家族には言えないこと

「レスなんだ、妻とは」

佐伯がそう言っていたことがあった。それを鵜呑みにしていたわけでもないが、佐伯の、律子とするときのあの情熱見ると、日常的にそういうことはないのだろうな、というのは感じていた。だけど、子供は作っていたんだね。


自分は佐伯の妻に嫉妬しているのだろうか。いくら考えても、自分が奥さんから佐伯を奪いたい、佐伯と結婚したいという気持ちは沸いてこない。実感がこもってこない。佐伯のことを求めている一方で、パートナーとしてはクズだろうなという、醒めたような気持もどこかにあった。だとしたら、自分が求めているものは、今の位置での関係なのかもしれない。


佐伯に、妻の妊娠の話は聞かなかった。聞けないわけではないが、ただ不毛なだけだと思ったからだ。


その日は、良く晴れて冷え込む日だった。日付をまたいだら始まるクリスマスフェアに向けての準備をしながら、メニューの差し替えをしえ、と頭の中でイメージをしながら作業をしていたところで、一人の女性が入ってきた。

案内係の店員が

「いらっしゃいませ」

と声をかけるが、それを手で制しながら

「あ、すみません違うんです」

とニコニコしながらバックヤードに入ってきた。その場にいた、律子ともう一人のバイトに向けて丁寧に頭を下げながら

「佐伯の妻です」

と言って頭を下げる。手に持っていた紙袋を前に抱え

「お菓子買ってきたので、良かったら皆さんで食べてください」

いかにも、優しくて気遣いのできそうな小柄の女性だった。佐伯より5つほど年下と言っていただろうか。でも童顔な妻はまだ20代半ばと言っても疑われないような風貌であった。妻の声が聞こえたのか、佐伯が店長室から出てくる。

「ああ」

二人の間にアイコンタクトがあったあとで、妻は夫に案内されてさらに奥に入っていく。佐伯の妻は、体のラインが目立たないゆったりとしたワンピースを着ている。

「店長の奥さん、かわいらしいですね」

夏目がいう

「そうだね」

律子は特に感情のない声で答える。元々来訪する予定だったのだろうか、それとも近くに来たので寄ったのだろうか。佐伯のシフトを、律子は思い出す。今日は18時で上がりのはずだ。


 休憩室から、夫婦が楽しそうに会話するのが聞こえる。

「ごめん、ちょっと、裏行ってくる」


ディナータイムのピークに向けて準備をしていたタイミングで律子が言い出したので夏目たちはキョトンとしてながめていた。


「店長」

休憩室で談笑する、佐伯夫婦と18時上がりのフリーターがこちらを見る。佐伯が、律子を一瞥する。そこに一瞬、畏怖の表情を見て取る。何を怖がっているのだろう。私が何かをしでかすと思っているのだろうか。


「今日は帰らせてもらえないでしょうか」

佐伯が他の2人は気づかれないように密かに息をのむ

「体調悪くて」

佐伯は、慌てたような安堵したような表情を浮かべ

「えっと、今日の体制は・・・。21時までリーダーがいなくなっちゃうな。」

妻が心配そうに律子を覗き込む。

「大丈夫?」

佐伯の方に向き直り、

「ねえ、具合悪いって言ってるのに無理させたらよくないよ。帰らせてあげられない?」

佐伯は少しの間考えこんだあとに言う。

「そうだな。じゃあ、俺が残るから、早退して。」

妻の方を向き

「せっかく来てもらって申し訳ないけど」

妻は曇りのない笑顔を浮かべる。

「大丈夫、待ってるよ」

最後の二人の会話を背中で聞きながら。律子は静かに帰る準備をする。


「いつも佐伯が、うちの店の子たちは優秀って言ってるんですよ」


帰り際に、妻が律子に行った。

「いつもありがとうね。お大事に」

せめて、感じの悪い人だったらいいのに。思いきり嫌わせてほしい、私はいったい何を見せられているのだろう。佐伯がいつも言っているような人だとは思えない。ちゃんと佐伯のことも愛してるし、優しくて気配りのできる人のように見えた。少なくとも今日見た限りでは。そのことで余計苦しいなんて、自分の卑しさに嫌気がさす、そう思いながら家路についた。


