第545話

 結局彼が帰る日まで理由をつけて通い詰めたわけなんだけれど。

 これはその最後の営み後の会話。

 体勢は彼女が仰向けの彼の上にうつ伏せって感じ。

「あ」

「ん? どしたん?」

「すごい今さらなんですが……」

「ふむふむ」

「俺、お姉さんの名前知らない……です。俺の方も名乗ってないかも」

「……あぁ!」

 ん~。今さら。ほんっとに今さら。

 でも仕方ないよね。若い男女なんだからあれこれさておいて盛りたいものさ。

 ……彼女は若くないか。見た目だけだね。

「ん~……」

 とは言うものの。名乗る名がないのが痛いところ。

 彼女の固有名詞はなく。母になったり頭になったり代名詞ばかりは増えていき。判別できればそれで良いって思ってたしね。

 けれど、今回ばかりは少し違う。愛しの彼に名前を呼ばれたい的な乙女願望もなくはない故に。

 名前がないってことも気まずさを生みそうだし、困った困った。

 ってことで。

「坊やは……なんていうの?」

「え……っと。天良寺才です。それで、その……お姉さんは?」

「どんな名前やと思う?」

「え」

 こんな感じで誤魔化すことに。

 正直私いくつに見える以上にめんどくさい質問だけれど。付き合う以外の選択肢が彼にあるわけもなく。適当に並べていくことに。

「えっと……あ~……。すみれとか? 秋穂あきほとか?」

「さ~てねぇ~」

「じゃ、じゃあ……聖佳せいかとか、陽子ようことか、りんとか?」

「ふ~ふ~ん♪」

(もしかしてこれ誤魔化されてる……?)

 と、訝しげな目を向けつつもさらにいくつか並べていって。

 これで最後と口にしたのが一番無難で。

「――カナ……とか?」

「……どんな字で?」

「えっと……菜の花を逆にした感じで……とか?」

 一番呼ばれてしっくり来てしまって。

 だから誤魔化すつもりだったんだけど彼女は。

「ふふ。あたり」

 ついそう口にしてしまった。

 その名前をこれから使うとして、身分うんぬんの手続きやら手回しやら色々と必要になってくるんだけれど。それら全てよりも彼女はふと思っちゃったんだよね。

 自分を女として見てくれる男に下の名前を呼ばれること。そういういたって普通のことをしてみたいってさ。

 だからついこんな答え方をしてしまった。

 でも。

「ふふ。最後の最後にええもんもらってまったなぁ~……」

「え? なにがっすか?」

「男の人に名前呼ばれるのはじめてで嬉しいってこと。一人前の女になった気分やわぁ」

「それを言うなら俺のほうこそ良い夢見させてもらったっていうか……一人前の男にしてもらったっていうか……。最高の思い出というか……」

 ものすご~く寛容な筆下ろしだったもんねぇ。しかも好みドストライクの見た目の女性に。

 だから未練タラタラな顔を晒してるよ。それは彼女もだけど。

「思い出……ね。明日には帰ってまうもんね」

「……はい。だからこれが最後……っすね」

「寂しくなるなぁ~。しゃあないけど」

「…………ですね」

 とはいえ年の功。一期一会として割りきってるけどね。今のところは。

 彼は気持ちの整理しようとしてるけど追い付いてないね。それくらい良い体験だったんだろうけど。

 あ~だからかな? 無意識にでも菜の花なんてのが出てきたのは。ポジティブな意味ばかりだもんね。

 本当こういうところ面白い繋がるを覚えるよ。彼女リリンの瞳を黄水晶シトリンと例えた時とさ。

 あ、ちなみに。彼女――花菜ちゃんの瞳も鳶色にしてはかなり明るくてね。黄色に近いんだよ。

 本当。面白い繋がりだと思わない?

 ふふふ。

 さて、これが意味するところとはってね。

 もう少ししたらわかるよ。たぶんね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る