自分で決めたのか、最初から決まっていたのか

5月のある日、今日は夕方から23時までのシフト。17時入りだが外はまだ明るい。少しづつ日が長くなっているのが感じられる。今日は佐伯は昼間の出勤のはずだが、姿が見えないし声も聞こえない。銀行にでも行っているのだろうか、と思っていたが。

「店長、今日は早退したからいないよ」

引継ぎのついでに典子はそういった。

「そうですか。何かあったんですかね」

「子供が生まれそうだからっていって、急いで帰っていったよ」

典子はエプロンを外しながら言う。

「そうですか。無事に生まれるといいですね」

そう言って、典子に向かって律子は笑いかけた。


その日は、考え事をする暇もないような忙しさだった。でも今日のような日はその方がありがたい、と律子は思った。佐伯とのことに関しては、思い悩んだり一人で色々考えたりしない、と決めたのだ。何も考えない、私だけが傷つくなんて割に合わない。


頭の中を、無にすることに、いつのまにか慣れてしまった。なのに、実家の母や弟の顔が今日は浮かんでくる。私はこんなことのために田舎から出てきたわけではなかったのに。こんなはずではなかったのに。

「律子、どう。最近、元気でやってる?」

久々に母からの電話だった。

「うん。特に変わりなく。」

「就活は?」

「なかなかね。最終段階まで進んでも落とされたり、内定はまだもらえてない。でも大丈夫、今進んでるところもあるし」

「無理せずにやりなさいね。大丈夫よ、律子なら」

普段は母は律子にそんなことは言わない。

「どうしたの急に?」

「あんたはほんとに大変な時こそ誰にも言わないでひとりで抱え込む節があるからね」

「そうかな?でも言いたいことは言ってるよ。友達とか」

「そうよね。でも、それは言える範囲とここまでなら甘えられるって自分で決めてやってるやつでしょ」

珍しく母の鋭い指摘だった。

「あなたは今更って言って笑うかもしれないけど一度だけ言っとくね。失敗したらこっちに戻ってくればいいんだから。やりたいこと、やっときなさい」

「なんかよくわからないけど、ありがとう。でも田舎に帰っても仕事ないしね」

「まあ、それもそうね」

母も笑う。

「翔と奈々未は?元気でやってる」

「そうね。二人とも受験生だけど甘ったれだから、ハッパかけてやってるわよ」

そう、二人とも兄弟なのか似ていて、のんびりした性格なのだ。

「あんたは長女だからね。ちょっと厳しくしすぎたのかなと思ってるの。それで謝るのも今更だものね。でも、翔や奈々未は、姉があんただったから安心して甘ったれになれたのよね。」

母がそんなことを思っていたなんて意外だった。

「甘えすぎても困るけどね」

その後はそれぞれ世間話をして電話を切った。律子とどこか似ていて不器用な母であるが、精いっぱいのメッセージを伝えようとしてくれたのだろう。それだけでありがたかった。


母の言う通り、本当に困っていたり悩んでいたりすることは誰にも相談しない。誰かに頼る、という発想自体あまりなかった。

一方で誰かに絶対的に信頼された時、寄りかかられた時に、何とかしてあげたい、と思ってしまうのだ。それが、許されない恋愛関係になるとしても。


多分この私の性格はずっと変わらない。佐伯の弱い部分、孤独な部分を見てしまったから、簡単には手放せない。でも、たまたま佐伯だっただけで、ほかの誰かと同じ関係に陥っていたかもしれないのだ。


結局は自分なのだ。誰と恋愛するのかも、仕事をどうするのかも。



「6月いっぱいで、辞めます。」


佐伯と、副店長もいるタイミングを狙ってそういった。1対1なら別だが、他の人もいるところで下手な引き止め方はできないはずだ。佐伯はやはり、驚いた表情をしていたが、最初に口を開いたのは副店長の方だった。


「いや、びっくりした。井川は卒業まで続けると思ってたんだけどな」

「すみません」

「でも、なんで今?」

副店長は、単純に驚いたようだった。

「就職先が決まったのでいろいろ考えたんですけど、卒業までに、やるべきことをやっておきたくて。今までみたいにたくさんシフトに入れないので」

「でも、ねえ。週1でもいいから続けてもらえればこっちは助かるんだけどねぇ。店長」

副店長は佐伯の方を見やる

佐伯は表情を変えず

「もちろんそうだけど、井川さんの中でもう決まってて、俺たちが説得したからって無理なんじゃないの?」

「確かになあ、井川はそういう子だよね。店長が一番わかってるよね」

副店長もなっとくしたようだ。

「はい、すみません」

「じゃあ、分かったよ。残り一か月だけど、よろしくね」

「はい。こちらこそ。最後まで手をぬかず、頑張ります」

そう言って、いつも通り現場に出て行く。思った通り、上がった後に佐伯から電話やメッセージが来ていたが、一切答えず返信もしなかった。


「店長と、もう連絡取るのやめるから。」

帰り際、花にメールすると、すぐに返事が来た

「へぇ!マジで。良かったじゃん。それがいいと思う!」


律子は前を向いて歩き始めた。

律子が店をやめてから1か月が経った。その後、一度だけメッセージが届いた。

「もう会いません。連絡もしません。奥さんや子供から徹を奪うほどの度胸もないし、それで自分の人生を棒に振るつもりもありません。

でも、本当に楽しかった。今まで見たことのない世界を見せてくれてありがとう。出会えてよかった。それは本当です。さようなら。どうか幸せに。元気で。」


前触れは特になく、急に連絡が取れなくなった。何か、急に別れを決断するきっかけがあったのだろうか。それを言わないところも律子らしいと思った。一人で勝手に決めて、けじめをつける。行くところまでズルズルいくくせに、会わないと決めたら絶対に会わない。でも、それを勝手だと言う資格は自分にはないだろう。あの夜、車に乗ることを勧めなければ。


