後日談

1 結婚生活の予行演習

 今後のことについて、落ち着いて話し合いたいと言う上原くんを、わたしはアパートへ迎えた。

 帰りがけ、スーパーで一緒に買い物をした。そしてアパートの小さなキッチンで一緒に作った。結婚生活の予行演習みたいで、多幸感で死にそうになる。

 だが、夕食の片付けをしている最中、わたしははっと気がついた。

 わたしは東京に住んでいるし、上原くんは福岡に住んでいる。

 つまりは現状、遠距離恋愛なのだった。

 コーヒーを淹れて、ローテーブルに向かい合って座る。話し合いの口火を切ると同時に、


「……実家に戻るね、わたし」


 と告げる。わたしは無職だけれど、上原くんには仕事があるのだ。選択肢は一つだった。

 上原くんは潔いなと笑いながらも賛成してくれた。


「一人でここには置いてはいけないから、戻ってくれてるほうが安心」


 大家さんに退去報告をすると、必要な物と、今後も使えそうなものだけを実家に送ることにして、すぐに見積もりを取る。

 少ない荷物、閑散期だけあって、引越し業者はすぐに手配できた。

 だが、引っ越し以外にもわたしには東京でするべきことがたくさんあった。

 婚約指輪とか結婚とか浮かれていたけれど、まず最初に片付けるべきは、拓巳のことだ。そこを片付けずに、上原くんとのことを進めるわけにはいかなかった。

 だけど、慰謝料とか、はじめてのことばかり。相場も何もわからないし。弁護士に相談したほうがいいのかとか、考えることがたくさんでだんだん鬱々としてくる。

 途方に暮れていると、上原くんがそれはおれが一緒にやるから、ひとまず福岡には帰って考えようと提案した。


 上原くんはそのまま部屋を引き払うまでアパートにいてくれた。家財道具の処分や、大掃除まで、男手があるとこれだけ楽なのかと初めて実感する。

 拓己が本当に何もしなかったということを別の形で突きつけられて、苦笑いが出た。

 三日ほどの擬似新婚生活だったけれど、あまりにも楽しかったせいだろうか。

 夕方に福岡空港に降り立ったわたしは、これから離れ離れだと身に沁みて、泣きたくなる。上原くんと離れがたくて仕方がなかった。

 人目も気にせずベタベタするには歳を取り過ぎているのが悲しい。分別が邪魔だと心から思った。

 そのかすかないらだちが伝わってしまったのだろうか。


「おれの方はもう一泊しても、大丈夫だけど」


 上原くんが甘い誘惑を仕掛けてくるので、わたしは悩む。


「でも、お仕事」

「ん、まあそこそこ溜まってるけど、パソコンとネットワークさえあれば家でできる仕事だし」


 そういえば、上原くんが持参したノートパソコンを夜中に開いていたと思い出す。


「どんな研究をしてるの?」

「ん……っと加奈子さん、理科できる方?」


 上原くんが困ったような顔で尋ねる。

 わたしが一気に顔をひきつらせると、上原くんは苦笑いをした。


「計算化学。簡単に言うと、分子軌道をコンピューターで計算するっていう研究してる」


 簡単に言われてそれだと、もう聞く意味は無いとわたしは思った。


「ごめん、わたし元プログラマなんだけど、多分理解できないかも」


 引きつった顔のまま「こんど勉強しておくね……」と言うと、「真面目だなあ」と上原くんは笑った。




 地下鉄の博多駅でJRの鹿児島本線に乗り換えだ。

 上原くんってどこの駅だっけ? と問うと、わたしの実家の最寄り駅から五つ前の駅名を告げられる。高校にいた時にはなかった駅がいくつか新設されていたため、思ったよりも遠く感じた。

 門司港行きの快速がホームに滑り込む。


「加奈子さん、快速でいい?」


 頷きながら見ると、駅のホームは帰宅ラッシュで人があふれていた。

 田舎でもこの時間だけは東京並に混むのだと思い出す。

 ずらりと並んだ列は、ドアが開くと同時に空席を求めて車内へとなだれ込む。箱に詰め込まれる感覚に息苦しさを感じていると、上原くんがわたしを壁側に押し込み、自分がバリケードになってくれた。


「ありがとう」


 上原くんは少し上からわたしを見下ろしていた。

 至近距離に上原くんの顔があり、胸が跳ねる。見ていられなくて俯くと、上原くんの鎖骨が額に当たった。

 息がかすかに髪に触れる。正面から抱き合っているような錯覚を覚える。満員電車は嫌いなはずなのに、感謝したくなった。すると、人の波に紛れてさりげなく手を握られた。

 うわあ、こういうのって、なんか……若い感じ。

 二人になれる場所がなくて、でもどうしても触れ合いたくて。

 そんな空気をだだもらせている高校生を何度も見たことがあった。

 周りから、そんな風に見えていたらどうしようと思うと頬が熱くなる。ごまかすように世間話を振った。


「世間は平日だね……ちょっと休んだだけで、ここに戻れるか不安になるね」


 頭の上から控えめな声が降る。


「そういえば、加奈子さん、仕事はしばらく休んで、復帰する? それともダラダラする?」

「ダラダラって……ニート? だめでしょ」

「まー、今のおれはニートとそう変わらないんだけどね。実家住まい、不定期就労で、平日もブラブラしてる」


 わたしは苦笑いをする。その設定にまんまと騙されたと思う。しかも、フリーターって自分で言ってたし!


