第1章 学園島 セリカ・ガルテン

1.海との対峙

- まえがき -

夏休み直前の放課後、ほとりは美術室でコンクール用の絵を描きあぐねていた。


親友である原田友理がやってきて、絵を描けずに苦しんでいるほとりにある提案をする。




#課題「海」


 ほとりは、肩まで伸びる髪の毛を後ろで一本にまとめて、立てかけてある画用紙と向き合った。


 美術室の窓は、ついさっき開けたばかりで、まだ蒸した空気が漂っている。


 おでこと首筋にじんわりと汗がにじむのがわかった。


 画用紙を前に、ほとりはため息をついた。


 暑さのせいで、なかなか絵を描き進められていないというのは、言い訳だった。


 椅子から立ち上がって、本棚から数冊の本を取り出し、机の上に広げた。


 何度も見つめて、知ったような青い海の写真をめくりながら、描きたい海を探す。


 しかし、いっこうに描きたい海は見つからない。


 想像でもいいからと、持った鉛筆を思うままに走らせようとしても、腕が硬直したように鉛筆は動かない。


 画用紙のあちこちには、黒い点が無数にあった。


 鉛筆を無理に動かせば、意思に反した線が引かれる。その線は、すでにいくえにも重なっていて、黒い波のようにも見えた。


 もう消すのも面倒になって、そのまま二ヶ月。鉛筆を画用紙の一点につけてははなすのの繰り返し。


 絵のテーマは「海」。ほとりには、とても重い課題だった。


 ほとりは、ため息を吐いて、腕をおろした。




#原田友理


 ほとりは、校庭で活動する運動部の声を聞きながら、窓辺で日が傾いていくのを眺めていた。


「さぼってはいかんよ」


 わざとらしい女の低い声だった。


「友理」


 うなだれた体を起こしたほとり。


 まっすぐ長い髪をなびかせながら、風通しのために開けておいたドアから教室に入ってきた。


「さぼってるのは、ここにいない部員の方。私は、インスピレーションを得ていたところ」


 ほとりは、力なく言った。


 美術部に所属して、まじめに活動しているのは、ほとりだけだった。


 部員は他にもいるが、来たり来なかったり。来てもしゃべって何もしなかったり、いわゆるキャラクターイラストを描いている者もいる。


「生徒会、終わったの?」


 ふーん、と画用紙をのぞき込む友理にほとりが聞いた。


「えぇ。一学期のまとめと二学期の行事について話し合ってた。文化祭や生徒会選挙もあるから」


「それはそれは、大変ですこと」


「ほとりも手伝ってね。文化祭のポスターと立候補の推薦人」


「えっ、私が?」


「コンクール入賞常連のほとり以外に、誰に頼むのよ。生徒会でも概ねその方向で進んでる」


 ほとりは、一度天井を見上げた。


「ポスターはいいけど、推薦人って、演説するんでしょ。人前に出るのは、やだな」


「応援してくれないんだ」


 背を向けて言う友理の言葉は、わざとらしく冷たい。


「応援はするよ。でも」


「私のことをよく知ってるほとりに頼みたいの。まだ少し先だし、考えておいて」


 振り返った友理は、笑顔だった。


 ほとりは、好きな友理に頼まれては断れないと心の隅で思っていた。


「進んでないね」


 もう一度、画用紙に視線を向けた友理が言った。


「それでも進んでるよ。よく見て。黒い点と黒い線が増えてるから」


「点と線ね。絵にも見えるんけど、私には」


 友理は、片眉を上げた。


「まさか、そんなわけないよ」


 下書きにもならない、ただの描きあぐねている苦悩の線だ。




#友理の提案


 ほとりが帰り支度をしている時だった。


「ほとり。せっかくの夏休みだし、いっしょに海に行こうよ」


 海の本を本棚に戻してくれた友理が、唐突に言った。


 ほとりの胸が一度強く打つ。ほとりは、固まったように立ち止まった。


「別に、ほとりを泳げるようにしようとか、海に慣れさせようってことじゃないの」


 友理がそう言ってきたのは初めてのことだった。ほとりが泳げなくなったいきさつを知っていて、それが今も続いていることもだ。


「次のコンクール、大きなコンクールなんでしょ。なかなか描き出せないほとりを見ていて、私に何かできないかなって」


 決して、友理は親切心を見せたいがために、そんなことを言ってくることはない。


 本気で自分のために言ってくれたことだと、ほとりは理解していた。


 ほとりは、一つ呼吸をして、緊張した面持ちで口を開いた。


「友理、ありがとう。でも、これは私自身で解決しないとダメだと思ってる」


 友理は表情を変えることなく、聞いていた。


「私と行くのが嫌だと」


「そうじゃなくて……」


 強く否定したほとりを見て、友理は微笑んでいた。


「夏休みに入ってすぐに祖母の家に行くことになってる。私が溺れたところでもあって、少し一人で向き合ってみようと思ってて……」


 一瞬間が空いた。友理は小さく何度か頷いていた。


「……そう。そういことなら、私は何も言わない。でも、いい絵を描いて欲しいな」


「うん、そうなれれば、いいんだけど」


 ほとりは、鞄を肩にかけて、教室を出ようとする。


「持って帰らなくていいの?」


 友理がイーゼルに立てかけられたままの紙を指差した。


「紙や道具は、家にもあるから平気」


 二人は、学校をあとにした。

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