第143話:決別スベキ其ノ想ヒ

 喩えるなら、僕は魚で投網をすっぽり被せられたような。とても目の細かい網目にも似た、繊細な式図。

 時に命の設計図とも言われる式図を。僕の身体を隈なく覆うほどの式図を作ったのは父。


一護絶句いちごぜっく!」


 黄金の鎧みたいになるのは、紗々の金糸を使ったからだ。でもそれが、父の技を自分のものにしたようで心地いい。

 が、浸っている暇はない。一護絶句は、自然の理から自分を切り離す式術。誰にでも分かりやすく言うなら、どんな影響も受けない無敵モード。

 ただし、息を止めている間だけ。


『萌花さん! 返事をして、萌花さん!』


 霊を通して、彼女の名を呼んだ。蜜柑の皮を剥くみたいに、新苗の樹皮をめくりながら。僕が剥いだところは、修復される様子がない。

 てっきり一番太い部分に居ると思ったのに、中心近くまでめくっても姿がなかった。


『萌花さん!』

『……誰だが?』

『僕です、遠江久遠です!』


 返事があった。既に手遅れかと思ったのは、杞憂で良かった。


『もういいんです。萌花さんが無理をしなくても、伽藍堂は倒せます。帰りましょう』

『――はて。おら、なにしでだがな』

『萌花さん?』


 彼女の声は、僕が伸ばした霊のほんの先のほうで僅かに繋がっているだけだった。糸電話の糸を闇雲に投げていたら運良く繋がった、みたいに。

 その細い繋がりでは、萌花さんの様子はほとんど分からない。けれども意識がぼんやりして、僕のこともおそらく分かっていない。


『おら、こごに根を下ろすんだ。したら立派な山桜になれっがら、花さ咲いだら見でほじいべ』

『根を――ダメです、そんなの。まだ早すぎますよ! 僕と一緒に、纏式士をやるんでしょう!』

『てん、しきし……?』


 トクン。と脈打つ、小さな波があった。小さすぎて、僕から彼女へなのか彼女から僕へだったのかもはっきりしない。


『そうです。覚えてますか、あなたはまだ纏占隊の隊舎にさえ入ってない。任命の辞令だって受け取ってないんですよ』

『てんせんたい……』

『心那さんから受けた依頼も、自分で報告しましょう。完了しましたって』


 鼓動が速くなっていく。のろまな点滴のようだったのが、雪解けの渓流に。さらさらと流れる霊の波動が、鮮明になった萌花さんの意を僕と繋げた。


『久遠さん。久遠さんだな? そうが、おらまた役に立でながっだな』

『そんなことはないです。萌花さんが伽藍堂を弱らせてくれたから。そうでなかったら、荒増さんはもう死んでいたと思います』

『それなら良がっだべ』


 顔が見えていれば、綻ぶような笑顔なのだろう。弾んだ声が、素直な喜びを伝える。


『おらな。ちっと早えがなとは思っだけど、愛でて愛でられたがなって思っだんだ』

『お母さんの言葉ですね。周りの人を大切にしろってことなら、そうかもしれませんが……』

『だがらな、こごで花っこ咲がせるのもいいなっで』


 樹人である萌花さんの一生は、人の姿と樹木の姿と二回ある。

 人のうちに大切な相手と交流して、その人たちを見守れる場所に根を下ろすのが理想なのだろう。

 彼女にとって、人の姿でなくなるのは死を意味しない。普通の人間である僕たちからすれば、どんなものなのだろう。成人するとか、そういうことだろうか。


『この爺さまさ、すったげ強ぐで。おらが木っこさなるのに、宿り木になっでもらうべ』

『報告はしないんですか』

『間に合わねぇべ。おらの身体さ、もう動かねんだ』


 間に合わない?

 悲しんだ様子もなく萌花さんは言った。特に感情を殺したというのでもなく、今日は曇っているくらいの言いかたで。

 それが事実なのだと思う。彼女は樹人で、僕は人間で。樹人独特の感覚は、僕には分からない。

 だから、それでいい。

 ……のか?

 このまま伽藍堂を倒しても、それは萌花さんを犠牲にしてのことだ。もしかするとその必要もなかったのではと、僕は悔やまないか。

 そんなことはない。彼女は伽藍堂を倒す功労者だ。樹人初の纏式士として、素晴らしい功績と言われるに違いない。


『そんなこと。どうでもいい』

『な、なした?』


 なにが樹人だ。なにが人間だ。萌花さんも僕も生きている。意を持って、霊を抱えた命だ。

 木になったって、それは変わらない。でも僕の意は。僕はまだまだ、萌花さんと話したいことがたくさんある。


『萌花さん。僕はここから、あなたを連れ出す!』

『く、久遠さん!?』

『うぅぅあああぁぁ!』


 萌花さんと繋がった霊の糸。きっとそれは、意の繋がりだ。僕はそれを握って、萌花さんを引く。大きな蕪を抜くように。

 ここぞというとき、こんな乱暴な手段をとるとは。どうも直近の師匠が良くない。


『萌花さん!』

『久遠さん!』


 それがどこだったのか。萌花さんは以前の姿のまま居た。纏わりつく新苗の霊を引き千切り、僕は名を呼んで彼女を両腕に抱きしめる。

 驚いてまん丸な目の萌花さんも、僕の名を呼んでくれた。それでもう、十分だった。帰りましょうとか、そんな言葉は要らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る