自分の抱えている寂しさや孤独を、自分より大分若い律子に埋めてもらいたいと、一瞬でも考えた自分のせいなのだ。若い子と付き合って浮かれていた部分がなかったとは言えない。でも、律子はそれ以上に大人だった。自分と律子は、駄目な部分がよく似ていた。


返信のメッセージは読まれていないようだ。ブロックされたか連絡先を変えたか。せめてこちらからもさよならを言わせてくれとも思ったが、物理的に連絡を絶つというやりかたも律子らしくて納得してしまう。

佐伯は変わらずに店長を続けている。もうすぐ異動の事例がかかるかもしれない。そうしたら、道でばったり律子と会うこともなくなるだろう。


どうか、俺のことなんか忘れて、幸せに。そう願うだけだ。


赤ん坊の泣き声が聞こえる。隣の部屋で妻と一緒に寝ていた子供が目を覚ましたのだろう。

さて、育児で疲れ気味の妻のために子供が泣き止むまで抱いてやるか。


佐伯はそっと律子のメッセージを消去し、立ち上がった。

盆踊りが始まったようで、祭り会場はにぎやかさを増し始めた。近くのコンビニで雑誌を立ち読みする律子は浴衣姿だ。コンビニの入店音が響き、息を切らせて樹が入ってくる

「ごめん!塾から一回帰って着替えてたら、遅くなって」

「別にそのままくれば良かったのに」

話をしながらコンビニの外に出る。祭り会場である神社境内に入る。

「何か買う?」

「腹減ったから、お好み焼きとか、焼きそばとか食いたいな」

「奢ってあげるよ」

「え、いいよ。自分の分は自分で」

樹はむきになる。

「律子さん、浴衣着てくっていうから、制服じゃない方がいいかと思ったんだ」

「うん?ああ、服の話ね」

樹はTシャツにハーフパンツ、髪は以前より短くなり、ジェルで立ててセットしている。シャワーを浴びてから来たのか、心なしか髪がまだ濡れている。


とりあえず何か食べたいという樹の意見を聞いて、屋台で買ったものを食べることになった。樹は焼きそばを、律子は唐揚げを買って、分け合う。


「そういえば律子さん、浴衣似合うね」

「何でそれ今言うの?待ち合わせの時に言わない普通?」

屋台の中の休憩所で、二人で焼きそばと唐揚げをつつきながらだった。

「いや、なんか女の人とふたりだけでこういうのないから、緊張しちゃって」

「緊張してるように見えないけど」

「してるよ。これでも」

祭りばやしの太鼓が聞こえてきた。

「近くでバイトしてたのに、一度もお祭りは来たことなかったなぁ」

「むしろ、店が忙しいから、バイト入れって頼まれるでしょ」

「確かに」

「律子さん、辞めて正解だよ」

焼きそばにがっつきながら樹がいう。

「店長、自分の娘がかわいくて仕方ないみたいで、みんなに写真見せまくって」

「いいよ。その話、聞きたくない」

律子は樹の話を遮った。樹は

「ごめん」

そういって、それ以降店長の話は止めた。


返信をやめた。連絡先を消した。ブロックした。ひとりでそれを成し遂げる自信がなかったので花に一緒にいてもらったのだ。花は「良かった、律子が戻ってきてくれた」といってなぜか泣いていた。


「やめられると思ってなかったな」

つい、口に出して言っていた。

「え?なに」

半歩前を歩く樹には、祭りの賑わいに紛れて聞こえなかったようで、振り返って聞き返してきた。

「ううん。何でもないよ」

多くの人にもまれて、二人は離れかけたりくっついたりしながらあるく。

「なんか買う?」

「じゃあ、ビール」

「けっ。大人はいいよな」

「早く二十歳になりなよ」

「なりたいよ。こっちだって」

また二人が離れかけた時、樹は律子の手をつかんだ。そのまま、手をつなぐ形になる。

樹の顔が心なしか赤いような気がする。

「律子さん、何で今日、来てくれたの?」

律子は答えない。

「俺の誘いなんか、どうせ乗ってくれないと思ってたんだけど。っていうか、俺のことどう思ってんの」

樹がいじらしくて、思わず笑いそうになる。さすがにここで笑うのは失礼なので顔に出さないようにこらえた。

「どうって?」

もう少し、泳がせてみるか、律子の中の、意地悪な部分がそういう。こういうことも久しぶりだなあ、と思う。

「おれは、店長みたいに、利用したりしないよ」

樹は、律子のことをまっすぐ見ていった。気づいてたよ。知ってた。でも私は、知らないふりをしてきたんだ。やっぱり、変われない。都合の悪いことは考えず、甘い蜜だけ、都合の良いところだけ。利用しているのは私の方だ。律子は心の中で苦笑した。

「あんたは、弟のようなもんだよ」

樹は傷ついた顔をする。


佐伯はこんなに、分かりやすく顔に出したりしない。心の中で何を考えているのか最後の方はもう分からないくなっていた。でも、心を動かしたい、心に触れたい。そう思っていたことは確かだ。

樹は、素直に表情にでるし、私の言葉で一喜一憂してくれる。そういうのも、楽しいかもな。そう思って、次の言葉を、律子は考えていた。


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しっかり者の女子大生、律子の秘密~バイト先の店長との言えない関係~ 小峰綾子 @htyhtynhtmgr

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