何も考えない。嫌なことは、考えない

9月


律子はバイトを21時に上がったが、自宅とは反対方向に歩いていた。どこか自分でもウキウキしているのが分かる。もうすぐ、もうすぐ佐伯に会える。それだけでこんなにも足取りが軽やかだ。まるで恋する中学生みたいだな、恥ずかしい、面はゆい。なのに一方では後ろめたい。


佐伯と深夜に会う時、佐伯は妻に嘘をついているのだ。


角を曲がったところの駐車場。1台の車に向かって真っすぐに向かっている。車のロックが解除され、律子は自分で助手席のドアを開けて滑り込む。逆に佐伯がドアを開け外に出て、駐車料金の精算に行く。戻ってきて運転席に座る。ほどなくして車は、暗い夜道を走り出していく。二人は月に2回ぐらいのペースでこうやって待ち合わせていた。


「奥さんは、大丈夫なの?」

「大丈夫じゃないって言ったらどうする?」

ふふ、っと、律子がいたずらっぽく笑う。

「怪しんだりしないの?」

「今日は、帰れないかもしれないって言ってあるから、大丈夫なんだよ。」

佐伯は、早くこの話題を切りあげたいという雰囲気を醸し出している。

「腹減ったな。軽くなんか食いたい。適当なところでいいよな」

ハンドルを切る。向かう先はもうすでに決まっているようだ。

「あいつは、俺に別に興味なんかないんだ。早く帰ってきてほしいとも思ってないだろうよ」

律子は黙っている。赤信号で車が停まる。


佐伯が律子を見つめる。そっと髪に触れる。窓の外には涼しげな風が吹いている。いつの間に季節は秋になりつつあった。今年の夏は、本当にあっという間だった。佐伯からの連絡を毎日待って、楽しみに待って過ごしたのだ。海に行くわけでもない。白昼堂々手をつないで歩くわけでもない。ただ時々、こうやって夜にこっそりあうだけだ。


2か月ほどあった大学の夏休みももうすぐ終わる。学校に行く日が増える分、佐伯と時間を合わせるのも難しくなるだろうか。3年の秋から少しづつ就職活動を始めなければという時期でもあった。でも、律子は思考を止める。考えても仕方がないことは1度投げるのが、毎日を平和に、楽しく過ごすコツなのだ。いまは、この瞬間を、できるだけ覚えて体に刻み込ませよう。今は、ただ。


東京の街、眠らない街を、佐伯の車は走っていく。


「ちゃんとしたホテルに泊まるんだね」

2回目に泊まった時に律子が聞いたのだ。奥さんが家にいる日なので佐伯の自宅に行くことはできなかったからだ。

「ラブホテルの方が安いのに」

「俺を何だと思ってるんだ。学生じゃないんだぞ。」

慣れた感じで支払いを済ませながら佐伯は言う。

「その辺の大学生男子と一緒にすんなよ。こういうところに泊まるぐらいのカネはある。まあ、ファミレス店長なんてたかが知れてるけどな」


律子は、今までに3人の男と付き合った経験があった。2人は、地元にいた高校時代。1人は、大2年のころから付き合っていた、同じサークルの男子。佐伯とこのような関係になる半年前に別れていた。

最初の2人なんてほとんど見よう見真似のお遊びみたいなものだったな、と思う。つまりは大した恋愛経験もないに等しい。

あまり女らしさがない律子なので、女性扱いをされたり、他の子とは違う扱いをされるだけで舞い上がっていたものだが。だんたんと二人の関係が落ち着き慣れてくるころには相手の行動をどこか、子供っぽく青臭く感じてしまうことがあるのだ。


佐伯が、タバコに火をつける。

「まさか、バイトの女子大生に手を出してるなんてね。」

律子は、佐伯の困る顔を見たくてこんな冗談をたびたび吹っ掛けてしまう。案の定、佐伯は眉をひそめている。

「まあ、俺は見ての通りクズですけど」

ふう、と、タバコの煙を吐き出す。

「お前は、自分を貶めるようなことはいわなくていい」

タバコの火を消した佐伯は、ベットの端に座る律子の隣に座る。

「お前が女子大生だから、バイトだから、そういう理由じゃないんだ。」

律子は、しっかりと自分の芯をもっている、弱音を吐かず、凛として立っている。それがいじらしく魅力的に見えるのだと、佐伯はそう言ってくれる。


佐伯が、律子の手に自分の手を重ねる。それが合図だ。律子は、黙って佐伯に抱きつく。佐伯は律子を離した後に首筋に口をつける。律子はあまり、大げさに声を出したりしない。わざと我慢することもある。その方が、佐伯が喜ぶのを知っているのだ。


