第74話:其ハ心ト心ノ勝負也

 元は何色だったのか、煮詰めたワインのような黒。灰の手覆いが力みなく柄を握って、自然体に切っ先が前を向いた。

 濃紅の革足袋が、しっかりと編まれた草鞋を踏みしめる。甲冑分を差し引くと、体格は僕よりも少し大きいというくらい。黒塗りの仮面の下に、どんな表情をしているのかは、纏式士の僕にも見えなかった。


「お相手は、僕がしよう!」


 四神さんがそう言う前に、絶冬は自分を盾にしようと前に進み出ていた。しかし甲冑は、絶冬にちらりと顔を向けたあと、無視を決め込んだ。

 だが四神さんならば、相手に不足はないらしい。セリフを終える前には、もう間合いを詰めて腕を伸ばしての突きが襲う。


「二人とも、一旦退って!」


 実体のない刃が、四神さんの鼻先に僅か届かない。僕たちに指示を与えながらも、真後ろに飛び退いていたからだ。

 甲冑は二度、足を運んで間合いを詰める。同時に伸びていた腕を縮めつつ、外へ弧を描いて四神さんの足元を刈ろうとした。

 四神さんが常人であれば。例えば代わりに僕であれば、それは電光石火の二連撃であって、避けることは叶わなかっただろう。

 けれど弧を描いた分、小数点以下の単位で時間のロスがあった。その隙を、四神さんの小太刀は逃さない。

 右の刃が甲冑の刀を抑え込み、逆方向に身体を開いて、左の刃が甲冑の左腕を狙う。


「回り込んで!」


 また四神さんの指示があった。甲冑が前に出たから、戸の前も空いたのだ。

 だが僕と萌花さんが一歩を踏み出したと同時に、甲冑よりは軽装ながらも篭手と刀を佩いた男たちが戸の向こうから現れる。


「一騎打ちなればこそ、作法は無用か。て言っでるべ!」

「耳が痛いね」


 甲冑は誇りある武将として、戸の守りを四神さんとの戦いに賭けているようだ。


「あいにく僕は、小狡い人間でね。あなたのように潔くは、ないかもしれないよ」


 互いに先んじようとした二人の刃は、交差して押し合いになっていた。

 柄を両手で握った甲冑。右手を左の手首で押し込む四神さん。見た目には互角で、どちらかが有利に押し切ることは難しそうだ。

 その事実はともかく、結果はそのとおり二人ともが弾くことを諦めて半歩退いた。

 その次の瞬間。

 退いたと見せたのは、フェイントであったらしい四神さんが前に出る。左の刃を真横に払って、下げられた甲冑の刀が起こされるのを牽制する。

 もちろん甲冑はもう半歩でも退がるか、少なくとも体を躱さなければ、次の動きが取れない。ただ黙って小太刀が通り過ぎるのを待つなどと、そんな下策を採りはしない。


「なにっ⁉」


 驚きの声を上げたのは、四神さん。甲冑は退がることも躱すこともせず、柄を引き寄せて小太刀を受け止めた。

 しかもそれでは脇が縮まってしまう不利をカバーするために、右の横蹴りを放つ。


「ぐっ!」


 予想外ではなかった筈だ。刀を使うのに、手や脚を組み合わせる人など数え切れない。

 もちろん今のタイミングで失敗すれば、甲冑の首が落とされていただろう。強いて意外と言えば、そこを押して実行したことだ。


「四神さん!」

「あ、ああ――大丈夫、大丈夫」


 それなら四神さんは、なにに驚いたのか。その答えはすぐには分からなかったけれど、二人が息を整える間に判明した。


「四神さん、血が……」

「ん。仮に塞いではいたんだけど、開いちゃったね」

「もしかして、国分さんに?」


 答えはなかった。

 ジャケットの下に着たシャツが真っ赤に染まって、四神さんの左手はその辺りを軽く撫でる。

 指先に付いた血で程度を測ったのか、四神さんは何事もなかったように構え直した。


「――おや。どうにも見上げた人のようだね」


 甲冑は、最初の自然体に戻って動かない。萌花さんに目を向けても、首を横に振るばかりだ。

 察するに、自分との戦いによる傷ではないのだから、しっかりと塞いでおけ。その時間くらいは与える、とか。そんなことを言っているように見えた。

 四神さんも同じように感じたらしく、「どうも参るね」などと恥じらいながら、萌花さんの投げたタオルで腹を縛り付けた。


「ここまでお気遣いいただいたからには、どんな卑怯な手を使ってでも、あなたに勝たなくてはね」


 その言い分は、相手でない僕でさえ「どうしてそうなる」と突っ込みたくなるものだった。

 当の甲冑も、なにを言っているんだ? という風に動きを一瞬止めて、そのあと身体を大きく揺すった。


「笑ってる?」

「笑っでるべ」


 ひとしきり。気が済んだのか、甲冑は悠然と構え直した。対して四神さんは、これまでと違う構えを取る。

 左を前に、右の刃は自身の顔の真横に。


「嵐夏。剣閃けんせん


 初めて聞く式言。四神さんの右手の小太刀にほんの一瞬、嵐夏の着物の裾が舞った。すると刃はほんのりと黄金の光を放ち始めて、薄く笑った四神さんの顔を浮かび上がらせる。

 細く切れ長の、それ自体が獲物を突き通す刃物のような目。

 それが一層、細く満足そうに笑みを湛えた。


「いざ」


 四神さんの声で、甲冑は構えを変えた。柄を両手で握り、大上段に。一歩の間合いを詰めつつ、唐竹に割る構え。


「勝負!」


 甲冑の詰め足は、これまでよりさらに速かった。まっすぐ、ひとすじの糸のような剣筋は、ひたすらに四神さんの脳天を目指す。

 払う意図は、なかったのだと思う。

 四神さんの左手に握られた小太刀が、ほんの少し切っ先を上に向けられた。それに甲冑の刀がかかった、それがスイッチのように四神さんは動く。


「え……えぇ?」


 いや正確には、動いたと思った。でも見えなかった。気付いたときには四神さんが姿勢を変えず、甲冑の背後に居た。

 なにをしたのか。僕の耳にはゴゴと重い雷轟が残って、視界にぼんやり強烈な光の跡が残っただけだ。


「これほどの強者ならば、致し方ない……」


 萌花さんが教えてくれなくとも、その言葉だけは聞こえた気がした。

 だって甲冑はさっきと同じように、今度は刀を納めながら笑っていた。そのまますうっと、その生き様と同じく潔く消えた。


「剣の専門家に勝つなんて。四神さん、無茶をしないでください」

「僕は纏式士だからね。嵐夏と二人がかりで勝ったんだよ。全く卑怯極まりないよ」


 そう嘯きながらも、四神さんはクスっと笑う。

 それが酷く冷たく見えたのは、四神さんの疲労のせいだっただろうか。それとも僕など足元にも及ばない、実力に慄いてしまったからか。


「では、ここに誰が居るのやら。ご対面といこうかな」


 これも潔さと言うのか、四神さんはあっさり切り替えて戸を開けた。

 気持ちの上ではむしろ僕のほうが「えっ、もう?」と思ったくらいにすぐ。

 しかしたしかに、甲冑は恩人がここに居ると言ったらしい。それが気にならない筈もなく、唹迩たちの姿を消した廊下を進んだ。


「やあ、これは四神さん。性懲りもなく、うろうろしているんですか。それに遠江さんも? 命は大切にしたほうが良いかと思いますが」


 進んだ先に、その何者は居た。聞いたとおり、一枚敷かれた畳に座っていた。クーデターの首謀者、仙石さんがたった一人で。

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