第618話

「…………ふぅ」

 肉の海。屍の大地。死骸の山。

 呼び方はいくらでもあるが、どうでも良いこと。

 大事なことは、そこに一人だけ生きている者がいるということのみ。

 そう。この惨状はこの者の仕業。


 ――コロセ


「はぁ~……」


 ――ウバエ


(いつからか。喧しく囀ずる蛆が頭に湧いたのは)


 ――クラエ


(五月蝿い)


 ――クダレ


(こうべを垂れるのは我が姐、我が母にのみと決めていると言っているのに)


 ――シタガエ


(やれやれ。会話ができぬとはやはり蛆。獣以下の愚物の分際でこの煙魔神薙羅が一の娘――魄嚥桃はくえんとうを取り込もうとは片腹痛い。それに、言われずとも近いうちに一つとなるべく刃を交えよう。交えようとも……あははは! とはなんと甘美だろう)

 彼女が、手のつけられない怪物になっていったのは、干渉が酷くなってからではある。

 けれど、一度だって己が心を捨てて牙を剥いたことはない。

 愛しい神薙羅ははから与えられるモノはなんでも嬉しかった。例えそれが叱責だろうと。もらったことはないが、折檻や汚物だろうと。喜んでいただきたいと。今でもその気持ちは色褪せない。

 初めてもらったモノはなんだったか。それは――。


 白いんやね。こんな白いだけで捨てるやなんてなぁ~。ほんならうちの子になり。

 名前は……そうやね。上等な絹よりも綺麗な白、鈴の音みたいな儚い面持ち。うん。この子の名前は――。


白音しろね

 懐かしい。懐かしい幼名なまえ

 今思えば、あのときが一番幸せを感じていたかもしれない。

 でも。

(いつからか満足できなくなって。他からの愛があれば、子供ができればと男を食らってみても、子供を産んでみても煙魔様からでしか満たされない。だからもっとほしくなってしまって。自分だけを見てほしくて。姉妹を殺して。そしたら嫌われてしまって数百年会えずにあの城で虚に溺れて)

 虚しい。虚しいからこそ気の狂ったことができる。

 けど、それも終わり。

(煙魔様を殺して、食らってやる。そして、煙魔様の愛した男を味見して、満たされなければ殺す。煙魔様と一緒になったあとなら、あの方の愛した男でも満足できるかもしれない。満足できないとしても煙魔様と……母上と共にあればきっと)

 もう虚しさを覚えることはない。そんな気がする。

 神からの干渉こえの通りになってしまうのは癪でも。たまたまそうなるだけ。大事なのは自分の目的。

「――いらっしゃい。母上」

「……その呼び方。久しいなぁ。それに、うちから取った言の葉も馴染んだようでなにより」

 前よりも紫が強くでた桃色の煙と共に現れた神薙羅。

 その左手には鞘に納まったままの大太刀。左手には数本――持ってる煙管全てまとめて握り潰した残骸。

 リリンから聞いたことが正しいならば、この煙管には自らの力はそこまで入っていないだろうが、染み付いた血からは何かしら還元されるだろうと踏んだ故に壊した。染み付いた血と言うのは煙の材料である血で育った桃の木の屑のこと。そうでなくともアノンの物と聞けば二度と使いたい代物でもない。

 が、運が良いと言えば良いか。力は還元され、紫の力。それと中にあった空間移動の力が手に入った。

 大太刀も砕けば力はさらに高まるだろうが、まずは。

「勝手とはいえ、母上からいただいたから大事故。早く話したくて頑張ったの」

「ほう。ま、どうでもええわ」

 ゴミとなった煙管を捨て、大太刀を抜く動作で鞘を斬る。

 刃の方向が裂かれ、鞘としての機能を失ったそれを捨て置いてと相対する。

「ほんならはじめよか。余興から」

「抜いといて余興とは戯れにしては面白味の欠ける」

 軽口を叩きながら魄嚥桃はくえんとうも先日もらった刀に手を掛ける。

 そして鞘を斬った神薙羅に応えるように、普通に抜き、刃から柄と鍔を外して、刃が上になるように地に立てる。

「ふふふふ」

 そして、足の指で支えながら手の側面。小指を刃先につけて、そのまま下ろして親指側まで貫く。

 足の親指からも上げていき、やがて足と指と手が触れて、刀は手と一体となった。

「刃は大層良い代物だけれど、柄が粗末故斬り合いに耐えられそうもないので。この形を取らせていただきます」

「勝手にせぇ。うちはもう――白音に指図せぇへんから」

「それは残念。では代わりに何かいただけるので?」

「うん。あげるよ」

「ほう! それは如何なモノで?」

「決まっとるやろ」


 ――この手による最後の情け

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