4 まるで普段の夕食に
瑞生のお母さんは、小柄で細いけれど、不健康な細さではなく、シャンと背筋の伸びた姿勢の良い御婦人だった。はつらつとしていて、バイタリティにあふれているのが見た目からわかる。
「あなたが、例のお嬢さんやね」
お母さんは、玄関で挨拶を交わした後、そう言ってニッコリ笑った。
例の? と思うけれど、緊張もあって、質問は口から出せなかった。曖昧に首をかしげる。
「あんまり変わっとらんねえ。高校生のときのまんま」
「わたしのこと、ご、ご存知なんですか……?」
「卒業アルバムでねぇ」
わたしが首を傾げていると、少し不機嫌そうな瑞生が「その話はいいから」と遮った。
お母さんは楽しげに笑うと、「とにかくあがりんしゃい」とわたしを促す。
瑞生は先にわたしのうちに挨拶に来たがったけれど、どうしてもわたしの両親の都合がつかなかった。
わたしの父の仕事のシフトは独特で、土日が必ず休みとは限らないのだ。結局前々から予定していた休日しか都合がつかなかった。しかも瑞生自身もかなり忙しい時期だし、あまり煩わせたくはなかった。
もどかしく思うわたしの心を読んだかのように、順番は気にせんでいいから、先にあちらに行っておいでと声をかけてくれたのがわたしの母だった。
築五十年は経っていると思われる、瑞生の実家は、ものすごく大きな家だった。選定された垣根に囲まれた敷地は広い。家がもう二軒ほど建ちそうな庭には、手入れされた植木が賑わっている。
そして左側に納戸があって、その隣が応接間。さらに奥に居間とキッチンがあるようだった。
階段もあるから二階もあるのだろう。
間取りが完全に昔の家だが、とにかく、広い。
「なんか……豪邸だよね」
わたしがこっそり瑞生に言うと、彼は肩をすくめる。
なかなか合う時間が取れず、久しぶりに会えたのが今日だった。彼は少しだけ痩せていた。多分、仕事が相当に忙しいのだろう。夏のゴタゴタで無理をさせすぎたのかもしれないと心配になる。
彼は笑って方をすくめた。
「昔の家って、みんなこんなもんだろ。田舎でもともと土地を持ってただけ……古いから、あちこちガタが来てる。土地を分割して売ってくれっていう話も多いけど、親父が頑として譲らなくってさ」
「お父さんが?」
問うと、瑞生は少しはにかんだ。
「……孫たくさん連れて帰ってきたときに、泊まる部屋があったほうがいいだろって」
「…………ま、ご」
想像して赤くなっていると、
「そんなとこで立ち話はせんで、こっちおいで」
聞こえていたのだろうか。前を行くお母さんが苦笑いをしている。
少々焦って、わたしは孫というフレーズを頭のなかから消すと、瑞生の一歩後ろをついていった。
造りがしっかりしているのだろうか、手入れが行き届いているのか。古いはずの飴色の廊下はまったくきしまない。敷居などがないので、リフォーム済みなのだろう。
瑞生の背中が少し猫背になっているのは、天井が低いせいなのかもしれない、そんなふうに思う。
彼の身長は見た目よりも高く、178センチらしい。聞いた時、嘘、と目を丸くしたわたしに、瑞生は「そんなに見えないかな、皆そう言うんだけど」と苦笑いをした。
そういえば弟の良平さんはいい体格をしていたなあと思い出していたところで、居間らしき部屋の引き戸が開けられる。今時障子だというのだから、やっぱりお家は随分と年代物だ。けれど、大事に使ってあるのだろう。味があって素敵だと思う。
目の前の壮年男性を見て、わたしは頭にはびこっていた瑞生の身長について疑いを消した。その男性――瑞生のお父さんは、すごくがっしりとした大きな男の人だったからだ。みさちゃんの結婚式でみかけていたはずだけれど、ここまで大きい印象はなかった。
天井に梁の見える居間は板張りにリフォーム済み。中央に大きな掘りごたつが置かれていて、その上には大量の料理が並べられている。
筑前煮、フキの煮付け、ポテトサラダに、高菜の炒め物。
すべて気取らない家庭料理だが、中央に置かれていたヒラメの刺し身に、嬉しすぎてなんだか泣きたくなる。
中央にどっしりと腰掛けたお父さんは、額にくっきりとした皺が有り、いかつい顔をしていた。瑞生よりも、良平さんに雰囲気が似ている。
だが、思わず怯むわたしをみると、「ようきんさった」と目尻に皺を寄せてにっかり笑う。
そして「とにかく飲まんね、待っとったんよ」とビールの瓶を差し出した。
「ありがとうございます」
「ほらほら、固くならんと」
お母さんがにこにこと手渡してくれたグラスを差し出す。
挨拶をしなければとか、気に入られなければとか、頭の中がパンパンだったわたしだったけれど、そんなことはもう、今のやり取りですべてが許されてしまった感じがした。
そういう敷居の低さみたいなのが、わたしの父とよく似ていて、あぁ、九州の男の人だなあ……と思う。
「思ってたよりすごい部屋」
「そう?」
「パソコンがたくさん」
「まー、研究で使うから。研究室にはもっとスペックいいやつがある」
お母さんが片付けをしている間(手伝うと言ったけれど、まだお客さんやけんと意味ありげに言われて退散したのだ)、少しだけ瑞生の部屋にお邪魔していた。
彼の部屋は二階にあった。古民家風の部屋の窓側が造り付けの長いデスクになっていて、そこの上には大きなディスプレイが二台。そしてノートパソコンが一台。下にシルバーのパソコン本体が五台ズラッと並んでいる。そしてさらに足を入れる場所以外は本が所狭しと積んである。
