5.空から侵入

- まえがき -

男の声の主は、小さな調教師だった。しかし、ほとりは蝶人には合わせてもらえず、その場を立ち去る。


買った水を飲み比べてみるが、味はほとんど変わらなかった。


排水管の中で眠ってしまったほとりを起こす者が……。




#小さな調教師


 男の声は聞き間違いだったのかと思って、さらに柵に近づいた。


「下じゃよ、下」


 ほとりは、鉄柵に沿う植木の先に、子供くらいの小さな人が立っていた。ステージで動物を操っていた小柄な調教師だと、すぐにわかった。


「なんじゃ、驚きもせんのか。珍しく女の冷やかしがいると思ったが……。フリークの連中を見ることはできんぞ。目の前のワシ以外はな。ワハハハハハ」


 子供のような体型だが、声は低く、顔にしわが目立っていた。


 黙るほとりに、調教師も黙り、ほとりは上から下までジロジロと見られた。


「あの、マルコ――」

「おめぇ、マルコを――」


 二人の言葉が重なった。


「えっ、どうして?」


 彼は、あっ、と言って口をつぐみ、一歩二歩と下がった。


「あの、マルコさんに会えませんか? お話できませんか?」


 ほとりは、距離を空けられる前に、早口で言った。


「マルコには会えないよ。帰ってくれ」


 調教師はそう言い残し、小さな背中を見せて、その場を去ってしまった。


「ちょっと、ほんの少しだけでもお話を」


 ほとりは声を上げた。


「誰かいるのか」


 懐中電灯の光が奥から照らされた。


 すぐに警備員の姿だとわかったほとりは、さっと柵から離れ、足早にその場から去った。




#水の味


 夜の町は、空気がいっそう沈んで暗かった。濃い霞が漂い、通りの明かりはかすんでいた。


 腰が下ろせる場所を探した結果、川沿いに戻ってきてしまっていた。人はおらず、広場の隅の朽ちかけたベンチに座った。


 ほとりは、バックウェーブ・サーカス団で買った四種類の水を飲み比べてみることにした。


 山の水は、やわらかく透き通っているように思えた。


 地下の水は、堅いような、深海の水は、ほんのり塩気を感じた。


 ピラミッドの水は、鉄の味がほのかに混じっているように思えた。


 ただ、どれもはっきりと味や舌ざわりが変わるほど、水の種類があるようには思えなかった。


 ほとりは、もう一度、飲み比べてみる。しかし、どれも味の見分けはつかなかった。


 ほとりは、一番飲みやすいと思えた山の水を自分の水筒に移し替えた。




#排水管の中で眠る


 時間が経つにつれ、川から吹いてくる風が冷たくなってきた。ほとりは、風を避けるため、セリカ・ガルテンのゲートがある大きな排水管の中に移動した。


 半日、この島にいたせいか、匂いには慣れてしまって、気にならなくなっていた。


 排水管の中は、乾いていて座ることができた。円い壁が、硬いけれど、疲れたほとりの体をしっかり受け止めてくれた。


 ほとりは、どうやったら、シュメッターを助け出すことができるか考えた。しかし、これといった案は浮かばない。


 せめて、少しでも話すことができればと思ったが、よじ登るには高すぎる柵に囲まれたサーカス団の敷地内に入ることはできない。


 ほとりは、排水管の奥を見た。


 ずっと先で、ゲートの光が揺らいでいる。


 ――このまま断念して帰ってもいいのかな。


 考えているうちに、ほとりは眠むってしまった。




#思わぬ興味


「……り……ほとり。ほとり、ほとり」


 体を揺すられたほとりは、目を覚ました。


「ほとり、大丈夫?」


「ユーリ。どうかしたの?」


「それはこっちのセリフ」


 ユーリは、安堵の表情とため息を同時にした。


 排水管の外はまだ暗かった。ほとりは眠って間もなかった。


 ユーリは、ほとりが部屋に帰ってこないことを心配して、無断でゲートをくぐって来た。生徒会の新人がどこかに行かされていることを知っていたようだった。


 ほとりもこれまでのことを話した。ほとりは、帰ろうとユーリの口からそう言ってもらえるのを期待していた。


「なにそれ、私もみたい。その子、どこにいるの?」


 ユーリの目は、輝いていた。




#空から侵入


 ほとりは、ユーリに抱えられて町の上を飛んでいた。夜の町に外出している人は、まったくいなかった。


 飛んでわかったことだが、やはりここも島だった。大きな島ではあったが、ずっと向こうで真っ黒な海に囲まれていた。


「こういう時、飛べないって不便だね。でも、私が来て、良かったね」


 ユーリがこの状況を楽しんでいるのがわかった。


「人ごとだと思ってるでしょ」


「人ごとだから、簡単に首が突っ込めるのよ」


 でも、ほとりは、ユーリがそばにいてくることが心強かった。


 ひっそりと静まり返ったサーカス団の裏手に敷地内に降りた。


 時々、どこからか動物の低い鳴き声が不気味に聞こえてくるが、誰かいる様子はなかった。


 腰を低くかがめて足音を立てずに、トレーラーハウスに向かっていく。部屋の明かりがついているところはない。窓を覗き込んでもカーテンが閉められているか、真っ暗でよく中が見えず、人がいるのかもわからならなかった。


 二人は、物置小屋が並ぶ方へと歩いて行く。小屋に並んで鉄格子の檻があった。


 そっと覗くと、何もいない。


 今一番、心臓の鼓動が早く打っていたのがわかった。何もいないことに安堵する。


 檻が五つ並んでいて、最初の二つは空だった。


 三番目の檻には、布カーテンが引かれていた。


 ほとりは、聞き耳を立てる。カーテンの向こうからは、何も聞こえてこない。


 ユーリに首を振ってみせると、ユーリは、布の隅っこをそうっとめくって中を覗いた。


 暗い檻の中に、夜の光が差し込んだ。


 ユーリが中に向かって、指を差し、ほとりも中をのぞき込む。


 檻の奥に板作りの簡易的な寝台に、何かが寝ていた。


 布をもう少し引き開ければ、光が奥まで届く。


 ゆっくりゆっくり光が奥へと伸びていく。


「誰?」


 突然、檻の奥から声がした。


 ほとりは、息が止まった。


「もう朝? スタッフさん? ミクロス?」


 おっとりした女の子の声だった。


 影がむくりと起き上がり、夜の光に顔が映った。

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