0時を回った真夜中。二人の呼吸だけが聞こえる。街の明かりが見えるホテルの一室で、二人は抱き合う。二人だけの秘密。陳腐だがキラキラした瞬間を、閉じ込める。

「律子、エントリーシート書けた?」

10月の半ば、律子は友人の花と学食にいた。3年の10月ごろから、ちらほらと就職活動を始める雰囲気にあり、二人も学校で行われる就職セミナーに参加していた。

「自分の長所とか短所とか、文字にするのが難しいよね」

「律子はたくさん書くことあるじゃない。サークルとか、バイトだってずっと同じところで続けてるし」

「ファミレスのバイトなんて、何年やったって別に自慢にならないよ」

もちろん、バイト先にそのまま就職と言う道を選ぶ学生も少なくはない。しかし、律子はそのつもりは全くなかった、アルバイトという立場だからこそ楽しいのだ。ただ単純な作業を続けるから良いのだ。自分の就職先にするかと言ったらそれはちょっと違うな、と。


「不倫の方は、いつやめんの」

思わぬ一言に律子は冷や汗をかく

「ちょっと、ここでその話やめて」

二人とも小声で、前かがみになる

「だって、就活ちゃんとやらなきゃ、っていう割に、何の未来もない不倫はやめないの、矛盾してない?」

真理ではあるが、なぜ空気を読まずに今言うのか。たぶん花は律子を試しているのだ。

「別に今だけだって割り切ってるし、遊びだし。ほっといてよ」

律子はイラついてた。そういわれると分かっていて花は敢えて忠告してくれているのだ。ありがたいことだと頭では分かっているが今は素直にそう思えない。


花だって別に、律子に不倫をやめて就活に本腰をいれてほしいなんて本気で考えていたわけではない。律子なら自分で何とか決着をつけるだろう。律子に何があったって、自分は味方でいるつもりだ。なんなら、本当に男性に対してだらしがないのは花自身の方なのだ。


なぜ、あの人なのか。それが花には分からない。


1度佐伯の姿を見たことがあった。律子が花と夕飯を食べている時にメールがあり、こっそり、これから会うことになったと打ち明けてくれたのだ。車の窓越しに、佐伯の顔を見た。


なんだ、普通のおじさんじゃない。花はそう思った。もっと、すごくかっこいいとか、歳よりも大分若く見えるような人を想像していた。たしかに、平均よりはイケメンであるのは分かるが、別に年相応の35歳ではないか。


「徹がね。」


そういって佐伯のことをまるで彼氏のように話す律子はまるで少女のような眼をしている。律子は本来、優しくて冷静な子だ。サークル内でトラブルがあっても、いつだって先に立って解決しようと頑張っていたのは律子だった。その子が、なぜ佐伯のことになると制御が効かないのか。自覚があるのかどうかわからないが、律子は友人と飲んでいてもサークル室にいてもいつもスマホを気にするようになった。いつも佐伯からの連絡を待っている。


律子は、いろんな問題を一人で抱えてしまう節があるのは知っていた。しなくてもいい苦労をしてしまう性なのだろう。だからこそ、幸せになってほしい。だから佐伯のことなどさっさと抜け出してほしい、そう思うのであった。

「Happy Halloween #バイト仲間と」

そんなタグをつけてアップされる写真。今日は律子らが働くファミレスはメンテナンスのため休みだった。普段時間を合わせて集まることが難しいため、若いメンバーだけで集まってテーマパークに遊びに来たのだった。ハロウィン前と言うことで園内や仮装で練り歩く人や被り物をした人も多く、にぎわっている