なんというか、新旧のギャップのせいで異世界っぽいと思う。
部屋の両脇に据えられた大きな本棚にも、びっしりと専門書が並んでいた。
ふわぁ、計算科学に量子力学……難しそう。
目を白黒させていると、
「どうぞ。疲れただろ」
瑞生が椅子――くるくる回るオフィスにおいてあったりするやつだ――を勧めてくれる。そして自分はベッドの上に腰掛けた。
「ちょっとだけ」
わたしは頷くと先程の会食を思い出す。
ほんとうに普通の夕食に混ぜてもらった感じだった。堅苦しくなく、アットホームで、親戚の家に遊びに来たような。実際、みさちゃんと良平さんが結婚したから、遠い親戚ではあるのだけれど。
まだ頭がぼんやりする。
家族の一員みたいに普通に食べて、普通に飲んで。テレビを見ながら他愛のない話をした。
そして、きれいになった食卓で、自分で持ってきたおみやげのケーキを食べ、甘さに頬が緩んだときだった。
「加奈子さん」
不意打ちのようにお父さんが言ったのだ。
「こいつ、ついこん間まで根無し草みたいやったんが、急にしっかり地面に足をつけとる。加奈子さんのお陰やけん。ありがとう」
「これからも瑞生を、頼むね」
お母さんも頭を下げた。
もうこのまま終わりだと思っていたところだったから、驚いたし、だけど、きちんとけじめを付けてくれるところが、思いの外嬉しかった。
わたしははい、としか言えなかったけれど、ふたりともすごく満足そうに笑っていた。だから、すごくすごくホッとした。
ここに馴染んでいる自分を、ごく自然に想像できたのだった。
「――うまくやっていけそう?」
「うん。すごく」
夢想から我に返り、頷くと瑞生が手を差し伸べる。わたしは少しだけ部屋の外を気にしながらも、彼の隣に座ろうとして――膝の上に座らされた。
後ろからぎゅっと抱きしめられて、心臓が跳ねた。
「ちょっ、と、瑞生!」
小声でたしなめる。下にはご両親がいるっていうのに!
まだ正式に婚約もしていないし、はしたないと思われたくないです!
「うん。でも嬉しかったからちょっとだけ」
そう言うと彼はメガネを外して、有無を言わせず唇を塞いだ。
甘い感覚に思考力が奪われる。彼が唇を離したときには、わたしはベッドに押し付けられて、文句まで吸い尽くされていた。
「あー……やばい、帰したくない」
だが、その時。割りいるように階段を登る音がして、二人で焦って飛び起きた。ふすまがノックされ、お母さんが顔を出してニヤッと笑った。
そしておそらく真っ赤であろうわたしの顔を見ると「愚息でごめんねえ」と謝り、瑞生を睨んで言った。
「瑞生、遅くならんうちに加奈子さん送ってやり」
放たれた言葉はそれだけだけれど、含まれた言葉は別にある気がした。瑞生が「わかっとるって」と顔をひきつらせて背筋を伸ばしている。あー、頭が上がらないんだと急に笑いたくなる。わたしの父も祖母に対してそうだった。
九州のオカンは(わたしの母を含め)なんだかんだで強いのだ。
車での帰り道。車は混みがちな国道三号線を避けて、海沿いの道を走っていく。
地元民がよく使う抜け道だ。車通りは少なく、街灯も少ない。広い路肩が現れると、瑞生は車を停める。
黒い海の上で、映り込んだ月が静かにたゆたっている。
どうしたのだろう? とわたしが不思議に思っていると、彼は小さく息を吐いた。
そしてジャケットのポケットから小さな箱を取り出した。
「え」
わたしは目を丸くする。それは先日宝石店に行ったときにわたしが気にした指輪だったから。
「別のブランドのほうがいいかなとも思ったんだけど……これ以上のものが見つからなかった」
瑞生は少し悔しそうに言う。そしてわたしの左手を取ると、小さなダイヤの埋め込まれたエタニティリングを薬指にはめる。それはするりと収まった。もうここから離れたくない、と言っているかのよう。
「加奈子さん、結婚してください」
彼の真面目な顔を見て、初めてきちんと言われたことに気がついた。
だとしたら、わたしはきちんと返さなければならない。
「どうぞよろしくお願いいたします」
わたしは瑞生の目を見て、真剣に答えた。
すると彼はひどくホッとした様子で大きなため息を吐いた。そして車のシートにより掛かると天井を仰いだ。
「おれってダメだよなあ……お伺い立てたくせに、ちゃんと言ってないってこの間気がついた」
「それを言うならわたしだって、ダメだよ。今気がついた」
そう言うと瑞生は噴き出した。そして困ったように頭をかく。
「……このままとんずらしたいけど、だめだな。全部分かってて言ってるからなあれ」
今度はあんたの番なんやけ、細心の注意はらわんといかんよ? ――まさか、だらしない真似をして、未婚のお嬢さんの評判に傷つけるようなことはせんよね?
確かにお母さんの顔からは、そんな心の声が聞こえるようだった。
ふたりとももう大人だ。そういう関係が有ることは十分承知で、しっかりと釘を差したお母さん。わたしと瑞生の将来を考えてのアドバイスだ。
お見通しなことに苦笑いをしながらも、表向きのわたし達の関係を守ってくれたお母さんが素敵だと思った。心遣いが嬉しくて、心がほかほかだった。
その日、わたしは頬が緩んだまま、帰路についたのだった。
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