佐伯は今どんな気持ちなのだろうか。これで警戒されて佐伯からの連絡が途絶えるならそれだけのことだ。


律子が休憩室に飛び込んだ時、佐伯は恐れた表情をした。一瞬だが密かに眉を動かした。それだけでとりあえずは満足だ。


ほんの少しでも、佐伯の心を震わせたい。私の心を揺さぶっているように。ただそれだけだ。それ以上を手に入れるつもりはない。


その後、何事もなかったかのように、佐伯から連絡はあった。そういうところもクズだな、と苦笑してしまう。あの日のことには何も触れない。不自然なほどだ。やはり恐れられているのかもしれない。


相変わらず不倫の関係を続けている律子に対し花は呆れていた

「罪悪感はないの?」

と花に聞かれたことがある。

罪悪感、何に対してだろう。相手の奥さんに対してか、それともこの状況自体に対してか。前者に対しては、全くなかった。不倫するにはされるだけの理由や隙があるわけで、佐伯が妻との間に何か寂しさや孤独のようなものを感じていて、それを埋めようとしているのなら、それは二人の問題だろう。律子でなければ別にほかの誰か、何かで埋める必要があったことだろう。


申し訳ないと思うとしたら、仕送りをし、学費も払ってくれている両親に対してだろうか。こんなことをするために家から出したわけではないのは確かだが。そうはいってもピンとこない。大学にはきちんと通っているし単位も足りている。このままなら余裕で4年で卒業できるだろう。


ただ、律子の中にいつも15歳ぐらいの自分がいる。なぜそのころの自分なのかは分からない。おそらく、初めて将来の自分を具体的にイメージしてみた時期なのだろうと思う。世の中と言うものに対して、なんとか立ち向かえるだろうか、そんな期待と不安が渦巻いていたころ。あのころの自分に嫌われること、それが何よりも怖い。こんなはずじゃなかった、汚らわしい、情けない、そういわれるだろうか。


今日は、大人っぽいバーに行こう。早めのクリスマスをしよう。そう、佐伯が言った。

鏡の前で、スーツとワンピースを交互に当てて試してみる。ふつうの大学生としての生活をしていて、正装してバーにいくことなんてない。このようなときにどんな格好をしていけばよいのか。ワンピースといっても、高校生の時に従妹の結婚式で着たものしかないので、かえって今着るには子供っぽいのではないかと思えてしまい、結局スーツを着ていくことにした。まだ、新卒のOLに見えるかもしれないと思ったのだ。


新宿の改札前で待ち合わせした二人だが、佐伯はどんどん人気のない場所に歩いていく。看板も出ていない薄暗い階段を下りていくと、カウンターとテーブルが2つのこじんまりとしたバーがあった


「このあいだは、申し訳なかった」

静かな乾杯を済ませた後の開口一番、佐伯は謝った。

「ばれたかな」

律子はいたずらっぽく笑う。

「俺は、君に甘えているんだな。こんなに歳の差があって、明らかに君の方が分が悪いのに。それを利用して」

利用しているのはこちらも同じ、と思ったが言わなかった。

「でも、妻は俺のことを見ていないのは、この間も言ったとおり、そうなんだよ」

ハイボールの氷がからりと音を立てた。

「君のことは、1ミクロンも疑いなんてもっていない」

「奥さんは、今日は家に?」

佐伯はファーストドリンクを早くも飲み干そうとしていた。

「いや、12月頭から、そうだな、あの店に来た日の直後ぐらいから実家にの方に行ってる。地元で出産予定なんだ」


知っていた。12月に入ってから佐伯からの連絡が増えていたのだから。

「クリスマス当日は会えなくて、申し訳ない」

「家族サービス?」

「妻にサービス、というよりは、向こうの家族へのアピールだな。一応、夫としての役割は果たしてますっていう」

佐伯が不意にカバンを取り出し、中から小さな紙袋を取り出した。それを律子の前に置き、中を開けるように目配せする。

エメラルドグリーンの箱の包みをとくと、小さなピアスが入っていた。

「かわいい」

「身に着けられるものがいいかなと思って」

そう言って佐伯は目を伏せる。

「こんなことしかしてやれなくて悪い」

「いいよ。大丈夫、私は遊びなわけだし」

佐伯が眉をひそめる。

「うそだよ。これだけで十分。ありがとう」

佐伯が律子の肩を抱き寄せ、自分の方にもたれさせかける。律子は身を任せながら、今夜も抱かれるのか、この人に、と、どこか俯瞰して自分を見ているのだった。

徹からピアスを貰った。


写真付きで律子からメッセージが届いたとき、花もまた、男の家にいた。大学生になってから、というか今まで何人目の彼氏だろう。指折り数えるのもばかばかしくもうカウントもやめてしまった。

