理想水郷 ウトピアクアの蝶

水島一輝

プロローグ

- まえがき -

浅葱あさぎほとりの幼い頃の嫌な記憶。


それは、海で溺れたこと。


ほとりは祖母に助けられるが、体は水を拒むようになってしまっていた。




#幼き頃の記憶


 透き通ったやわらかな波が、小さな女の子の足もとを何度もくすぐっていた。


 ザザー、という波の音に少女が怯えたのは最初だけ。


 すぐに浅瀬で波と戯れ始めた。


 海というものが、しょっぱいと自分の舌で知ったのは、この時だった。


 跳ねたしぶきが口に入り、飲める水じゃないと、本能的に体に刻まれた。


 すぐ後ろの真っ白に反射した砂浜から、祖母が一人彼女を見守っている。


 少女が水面から顔をあげて、手を振れば、そのたびに祖母は笑顔でそれに答えていた。


 だから、安心して一人水遊びをしていた。




#溺れる


 夢中だった。


 プラスチックの黄色いシャベルで、海水をふくんだ砂をすくって、赤いバケツに流し入れていた。


 少女の目には、砂として映ってはいなかった。その場にしかなかい、宝物のだった。


 突然、波が彼女を包み込んだ。


 体が重くなり、心地よかった波の音も濁って、自由のない世界に引き込まれてしまった。


 息をしようと口を開ければ、海水が容赦なく入り込んできて、辛さすら感じる水を飲み込んだ。


 むせて、吐き出そうと思っても、常に口の中には海水があり、息ができない。


 もがけばもがくほど、苦しくなって、何も考えられない。


 手足を動かすも、その小さな体ではどうしようもない。


 助かりたい一心でつかんでいたシャベルは、意識がなくなると同時に手をはなれて行った。




#光の液体


 真っ暗な世界。


 遠くから声がする。


 体の中心に向かって、光の液体が流れ込む感覚があった。


 しょっぱさは、感じない。


 名前を呼ぶ声。


 それは、祖母の声。


 体の中から、光が溢れるように熱くなった。


「ほとり、ほとり」


 少女は、ゆっくり目を開けた。


 ぼやけた祖母の顔が目の前にあった。


「大丈夫かい?」


 祖母の顔はホッとしていた。しかし、慌てふためいた様子を感じられなかった。


 祖母の脇には、ガラスでできたような透き通った筒があった。


 海岸に来た時には持っていなかったもの。


 ガラスの筒の底には、エメラルドグリーンに輝く水があったのを少女は、虚ろな意識の中で見ていた。




#きらいになった水


 その晩には、ほとりの体は、すっかり動くようになっていた。


 体のだるさもなく、まるで朝起きたようだった。


 だが、コップで出された水に手を伸ばすことができない。


 乾いた喉を潤したいが、口に含んだ強烈な辛さの海水を思い出す。


 緑茶や牛乳といった色のついた液体なら飲むことができた。


 今度は、お風呂に入ろうとした時にそれは起きた。


 浴槽にたまった湯を目の前にした時、体が動かなくなった。


 湯に触れることを体が拒否していた。


 ほとりの体は、水が怖くなっていた。


 当然、水道から出る水も、桶にためたわずかな水にもだ。


 ほとりがどんなに水に手を伸ばそうという気持ちはあっても、体がかたくなにそれを拒んだ。


 自分の言う通りにならない体に困惑して、泣いた。




#近くの水


 それからの月日の中で、一般生活で接する水には、慣れるための訓練で改善された。


 ただし、泳ぐことはできないし、足を底につけていなければ、水の中にはいられない。


 できれば、長い間、水に触れることは避けたいというのが本音だった。


 唯一、積極的に水に触れようとする場面は、絵を描く時だった。


 体を動かす以外に没頭できるものだった。


 最初は、色鉛筆やクレヨンで描いていたが、絵の具での絵も描くようになった。


 筆を洗うと、色がついていく水にどこか安心感を覚えていた。




#遠くにあった水


 それから何度か、母方の田舎である祖母の家に行くことがあった。


 そこに住んでいるのは祖母しかいない。


 家の近くには、畑と山、そして海くらいしかない。


 みんなその土地から離れていき、祖母だけがそこに居続けた。


 ほとりが住んでいる町には、山も海も近くにはない。だから、祖母の家は嫌いではなかった。


 しかし、ほとりは、あれ以来、海に近づくことは一度もなかった。


 祖母の家に行った時は、もっぱら山の方にしか行かなかった。


 ほとりは、近くに海があると思わないようになり、山の上から広がる海もずっと遠くのものだと思うようになった。


 これまで、一度も海や水の関する絵を描いたことはなかった。


 中学二年の夏、ほとりは水と向き合うことになった。

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