「上原くん――」と思わず口にして、睨まれ、言い直す。

「み、瑞生っていつ働いてたの」

「んー? だいたい夜から明け方。研究室に学生さんがいる時期だと普通に昼間も起きてるけど、昼夜逆転になりがちでね。だから、夏休みは加奈子さんのおかげですごく健康的に過ごしたかな」

「じゃあ、夜に仕事してたんだ? 寝不足だった?」

「まあ、そこそこ」


 でも最高の夏休みだったと囁かれ、わたしは顔を上げる。キスができそうな距離に、うっかり分別を無くしそうで慌ててうつむいた。


「あーでも、失業保険もらうからには求職活動しないといけないんだった」


 つぶやくと上原くんは真面目だなあと再び言った。


「んー……加奈子さんって、今までと同じ仕事したいわけ?」


 わたしは首を横に振った。プログラマというのは残業が当たり前の仕事だ。上流の工程で作業が押すと、しわ寄せが全てそこにくる上に、いくら理不尽な締切でも厳守。プログラムは嫌いではないけれど、女性が長く続けるのは難しいと思う。


「結婚して、子供を育ててとなると、やっぱり厳しいかな。わたし、できるだけ子供とは一緒にいてあげたいなって思ってるけど、あの職種ってどうしても育児休暇とか取りにくいんだよね。一年とか休めないし」

「そうだよなあ」


 上原くんが相槌を打ちつつ、突如くすりと笑った。


「なに?」

「いや、さらっと嬉しいことを言うなあって思って」

「嬉しいこと?」


 喧騒に紛れ、上原くんはわたしに耳打ちする。


「すごく自然に言ったけど、それっておれと結婚しておれの子供を産むってことだろ?」

「…………!」


 一人先走ってしまったわたしは一気に赤くなる。まだ空っぽの左手の薬指を見つめる。

 慌ただしくて、指輪は結局まだ買っていない。

 わたしより先に冷静になった上原くんが苦笑いをしながら言ったのだった。慌てて買うのはもったいないし、ついでに結婚指輪も選びたいし、と。

 彼だって、そんなふうに、結婚する未来を口にした。

 わたしたちにははっきりと幸せな未来が見えていた。

 上原くんの隣で笑っている自分が想像できるのだ。それが、嬉しすぎる。


「そうしたいなって、思ってるけど……えっと、子供とかもしかしてだめ?」


 そういう話は全くしなかったなと今になって思う。


「駄目なわけない。たくさん欲しい」

「もう若くないからたくさんは産めないと思う……ごめんね」


 というより、本当に授かることができるだろうかと不安になった。卵子の老化など、この頃よくニュースで取り上げられている。

 わたしの表情が曇ったのを上原くんは目ざとく見つける。


「同級生だから、そこんとこ、忘れないで欲しいんだけど? ――って……あぁ」


 上原くんは参ったと天井を仰ぐ。

 電車が駅に到着した。人がぐんと減り、満員電車は満員ではなくなっていく。自然だった抱擁は、不自然なものになる。上原くんはさり気なくわたしから離れたけれど、ひどく名残惜しそうだった。

 電車の中というのは、不思議と静かだと思う。暗黙のルールでもあるのか、世間話さえする人間がほとんどいない。

 人が減ったとたん、篭っていた会話が響き始める気がして、わたしたちは黙りこむ。もっと話していたいのに。もっと、手をつないでいたいのに。

 沈黙したまま、電車は走る。上原くんの降りる駅が近づき、わたしは泣きたくなった。

 二人きりになれる場所が欲しい。高校生に戻ったかのように切実に思ってしまって、わたしは戸惑った。

 帰りたくないな……。

 でも、お母さんに帰るって言っちゃったし。きっとごちそう作って待ってるし。

 電車が駅に滑りこむ。扉が開く。上原くんも苦しげに笑っている。


「じゃあ、加奈子さん。また電話するから――」


 苦しくてしょうがなくて、目を閉じる。プシュウ、という音に我に返ると、背中で扉がしまっていた。目の前には目を見開いた上原くんが立っていた。


「あ、ごめ――わたし」


 分別など捨て去った自分の行動にびっくりする。今までのわたしだったら、絶対やらない行動だった。


「ごめん、上原くん、や、ええと、瑞生、は帰っても大丈夫。わたし、次の電車に乗るし」


 だけど、上原くんは強引にわたしの手を握った。


「加奈子さん、可愛すぎて、やばい」


 上原くんがぼそっとつぶやき、スマホを取り出した。素早く検索をかけるけれど渋い顔だ。覗き込むとホテルの検索結果画面。

 郊外にあるホテルなど、目的をそれに絞ったものしかないし、しかも車で行けるところにしかない。


「博多に戻るしかなさそう」


 そう言うと彼は改札に背を向け、博多方面へのホームへと向かう。驚きと喜びで、胸がいっぱいになりながら、わたしは母へ少し遅くなるとメールを打った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る