3 思い立ったが吉日
まだ暑さはそこかしこに残っているけれど、空は一気に秋めいていた。
今年の夏、瑞生は突然東から舞い戻ってきた嵐に翻弄された。様々な熱を巻き込んで、勢力を拡大して上陸した、嵐に。
瑞生は傷だらけになりながらも、なんとか手に入れた。昔からずっと欲しかったもの。ずっと忘れられなかった一人の女性――加奈子だ。
だが夏の嵐が過ぎ去れば、現実が一気に押し寄せた。
まず、職場には学生も戻っているし、その上、嵐の間に溜め込んだ仕事は膨大だった。
ポスドクには――いや研究者にはひどく忙しくなる時期がある。その主たる時期が
だが、それに加えて今、瑞生は転職活動中なのだ。
研究者といっても企業に属するもの、大学に残るもの様々だが、瑞生は後者。いわゆる助教、講師、准教授、教授という階段を登るルートである。まずは助教、もしくは講師の座を得る必要がある。
そしてそのポストにつくためには、研究論文の数……いや、数も大事だけれど質も大事で、雑誌掲載など、実績が必要なのだった。そして実績を積むためには、どうしても研究費が必要だ。
瑞生には、今、できるだけ良いポストが必要だった。加奈子と、彼女の両親を安心させるために。
結果、瑞生は電話口でうめく羽目になっていた。
「加奈子さん、ごめん、その日は――っていうか、今月は学会もあって、あんまり昼間は時間取れない」
加奈子からの電話は、デートの誘いだった。ホテルでのランチビュッフェ。ランチということは、昼間ということで、普通社会人であれば、昼間は仕事に行っているものである。
そして、瑞生の職場は郊外の大学なので、気軽に福岡市内に出ていくことができないのであった。
「そっかぁ……お仕事なら、しょうがないよね」
彼女の声が曇っている気がして、瑞生は口を開きかけた。――が、すぐにつぐむ。
(ダメだ)
彼女の両親への挨拶は、瑞生の仕事が落ち着いた頃、来月に行くことになっている。
だが、もう毎日でも会いたいから、すぐにでも二人で住み始めてしまいたいというのが本音。
瑞生は夏休みに、東京であまりにも濃厚なバカンスを過ごしてしまったため、帰ってきてからの差異に耐えられなかったのだ。家に彼女がいないという現実に耐えられなくて、母や、幸せそうな弟への八つ当たりをこらえるのに必死だった。
幸い、両親は同居については考えずに、好きなようにすればいいと言ってくれた。瑞生の仕事が転職を繰り返しながら出世していくもので、一ヶ所に留まれないことを知っているのもあるが。
だけれども、同棲となると話は別のよう。大分理解が進んだとは言っても――社会人としてはそこまで推奨されない行為だ。親世代にはだらしないと思う人間もまだ多い。特に田舎では。
ふたりとも一人暮らしならば、経済的時間的理由で同居に踏み込む事はあるだろうけれど、不幸なことに瑞生たちはどちらも実家暮らし。家を借りなければ同棲はできない。そして家を借りるくらいならば、将来を真剣に考えている二人は手順を確実に踏むべきである。
その辺の考えは瑞生以上に堅い彼女も同じであろうし、瑞生が手順を間違えれば、軽蔑の視線を受けることになるかもしれないと思った。
ただでさえ、褒められた出会いはしていない。結果から見れば略奪だ。
そのあたりについても、一度彼女の両親にきちんと説明する必要があると思っていた。変に他の人間から耳に入れるのが一番まずい。
変わり者の瑞生の親ならば、よくやったと喜びこそすれ、怒りはしないだろうが。
(あー……なんか情けね)
思いが通じる以前、瑞生はあえて彼女に嫌われるような言動を取った。一度振られているのだ。怖いものなどなかったし、とにかく無関心から一歩踏み出したかったからだ。
彼女に関わることを許されない地味な男が、どうすれば彼女の心に食い込めるのか。精一杯考えた結果の行動だった。
だが今は、彼女に嫌われるのは耐えられない。彼女を失うことが怖くてたらまない。
臆病な自分を彼女は笑うだろうか。不安がよぎったとたん、
「大丈夫だよ。わたしも就職活動頑張らないといけないから」
気丈に明るい声が返ってきて、瑞生はホッとしながらも、実物を腕に抱くことのできない物足りなさに密かにため息を吐く。すると、
「じゃあ、夜、なら……会える?」
いきなり来た変化球に、瑞生は思わずむせそうになった。
「あ、っていっても、泊まりはだめだけど! この間遅くなってから、ちょっと怪しまれてて」
大人なんだから、あんまり干渉しないでほしいんだけどね……と彼女は残念そうに、申し訳なさそうに漏らす。
「でも、ちょっとでも、顔見たいなって」
彼女が可愛らしくて愛おしい。たまらないと思った。
「……ごめん、」
「あ、無理ならいいの!」
「いや、……顔だけ見るのだけじゃちょっと収まりません」
正直に漏らすと、彼女はホッとしたように「無理、じゃなくてよかった」とつぶやいた後、瑞生の言葉を吟味したのか、少し照れたように黙り込んだ。だが、やがて、彼女はぽつりと言った。
「あの、ね」
「うん」
「もう、さっさと一緒に住んじゃえないかなって」
「うん……え?」
予想外の提案に瑞生は目を見開いた。
「あ、もちろん、お互いの両親にはちゃんと話をして、からだよ。だけど、真剣だって言えば、結婚式前でもわかってくれると思う。大人なんだし、きっと任せてくれる」
瑞生は手元のスケジュールを確認し、目をつぶる。今月のスケジュールはほとんど予定で埋め尽くされている。――けれど時間は作るものだ。
頭のなかで、予定を組み替える。月末の学会は動かせないが、他の予定で動かせるものは動かして隙間を作る。
「わかった」
すぐに答えると、彼女は「え?」と電話の向こうで固まる。
「もう来月まで待てないから、さっさと挨拶に行きます。お父さんとお母さんの予定聞いて教えてくれる?」
スーツをクリーニングに出して、靴を磨いて。
そして――指輪を買う。
買うものは、決めてある。加奈子が目に留めたのは一瞬だったけれど、ずっと彼女を見続けていた瑞生にはすぐにわかった。釘付けになった視線、輝いた瞳、緩んだ口元。ああ、好みなんだな、と。
だが、彼女はきっと好みを口にはしないだろう。瑞生の経済力に不安をいだいているというわけでもないのだろうけれど、慰謝料の件もあって遠慮するに決まっていた。無理なく買える、手頃な指輪を選ぶに決まっている。
(だとしたら、内緒で買うしかないよな。下手したら、こんなのいらないとか言われそうだけど)
想像して苦笑いを浮かべていると、「なんか、瑞生の行動って基本、《思い立ったが吉日》だよね」という声が響き、我に返る。
一人突っ走ってしまったことに気がついて、一度立ち止まる。
「だめ?」
「ううん。わたし、瑞生のそういうところ……かなり好きかもしれません」
そう言われて、瑞生は明日にでも挨拶に行きたい、心からそう思った。
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