しっかり者の女子大生、律子の秘密~バイト先の店長との言えない関係~
小峰綾子
きっかけは、偶然だった
きっかけは偶然だった。
だったと思う。もしかしたらその前から互いに何か意識していたことがあったのかもしれない。でも、今となっては分からない。こうなったのは、結果でしかないのだから。
桜が散り始めたころの4月。まだ少し肌寒い季節だった。律子はいつも通り、バイト先を後にして一人暮らしの自分の家に向かって歩いていた。ふと路肩に停まった車が目に入った。
運転席に良く見知った顔があるのに気が付く。今までに見たこともない表情をしているのでつい気になってしまった。店長の佐伯。いつもの彼よりも何歳か老け込んでやつれているように見えた。いつも店で声をかけられる時の表情とは違う。疲れているのだろうか。
律子がじっと見ているのに彼も気が付き、窓を開ける。
「井川さん、今帰り?」
律子は、自分が不自然なほどに見つめていたかもしれないことに気づいた。慌てて
「はい。23時上がりなので。」
と答える。佐伯は、律子より1時間ほど前に店を後にしていたはずだった。帰宅せずにこんなところで何をしていたのだろう。
少し間があった。あの時佐伯は何を思ったのか、律子は聞いたことが無かった。彼は言った。
「乗る?」
佐伯は助手席の方に目配せする。乗ったら、何かが始まってしまう。そんな予感があった。断ることもできたはずだ。でも律子は車に乗ったのだ。
「はい」
律子が助手席側にまわると同時に、佐伯が身を乗り出してドアを開ける。助手席に滑り込む律子。
助手席に滑り込むことが、そしてそのままバーに行くこと、あるいは、ホテルに行くことが当たり前になるなんて、自分がそんな、ありがちな不倫のストーリーをなぞることになるなんて、律子はあの瞬間までは思いもしなかった。
人生は、本当に何があるか分からない。今まで特に道を外したこともなく後ろめたいこともなく、それなりに、まじめに生きていたのだから。それが今や…。
この関係になんと名前を付ければよいのか、この状態は何なのか。恋をしていると言えるのか、恋愛中と言って良いのか、そんな風に考えることがある。
店長とアルバイト店員という関係の二人。でもそんなことは別に大した問題ではない。店長なんて一定期間おきに転勤になるのが常だし、バイトである律子もなんだかんだ理由をつけて辞めることはできる。しかし、問題はそこではない。佐伯は既婚者なのだ。
大人って、もう少し大人だと思っていた。13歳も年上であれば、それは大きな差だと思っていた。でも、抱き合ってしまえば歳の差なんて関係なくただの男女。二人でいるときの佐伯はまるで背伸びをしているだけの、自分とはあまり変わらない歳の男のようだった。
全国チェーンのファミレス。佐伯は店長、律子は大学生のアルバイトだった。律子が佐伯と関係をもちながらも熱心にシフトに入っていたのは、佐伯に会いたいからでも気に入られようとしていたわけでもない。佐伯とこうなる前から変わらずに、接客の仕事が好きだったからだ。
着替えて、タイムカードを切る、今日の人員を確認して、引継ぎを受け、フロアに出る。客の出入りの状況を見極めながら、キッチンへの申し送り、後輩の動きも確認する。
水を出す、オーダーを取る、料理を運ぶ、お皿を下げる、毎日がその繰り返し。しかし、律子はその時間が好きだった。どういった手順で進めていくのが効率的か、頭を動かしながらも手を休めない。忙しい日であっても、うまく回せたら嬉しい。学生アルバイトでありながらシフトをたくさん入れてまじめによく働く律子は、自然と任される仕事も増えていった。
「14番テーブル3名様」
高校生アルバイトの夏目が、そう言いながらバックヤードに入ってきた。
「あと空きテーブルは?」
「5と7だけですね」
律子が準備した水を夏目が運ぶ。直後、キッチンに顔を出し、
