5 本題に入る前に
リビングの大きな座卓には、チリ一つ落ちていない。いつもはどこか雑然としている家も、今日に限ってはきっちりと片付いていた。窓だってピカピカに磨かれているし、何年も弾いていないピアノだって黒光りしている。
かっちりとしたスーツを着た瑞生が硬い表情で座っている。
そのとなりに座るわたしといえば、実家にいるというのにきれいめのワンピースを着ている。そして、指にはこの間もらったばかりの婚約指輪がはめられている。
誰がどう切り出すのかという、妙な緊張感が漂っている。沈黙が重くて、暑くもないのにじんわりと汗が出てくる。足はしびれて、今立ち上がったら転んでしまいそうだった。
母がそっとベランダの掃出し窓を閉じる。十月の初めともなると、夕暮れ時の空気は冷たかった。
からからから、と軽い音が響き、ぴしゃんという音とともに、外と内が遮断される。
とたん瑞生の背筋がぴん、と伸びた。
「今日、お訪ねした理由については、加奈子さんからお聞きしているかもしれません。ですが、本題に入る前に聞いて欲しい話があります」
そして彼は大きく息を吸うと、
「実は、僕は加奈子さんに付き合っている人がいると知っていて、彼女に交際を申し込みました。そして、それは相手側の男性によって不貞行為と取られて、慰謝料を請求され、支払いました」
と拓己との一連の騒ぎを話し始める。
これは、瑞生からの提案だった。いずれ誰かが両親の耳に入れることがあるかもしれない。そうやって知られるより、自分たちの口で予め説明しておくべきだと。
あくまで冷静に。客観的に。一方的な話にならないように。瑞生は話す。
さすがに慰謝料という響きに驚いたのか、父も母も眉を寄せた。
わたしは心の中で怒らないで、と願いながら言葉を紡ぐ。
「その人にはプロポーズをされていたのだけど、失業したとたんに意見がかみ合わなくって、わたし、結婚しようってどうしても思えなくなって……そんなときに、瑞生さんに会ったの」
「結婚式の時、彼女が疲れ果てて、表情をなくしているのを見て、どうにかしたいと思いました。付き合っている人がいると彼女は言っていたので、最初は友達として接していたのですが……僕は、実は……高校生の時から彼女を好きだったので……」
う、うわあ。
瑞生は照れもせずに堂々としている。だけど、さすがに今のセリフは、恥ずかしい!
誠意を見せるには、避けて通れないと知っていても。
母は興味津々といった様子だが、父はどこか居心地が悪そうにしている。
「――僕は、加奈子さんをあんなふうに疲れさせるような男には、彼女をどうしても渡せないと思いました。相手の方や相手の方のご家族には申し訳なかったと思っていますが、後悔はしていません。絶対に、僕が幸せにしてみせます」
瑞生は大きく深呼吸をすると、頭を下げた。
「――加奈子さんと、結婚させてください」
武道でもやっていたのかと思うような、丁寧なおじぎだった。
それまでゆったりとあぐらをかいていた父が、正座をした。そして同じくらい丁寧に頭を下げた。
「加奈子を、よろしくお願いします」
父は静かな声で、ただそれだけを言った。だが微かに声が震えていて、見ると目のフチが赤くなっていた。
わたしは鼻の奥がつんと痛くなる。母も父の後ろで習った。
「加奈子が変わったの、わたしもそばで見ててわかったよ。東京から戻った時、あれだけ疲れ果ててた子が、夏の間にすっかり元気になって。あなたのおかげやったんやねってなんか納得したよ」
母は「よろしくお願いします」と頭を下げた後、父の背をそっと撫でる。父が涙もろいことを知っている母は、こうしてよく父を慰めている。
「一生、大事にします」
瑞生の声も父と母と同じように揺れていた。
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