泣き濡れる紅糸

 緩慢に変化を遂げていく空の色が、間近に迫る夕暮れ時を告げている。あれほどの陽気であったはずの空気はすっかり夜風の冷たさを帯び、ついに最後まで開けてあった窓をしめさせるに至った。

 淡藤紅、薄萌黄、山梔子、梅紫、瓶覗。色とりどりの染料や刺繍を施された布が、隙間無く部屋の壁を覆っている。天井からも幾重にも下がったそれはテントのように包み込んで、行灯の灯りの中、まるで夢の中のような落ち着く空間を作り出していた。

 その部屋で、白絹のような嫋やかな手と、緩やかな曲線を描く大きな背中が緩やかに動いている。冬眠していた生き物がゆっくりと地上に這いあがってくるかのようにもぞりもぞりと震える二つの人影が、沈みゆく太陽に背を向けて、外界を拒みつつ絡み合っていた。

 まともに思考することができなくなるほど熱を持っていた頭が、突然空っぽになるような恐怖を抱いて。

 私の癒してくれるのは、貴男のその優しい声と指先だけ。

 それは甘美な恍惚と幸せもたらすくせに、ひどく切なげで。この時間が長くは続かないことを暗示している。足元ががらがら崩れていく。

 小さく微笑んで視線を合わせれば、きっとどこにでも行けるはずだった。何でも出来るはずだった。そのはずだった、のに。

 それをしなかったのは、私の我侭。貴男に気付いて欲しいと、浅慮な私は、あさましく願ったのだ。


「お別れがくるわ」


 私がそう言えば、貴男はひどく悲しい顔をする。

 何よ白々しいわね。貴男だってどこかで感じていたのでしょう?


「もう、今のままではいられなくなる」


 緩やかに芽吹き、花を咲かせ、蝕まれていく。ひどく、凶悪で醜悪な感情に呑みこまれていくのを感じる。今だって、結構ギリギリなのだ。


 本当は、この手で、

 貴男を殺めたくて、

 殺したくて、

 奪いたくて、

 仕方が無いというのに!

 これ以上、どうやって貴男の前で正気を保てというのだろう。


「だから、貴男だけは」


 愛しい思い出が焼かれていく。ひとつひとつ、消えていく。少しずつ、忘れていく。

 忘却が、出来損ないの心臓を締め付けていた。

 目の前が黒と赤で染まってしまう前に、貴男に伝えたい。伝えなくてはいけないんだ。

 涙の感謝と苦渋の謝罪と、永遠のさようならを……。

 それが貴男にとってすさまじく残酷な仕打ちと知っていても、そうせずにはいられない。

 だって、私は、忘れていくのだから。全て全て。


「どうか、忘れないでほしい」


 全ては、逢魔ヶ時の終わりと共に。


「――それだけで充分よ」


 貴男だけはせめて。その胸に、美しい記憶だけを抱いて。永久に、永久に。


 I am the thing which fell to cling to a memory!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

麗しの君(2/17更新) 狂言巡 @k-meguri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