「このあとちょっと入れ替わりでバタバタするかもです」
と伝えておく。これから、ディナータイムのピークが始まろうとしていた。
なんだかんだと、ピーク時間も無事に過ぎ去り落ち着いたころ、スタッフが交代で休憩に入る時間帯になった。キッチンのアルバイト、樹が賄いをもって休憩室に向かう。
「井川さんお疲れ」
律子に声をかける。
「あ、樹、私も休憩行くところ」
「今日のピークもちょっとやばかったね」
「まあね。でも樹がいるなら余裕でしょ」
樹は、律子がかわいがっている高校生のアルバイト、律子の弟と同じ年の17歳、高校2年生だ。なんとなく兄弟のような関係で気安く話ができる関係だった。
休憩室で二人が話しているところに佐伯が入ってきた。
☆
「おはようございます」
樹が声をかける。律子も顔は佐伯ではなく樹の方に向けながら
「お疲れ様です」
と発する。
一瞬の間がある。佐伯の視線を感じて振り返る。目が合ったほんの一瞬。さまざまな感情を自分の中に垣間見る。なのに佐伯は目の色一つ変えずいつも通り、店長の顔をしている。そこはさすが大人の態度だな、と思う。樹は全く気ににせず賄いのハンバーグをがつがつ食べている。
佐伯は今日、夜から朝までのシフトだ。今日は仕事終わりに会えないんだなぁ、そんなことを考えていた。
「井川さーん、俺さ、来週からテストなんだ。数学また教えてよ」
無邪気に樹が言う。
「何それ、ちゃんと授業聞いてんの?」
「授業はまじめに受けてるよ。でも一回じゃ分かんねぇって」
樹とはいつもの、兄弟のような会話をしている。一方で意識は、店長室にいる佐伯の方に向いている。なんとなく樹に申し訳ない気持ちになる。私は、あんたが思ってるような先輩じゃないんだよ。ごめんね。
☆
あの日、初めて佐伯の車に乗った日。
「明日は早いの?」
「いえ、明日午後から授業なんで、早くはないです」
「そうか」
そう言って黙った佐伯。年上の男性の車に乗るなんて経験もなかったので、どこか落ち着かない。でも一方で、ずっとこうしていたいような複雑な気持ちでいた。
「ちょっと付き合わない?俺は運転だからアルコールはダメだけど、井川さんは飲める方?」
「はい、お酒は好きだし、強いほうだと思います」
「そうか、じゃあ、決まり」
連れていかれたのは、大衆居酒屋だった。さすがに最初から個人経営の小さなバーのような店に連れて行くのには抵抗があったのだろう。
佐伯はコーラ、律子はカシスオレンジ。ほかに枝豆とポテトフライときゅうりの漬物、と簡単なものをオーダーした。
佐伯は煙草をふかす。
「悪いね。付き合ってもらって。今日は帰っても誰いないから、どこかで適当に食って帰ろうかと思ってたところなんだ。」
言い訳ともとれることを佐伯は言う。律子はさっき見た佐伯の表情が気になっていた。
「店長、なんか、疲れてませんか。」
「そう?」
「そんな風に見えたので」
佐伯の顔を意識して見たことなんかなかった。生活も不規則で忙しいためか、やっぱり少しやつれているように見える。それとも、佐伯の年齢の35歳の年相応だとこんなものなのか。でも、元気いっぱいで肌ツヤのいい同世代の男子たちよりも、そのつかれた表情が色気を醸し出しているようにも見えた。
「まあ、疲れてると言えば疲れてるかもな」
「店長は忙しいですもんね」
佐伯は煙草をかき消す。
「仕事は別にいつも通りだけど。どっちかと言えば家庭かもな」
「何かあったんですか?」
そういえば今日は家に帰っても誰もいないとさっき言っていた。つまり奥さんは今日はいないという事だ。
「ちょっとした喧嘩みたいな、言い争いでね。でもよくあるんだよ、そんなこと。」
その、ちょっとした言い争いでも佐伯の方は次の日になったら水に流して、普通に過ごそうと思ったのだが、急に奥さんは実家に帰ってしまったらしい。