「次どうする?」

このテーマパークに詳しい二人が率先してコースを決めていく。律子はその場を楽しみながらも付いていくだけだ。

「井川さん」

いつの間にか樹が隣に立っていた。

「わ、びっくりした。」

「そんな。お化けみたいに言わないでくださいよ。」

樹がふくれる。

「なに?」

「いや、なんかぼんやり歩いてるから。今日はおしゃれしてるんですね」

そう言われて、律子は自分の服を確認した。おしゃれと言われたら気恥ずかしいが、いつもの学校帰りや家とバイト先の行き来だけの日の服とは多少変化はあると思う。


「何を偉そうに。そっちの方がよっぽど新鮮だわ」

樹はジーパンにTシャツ、上にパーカーというラフな格好をしている。髪もセットしているようだ。彼なりにも気合を入れたに違いない。

「俺はそりゃあ、大体制服だから」

「おーい、そこの二人、ラブラブしてんなよ。次ここ並ぶよ」

先頭の子が声をかける。ラブラブ、か。不思議と嫌な気もしなかった。樹とは確かに仲が良い。律子の方が5歳年上ではあるが二人で仲良く話していたらそんな風に見えなくもないかもしれない。


徹とはこんな昼間に堂々と、テーマパークに来ることはないだろうなあ、ぼんやり考える。かといって、来たいのか、二人で手をつないで、こんなところに。分からない、イメージさえもわかない。


なんだか、徹のことばかり考えてしまう。そんなことはあまりないのに。今日は店が休みだからだろうか。

「ごめんねぇ、りっちゃん」

パートの赤川典子が大げさな挙動で手を合わせる。謝りながらも着々と帰宅の準備を始めてしまう。外は11月に入り大分冷え込むようになり、冬用のコートやマフラーなども身に着けている。


「大丈夫ですよ。お子さん、お大事に」

典子は、主に昼勤で入っているパートであるが、普段から何かと理由をつけて休んだり早退することが多かった。義理の親が急に上京してくることになったと言って帰っていったものの、近くのレストランでほかのおばさんたちと談笑していた、というような目撃情報はたびたびあった。そういう手を使う人がいると一方で割を食うのは、頼まれごとをすると断れない人であり、律子もその一人である。


典子は自分がまかされている雑用を、うまいこと言って他の人に押し付けることもよくあるのを知っている。なので律子も信用はあまりしていない。しかし別に残業した分は自給が出るので断る理由も特になく引き受けているだけだ。

「じゃ、また」

典子はさっさと休憩室を出て行ってしまった。律子が発注の書類を書いていると樹が入ってきた。

「いま、赤川さん帰ったけど?早くない?」

「ああ、お子さんが熱出したって、早退になった」

「あのばばぁ、また井川さんに仕事押し付けてんの?」

樹もコートとマフラーを脱いでハンガーにかけている。

「ばばぁはやめなよ。別に、発注は嫌いじゃないからいいんだよ」

「そういうこと言ってると、自分ばっかり仕事増えるよ」

樹がユニフォームをもって着替えの個室に入る。個室の中から話を続ける。


「店長、何であいつのことやめさせないんだろ。俺だったらとっくに首切るね」

律子は返さない。

「井川さんに、負担かかりすぎなの分かってるはずなのに何も言わないし」

「店長、気づいてるのかなぁ」

わざと冗談ぽく答える

「俺、店長苦手なんだよね。向こうも俺のこと好きじゃないだろうし。生意気だからなぁ」

樹がそんな風に店長を思っているなんて、意外だった。

「俺、土日は昼に入る日もあるから分かるんだけど、あの人、昼と夜だとなんか違うんだよ。裏表あるよ」

「例えば?」

「知ってる?5月?だったかに子供が生まれるって、昼のパートさん達に自慢しまくってんの」

樹が更衣室の中にいてくれてよかった、と思った。ボールペンを落としそうになった。

「なのに夜はその話全くしないんだよ。なんでだろうね」

「私FAX送ってくるね」

半ば話を遮るような形で休憩室を出た。鼓動が止まらない。泣きだしそうになるが、我慢しなくてはいけない。そもそも不倫じゃないか。いつ関係が終わっても後悔しない、そう言い聞かせてやってきたじゃないか。


今日もこの後佐伯は夜勤でやってくる。何も考えない、聞かなかったことにする。泣くのは、一人の時だ。そう言い聞かせて。さまざまな思いを押し殺すように、作業の手を動かし始めた

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