「何なに?花ちゃん、誰とメールしてんの?男じゃないよね」

彼氏がシャワーから出てきて頭を拭きながら話しかけてくる。

「バカじゃないの。友達。大事な。この子も男といるんだって。プレゼント貰ったって自慢してきた」

花は、小さな箱の上に載せられたかわいらしいピアスの写真を見せる。

「何それ~?のろけてんじゃん」


のろけか。まあ、それはそうなのだが。


別に、遊びの恋でちょっと浮かれたり楽しんだりするのは勝手にすればいい。花にも身に覚えがある。

でも、律子がどこまでハマっているのか、周りが見えなくなっていそうなのは怖い。まさかここまで引きずるとは思っていなかった。相手の男がどれだけ注意深いか分からないが万全の注意を払ってくれていることを願うしかない。


もし奥さんにバレて訴えられるようなことがあれば弱いのは絶対に律子の方なのだ。慰謝料を請求されるかもしれない。そうなったら学校に今まで通り通えるのか、実家の両親たちに相談できるのか。


今の律子には花の真剣なアドバイスの言葉が入らない。遊びだから、ばれないようにしてるから大丈夫、そういってごまかすのみだ。


そんなわけない。そういう意味で遊べるような子ではない。

「この子、不倫なの。どうしたらやめてくれるのかな?」

ドライヤーで髪の毛を乾かしている彼氏に言った。

「何?禁断の愛ってやつ?」

「そう。禁断の愛だから盛り上がってるだけ。大した男じゃないのに」

「さすが花ちゃん、見極めてるねぇ」

「いや、よく知らないけど。一回ちらっと顔を見ただけだし、その子から聞いた情報しか知らないけど。」


相手がどんなやつか知ったことではない。でも、身を滅ぼすような目には遭ってほしくない。花にとっては律子が大事なのだ。彼氏よりもずっと、大事なのだ。


最後の言葉は口に出さないでおいた。

「おはよう」

元旦の12時すぎになってようやく弟の翔が自分の部屋から出てきた。律子も一応午前中のうちに起きはしたもののコタツでごろごろしていたところだった。実家となるとついつい気が緩んでリラックスしてしまう。

「さむさむ」

翔がコタツに入りながらみかんに手を伸ばす。

「そういえば、奈々未は?」

律子は、今朝になってからまだ妹の姿を見ていないのを不意に思い出した。

「ああ、あいつ元旦は彼氏と初もうでだって言ってたから、もう出発したんじゃない?」


期待を裏切らない次女。中学生のころから恋多き女だった妹。翔や律子はそのような話がほとんどないのと比べて奈々未の行動力と恋愛能力は恐るべきものだった。

「あの子、私たちと同じ血がながれてるとは思えないわ」

「ねぇちゃんは、彼氏とかいないの」

「うるさいな。そっちはどうなの」

「お雑煮できたよ」

母がキッチンから雑煮を運んできた。

三人で「いただきます」と手を合わせ食べ始める

「そういえば、お父さんも姿を見てないけど、でかけたの?」

「父ちゃんはまだ寝てるよ」

母が呆れた声で言った。


「律子は、就職活動は大丈夫なの?」

お雑煮を食べ終えて、おせちをつまみながら母が言った。

「元旦からいいじゃん、そんな話」

翔が口を尖らす

「良くないの。それに今しか話す時間ないでしょ。」

母は律子に向き合う。長女と言うこともあって、昔から母は律子には妙に厳しい。そのことを知っている翔はそれ以上反論しても無駄だと判断したのかテレビのチャンネルを変え始めた。

「東京に残りたい、っていうのは分かったよ。だったら一人で生活しなきゃいけないんだから、それなりにちゃんと、お金ももらえる会社じゃないと」

「わかってるよ」

律子が反発する。翔がこっそりリビングから出て行こうとする。すかさず母が

「あんたも来年は受験なんだからね」

「はいはい」


翔は自室に戻っていった。二度寝するのかどうせゲームでもやるのだろう。一瞬不穏な空気になった井川家のリビングだが、なんだかんだで、平和ないつもの家族の日常だった。こうやって帰ってくる場所があるのはありがたいとあらためて思っていた。


お母さん、ごめんね、私、不倫してるんだ。絶対に言えないけれど。


心の中でだけ、そっとつぶやいた。


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