「まあ2時間ぐらいのところなんだけどね。良く帰るんだ。好きなんだな、自分の実家とか、親が」
声色で、佐伯がそのことをあまり面白く思っていないことが分かる。
ただ急にいなくなるのではなく、不満があるならちゃんと言ってほしい、そうなんども言ってきた。でも奥さんに言わせると、別に言いたいことはないのだそうだ。ただ、気持ちを整理したいから、ちょっと距離を置くだけだと。
聞けば聞くほどに、奥さんは「女」なんだなと思った。悪いが、そういう子は周りにもたくさんいる。律子とは違う人種。
佐伯はやっぱり疲れていたんだろう。店以外で話をしたのが初めての律子に、こんなにも自分の話をしているのだから。
「遅くなっちゃったな。」
いつのまにか深夜2時を回っている。24時間営業の居酒屋でもこの時間は人がまばらだ。
佐伯は腕時計を見ながら何か考えているようだ。
「うちに来るか?」
ふと口をついて出た言葉のようだったが、律子は一瞬佐伯が何を言っているのか理解できなかった。佐伯は、その間を、律子が警戒しているととったたようだ。
「嘘嘘。聞かなかったことに」
「いいですよ。」
「…。」
「泊まってみたいです。店長のおうち」
☆
シャワーを借りながらまだふわふわとしているのは酔っているせいだろうか。いや、それだけではない。こんなこと、自分の人生で起こると思っていなかった。
奥さんが実家に帰っていて居ないと言ったうえで、泊まりに来るかと。もっと遡れば、明日朝早いのかと聞かれたのだった。
それが何を意味するのか、そんなことも分からないほど野暮ではない。でも、どうして私なんだ。もしかして、この人とんでもない悪い男なのだろうか。
その思いを見透かしていたのか、佐伯は言った。
「こんなこと、初めてだ。」
自宅に帰ってからウイスキーをひっかけた佐伯も少し酔ってきたようだ。
「井川は、しっかりしていて、でも臨機応変に動ける力もあって、そういうところがいいと思ってたよ。本当に、初めて見た時からそう思っていた。」
いつの間にか呼び捨てになっている。
「酔ってるんですか」
「うちの妻も、井川みたいに芯がしっかりしてたら良かったのにな。常に、誰かと一緒じゃないといられないんだ。自分のその時の感情で起こったり泣いたり。その後のことなんて考えない」
「私は逆に、そういう人憧れますけど。私は自分の思ったことストレートに表現するのが苦手なので」
「彼氏の前でも?」
そう。自分の欲求やダメな部分はほとんどみせないことで、いつの間にか相手の心が離れて行ってしまう。つまらないと思われてしまう。それが律子のコンプレックスでもあった。
「でも、それも井川の個性なんだから気にしなくていい。そういう女性がいいという男はこれからたくさん出会えるよ」
そんなことを言われたのは初めてだったので嬉しかったのだが、つい強がってしまう。
「いいですよ。いざとなったら一人で生きていく覚悟もありますから。」
「そんなこと言わなくていい。」
佐伯が律子の手に自分の手を載せた。それから、ゆっくりとした動作で、律子の肩に手を回す。
すごく、やわらかい、そして優しい。体から力が抜けていくのが分かった。
体が離れたと思ったら、今度はキスされた。絡み合うような、濃厚な、大人のキスだ。
そこからはもう、律子は考えるのをやめた。佐伯の腕の中は心地よく、もう、このまま身を任せよう。そう思った。
これが、初めての夜の出来事である。
誰にも言えない、でも誰かに言いたい。
「井川さん、戻る?」
樹の声で我に返る。
「そうだね。」
終わるまで、もうひと働きだ。ため息をついて、律子は立ち上がる。
余計なことを考えなくて済むから、バイトがある日は気が楽だ。そう思いながらフロアに戻っていく。
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