第601話


しばらく待った。しかし当時のことは思い出せないのか、アウミは深い記憶の海から戻ってこない。その間も千切れた腕は黒ずみ、炭化して端から散り消えていく。


「旧シメオン国の流民るみん。彼らがなぜ国を追われるようになったか、末裔のアウミなら知っているでしょう」


双眸そうぼうに光が戻る。記憶を辿るのをやめたのだろう。雪の上に座り込んでいるが、生きている者なら持っている熱がないため周囲の雪は溶けずにいる。


「信仰する女神様を」

「それはどんな女神?」

「…………え?」

「言ったでしょう? 神には『何の神、何の女神』という呼び方がある、と。それで信仰していた女神の名は?」

「女神様は女神様で……」

「名前は? 伝わらないはずがないよね。信仰を捨てなかったがために国から追われて、ほかの国も大陸も受け入れてもらえず。そんな辛い思いを子孫にさせてまで信仰を続けた女神は……誰?」


アウミはただ呆然と私の言葉にだけ注意を向けている。右肩から脇腹に黒ずみが広がり、炭化した右腕は失われ、肩の一部が崩れている。


こんな雪の中、アウミは薄着なのだ。死者だからこそこの環境で動いていられる。タグリシアで捕まった偽商人たちに、身ぐるみ剥がされて置き去りにされた。いや、湿地帯のどこかの沼地に王族たちと共にまとめて投げ込まれたのだろう。


……アウミと共に行ったはずの名もなき女神の気配がない。だからこそ、身体の炭化が止められないのだ。

いま私の身につけている香水は、名もなき女神が嫌うというフルーツガーリックの精油だ。また私に関わろうとしても近付けなどできない。もう一度アウミの中に入ろうとしても、私の香水だけでなくサーラメーヤの聖域が張られて近づくことは出来ない。


「名前がない女神など、この世にはいない」

「……私が、忘れた、だけ」


必死に女神の存在に縋ろうとするアウミ。しかし、アウミはを忘れている。


「アウミ、大事なことを忘れていないか?」


自分の縋ってきた女神の存在がになり、これ以上女神を信じる気持ちを奪われたくはないのだろう。怯える目で私を見上げる。


「ここの大陸はなんだ。『神に見捨てられし大陸』ではないのか? この大陸に神や女神がいるか?」


私たちを守ってくれた魅了の女神は、神の眷属である騰蛇が大陸に取り残された妖精や精霊たちを守られるように作った神域にいる。そうでなければ、この大陸にはいられない。しかし、名もなき女神は違う。たとえ、いまは『女神ではない』としてもこの大陸にいられない。いままではアウミの中にいたから大陸に存在できていただけだ。


「あの女神様は……本当の女神様ではない、の?」

「そのを指す意味がわからない。しかし、何の女神か判明しておらず、この大陸に居続けられる女神などいない」

「……エミリアの中にだって女神がいたじゃない!」

「私の中にいたからだ。『異世界から召喚された最後の聖女』、それが私の本当の称号。私の存在そのものがだ」


これだけは分かる。アウミのように『名もなき女神のうつわ』になれるのは少ない。


1.旧シメオン国の流民るみんであること。

2.死んでもすぐに魂が逝かなかったこと。


そしてなにより、


3.名もなき女神を受け入れることができること。


それは絶対条件だろう。少しでも拒否反応があれば、精神体である名もなき女神の方が傷つく。下手をすれば死んでいるだろう。


その点でいうと私と魅了の女神は共存関係だった。私の不安定だった精神を安定させる代わりに私の中に住み着いた。その代わり、女神の力が私の能力を底上げして異世界という場所でも生きていけるように守ってくれた。


女神が抜け出たいま、私の基礎能力は格段に下がった。それでも日々の鍛錬とダイバやピピンたちから戦闘の基礎を教わったおかげで、まあまあ戦えている。もちろん肉体強化の魔導具を使用しているけど。


「アウミ」


呼びかけると素直に顔を上げる。あの初めて会ったときに死後2年たっていた。それでも問題がなければ、そのままダンジョン都市シティで冒険者としていられていただろう。


『罪を犯していなければ何も問わない』


それが最大のルールだったのだから。


「……アウミから出ていって、一度でも戻ってきたか?」


誰が、と聞かなくてもアウミは分かる。それだけ賢い子なのだ。だからこそ、左右に首を振るその表情は暗い。この大陸に精神体の女神が長くいられるはずがない。一度出ていって、そのまま戻らない。それは誤解だけれどアウミにとって大きな意味を持つ。


「私……もう用済みなんだね」

からね」

「……騙されていたんだ」

「少なくとも、幸せをぶち壊してノーマンたちを殺した。……そんな神がいるか?」


アウミは黙って左右に首を振る。そのアウミの小さな仕草は、信心を薄めていっている。これにより、死後もあの『女神もどき』に魂を縛られることはなくなる。


「ほかの連中はどうした?」

「……みんな、自ら死兵に。ノーマンたちは途中で『帰る』って言い出したの。『自分には帰る場所があり、待っている人がいる』って。だから、女神様が……お水を飲ませるように言ったの。のんで、吐き出して。馬車からおりて行った」


そうか……歩いてでも帰ろうとしたのか。しかし、結局……力尽きたんだ。


「やっぱりバカだな、ノーマンは。温度調整の腕輪を持っていれば帰れたのに」


腕輪の効力は所有者の半径3メートル。誰かひとりでも持っていたら帰ってこられたのに……


「いらんいらん。どうせ俺は都市ここで生きて死ぬんだ。外の世界なんて興味ないね」


ノーマンのバカ…………

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