第45話:限界ヲ忘ルル粗忽者
辺りに山桜の姿はなかった。あったとしても、その花びらがきらきらと自ら色を放つことなど普通はない。
「桜の丘――」
囁くほどの声が、不思議と耳元で聞こえた。もちろん僕の隣には誰も居ない。数歩先に、粗忽さんが居るだけだ。
花びらはそれほど多くない。でも見える範囲全てに満遍なくあるのだから、数えれば相当の枚数になるのか。
ゆっくりと降り積もる雪のように、花びらは絶え間なく降る。その中を、あの萌花さんの笛の音が聞こえる。
前に聞いたのとは、また違うメロディー。一小節か二小節くらいの同じ流れが、何度も、何度も、何度も、何度も。繰り返される度に半音上がって、どこかで一周するとまた低音から。けれど最初の音が、一音ずつ上がっていった。
僕の目には、桜の景色が見えていた。それは現でない。でもたしかに見える。小さな蕾が、一つずつ。硬い皮を柔らかく変えて花開く。一つの花が集まって、一つの木に。一つの木が集まって、満開の森に。それが飛鳥の街を、川を、山を、丘を暖かく覆っていく。
花の香が胸いっぱいに詰め込まれて、なんだか頬が楽になる。いつの間にか、険しく引き攣らせていたのだと、そこで気付いた。
いつでも放てるように、番えられていた粗忽さんの矢。それも腰の矢筒に戻される。この人も荒々しかった形相が、いつもの顔に戻ったと思う。それでも凛々しい顔立ちなのは、生来のものだろう。
「う、うう……」
荒増さんに倒された七人が、利き手の痛みを堪えながら立ち上がった。彼らは切られたわけでも、式に貫かれたわけでもない。
荒増さんがよく使う、
この世に未練を残し、害意を振り撒いた唹迩のそのまた残り滓。趣味の悪い蒐集者が、言ってみればエネルギーだけのそれを廃品利用の形で。
字の如く、人の手の姿のそれは、一つ二つではどうということもない。数多集まり、目星を付けた相手を引っ張って、身動きを取れなくする。彼らにはそれが、数え切れないほどに集っていた。
識外装備も与えられる彼らに、それは初めて目にする光景ではないはずだ。しかし飴玉を蔽う蟻みたいな量は、百戦錬磨の衛士にも強烈な心象を与えたことだろう。
「この期に及んで、なお争うことも出来んな……」
きっとあちらの、小隊長かなにかだ。リーダーらしい人が妙に清々しい表情で言って、部下に武装解除を命じた。
いつの間にか、桜の舞いは止んでいた。景色もまた、焼け跡と抉られた土へと戻る。
「しかし手際だけを考えても、怖ろしいものだ。大量の唹迩もそうだが、全員の親指だけを折るとは」
痛みに僅か、顔を顰めて。小隊長さんは荒増さんを賛美した。各所での狼藉は有名でも、顔は知らない可能性が高いけども。
言われた当人は、ちらと視線を向けて鼻息をふんと鳴らしただけだった。興味なさげにすぐに戻って、下りてこいと山頂方向へ合図を送る。
「奴を褒める必要などない。貶したほうが、闘争心で張り切るタイプだ」
「左様で……しかし少尉、さすがの体力です。支部長が代わられてから、塞護の訓練は相当の厳しさと聞いていましたが、いやはや」
「そうか? たしかに基本メニューより割り増しではやらせているが、それほどだったかな」
古い落ち葉の上に新しい落ち葉の積もった足場を、身体能力を最大限に発揮して縦横無尽に走り回った粗忽さん。かたやそれを、焼き殺そうと図った小隊長。
数分前の出来事は、夢でも見ていたかと思うほど和やかな空気。
「しかし頭上に居た三人は厳しかった。一度でも避けるタイミングを外していれば、既に私は息をしていなかっただろうよ」
「そういう者たちを選んで置きましたので。しかしその彼らはどこに――」
互いの技量を高め合う訓練でやるみたいに、感想戦の様相となってきた。それを僕も、あれ? とは思うものの、それほどの違和感を覚えない。
だからみんなが高台を眺めるのにも、「どこですかね」などと和気藹々と探してしまう。
「千引ちゃーん」
しばらくそうしていると、低い位置のこちらからは死角になる、起伏の向こうに寝転んでいた誰かがむくりと起き上がった。
「大過、そこに居たか」
小さな子がするように、肩から大きく腕を振るのは見外さん。粗忽さんが軽く手を振り返すと、喜色満面にますます激しくなる。
「ほらみんな起きて!」
お昼寝中のお友だちを起こしてでもいるのか。すぐ近くへ横になっているらしい誰かの手を引いて、身体を起こさせる。それはちょうど、三人。探していた、頭上からの狙撃班だ。
彼らは猿ぐつわをされ、両手を後ろに縛られていた。立たされたはいいがふらふらしているところを見ると、ご丁寧にも足首まで拘束してあるのだろう。
その三人がいつの間に倒されたのかと、その手際はまあ置くとしよう。けれど見外さんは、どうやってそこに辿り着いたのか。少なくとも僕は、三人から完全に意識を外した機会などない。
だのに見外さんの霊の、片鱗さえも捉えていなかった。どう考えたっておかしい、のだけど、やはりそれ以上を追求する気持ちになれない。
「千引ちゃん、お疲れさま。随分疲れたみたいだねぇ」
「ん、ああ。言われてみればそうかもしれない。うっかり、疲れているのを無視してしまった」
そんな馬鹿な。それで無尽蔵の体力を持つような動きだった、とでも言うのか。
そうも言いたくなる会話だが、駆け下りて来た見外さんを前にした粗忽さんは、実際にその息を荒く乱し始めた。
「ふう……最近さぼり気味だったかな」
「そんなことないよぉ。千引ちゃんは、いつも頑張ってるもの」
滝のように流れ始めた幼馴染の汗を、見外さんは至上の幸福とばかり、嬉しそうに拭き取っていく。
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