいたのか近寄る。ちゃんと持ってきた。パスポートをまず返してくれ。私は店員の前で100元札2枚を見やすいように広げてやる。確かに受け取ったとでも言いたげな様子でレジスターの中にそれらを収納する。パスポートは返された。名前を見て鼻で笑われたが。好吃了。私は店を後にした。


何を血迷ったのか気づけばアルコール瓶3本を手に抱え、会計を済ませ、「新世界」から「現実世界」に戻っていた。ウォッカとビール。それから白酒も。青島ビール半瓶だけでさえ意識が疎かになっていたはずなのだが。寝室にはそれらを開けるものがない。私は調べる。(カイピンチー)开瓶器。 有没有开瓶器啊?30代ぐらいの男がとても爽やかな、いい笑顔でビールの瓶を空けてくれる。惚れそうだ。お姉さんはどこからきたんだい?日本からです。「很好看」だね。どうしてこうも上海人は口が上手いのだろうか。私はお礼を軽くいい部屋に戻った。苦い味が口の中で広がり、頭の中では悪魔が鎌を持って徐々に破壊している。一本飲み終わるか終わらないかの程度で私は一人で静かに倒れこんだ。

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