19  夏の日差しが落とした影

 上原くんは、抜け殻のようになったわたしの手を引くと、ホテルの外に出る。ちくちく突き刺さっていた好奇の視線から開放されてようやく顔を上げると、空からは焼け付くような夏の日差しが降ってきた。


「さあて、どうしようか」


 さっぱりした様子でそう言う上原くんの手の上には、拓巳が放り捨てるようにしていった赤い箱があった。そして彼はわたしの指から指輪を抜き取ると、箱にしまった。


「慰謝料払うって言っちゃったか」

 

 我に返ったわたしは青くなる。勢いであんな風に言ったものの、預金はどのくらいあっただろうかと焦る。指輪代だけでもそう簡単に払えるような額ではないだろう。

 そして上原くんの「おれが払う」という発言だってきっとハッタリだろうと思った。

 だって定職についていない人がそんなにお金を持っているはずがない。少なくともわたしの常識の中ではそんな人は居なかった。


「ごめ、ん、わたし大きなこと言っちゃったけど、そう簡単にお金返せそうにない……。誤解もさせたままになっちゃったし、馬鹿だよね」


 眉を下げると、上原くんは笑ってまた言った。


「いいや、負けるが勝ちってこういうことかなって思った。さすが加奈子さん。でも、それおれが払うから」

「え、だめだよ。これはわたしの問題だから。きちんとしたい。なんとか……なんとかなると思うし」


 預金解約して、失業保険注ぎ込めばなんとか。

 通帳を思い浮かべ、目を泳がせると、上原くんは苦笑いをした。


「そんな難しく考えないでもいいんじゃないの」

「え、でもこれ軽く100万はするんじゃあ……」


 指輪を一緒に見に行ったことはないし、相場は知らないのだけれど、拓己がさっき給料の三ヶ月分だと言っていた。


「うん。だけどには残ってる。だからまず、この指輪は罪のない現金に替えてしまおう」


 上原くんはスマホを出すと質屋を探し始める。見つかるとすぐに移動を始める。

 売っちゃうの!? と決断の早さに焦っていると、歩きながら彼は言った。


「戻ってきた現金をあいつに返すとして。足りない分は、おれが払う」

「だから……それはだめ」


 意地でも譲らないつもりで首を振ると、上原くんは「加奈子さんを手に入れるための手数料だから、おれに払わせて」とこちらも譲らない。


「だから手数料って言っても、差額って一円や二円じゃないよ……?」


 だんだん頭がふらふらとしてきた。軽く言っているけれど、そんなお金、どこにあるのと訴えたくなる。フリーターと無職。未来は暗い。


「上原くん、その前に一緒に仕事探そう?」


 わたしが言うと上原くんは「だから……使う暇ないから、貯金はかなりあるんだって」と肩をすくめた。


「で、仕事も、いくつか応募してる。ただ、仕事柄どうしても転勤が結構多くなるけど……あ、加奈子さん、海外平気?」


 海外という言葉があまりに上原くんにそぐわなくてぎょっとする。


「え、転勤って、海外って……上原くんって――どんな仕事してるわけ?」


 日雇いのようなものを想像していたせいか、聞いてはいけない気がして、職種さえ聞かなかった。

 いまさらな質問に、上原くんはもうちょっと自由フリーで居たかったんだけど、とバッグの中から封筒を出した。


「ひとまず、大学と、国立の研究所の研究員アカポス狙ってる」


 パンフレットの一つにわたしはくぎ付けになる。


「理化学研究所……?」


 それ、前にニュースでよく聞いたような。ええと、なんていう細胞だっけ。


「おれ、今、ポスドクやってんの」

「ポスドクって?」

博士研究員ポストドクター。えっと、博士号持ってる、研究員」

「博士……はかせ!?」

「理学博士ね」

「だ、大学の、先生とか?」


 上原くんは曖昧に首を振るとそのままかしげる。


「まぁ、今も大学にいるけど、ポストに付くと学生さんの面倒みないといけないし、会議も出ないといけないし、委員会とか雑用も増えて研究進まないから、ふらふらしてたんだけど、さすがになー、歳も歳だし潮時っていうか。今の研究室は好きなことさせてもらえて気に入ってるけど、契約社員みたいなもんだから、科研費かけんひ次第でいつ契約切られるかわからないし。一人ならそれでよかったんだけどさ……」


 上原くんはそこで言葉を切ると、


「おれ、加奈子さんのためなら、ポスト、手に入れるよ」


 すごく大事なことを言われている気がしたけれど、言葉が一部理解できなくてわたしはうなずけなかった。


「ぽ、ポストって?」


 さすがに郵便ポストじゃないとは思うけど。


「あぁ」


 上原くんは右眉を上げると、言い直した。


「常勤の職のこと。ひとまずは助教、次に准教授。いずれ教授になれればいいなと、思ってます」


 いかがですか? とお伺いを立てる上原くんにわたしは目を丸くする。


「いかがって言われても」


 これは一体何の問答だろう。なんだかプロポーズみたいだけど、全然ロマンチックじゃないせいで戸惑う。というか、ここで頷けばまるで職につられているようで、頷けません!


「みさちゃんが言ってた、加奈子さんああ見えてがめついって。フリーターと結婚とか絶対考えない人だって」


 みさちゃん! なんてこと言うの!


「え、でも、それって上原くんが無理するってことだよね? 夢を諦めちゃう事にならない? ふ、フリーターでも、わたしが働くし……」


 上原くんと一緒になれればそれでいい。と反論しかけるけれど、上原くんはあっさり遮った。


「そういうわけのわからない無理は、おれにはしなくっていいって。フリーターと結婚とかおれでも冗談じゃないって思うし」


 わたしは撃沈する。結局無理のない程度に言い直す。


「定期的にお給料がいただければ、全然大丈夫です」

「ん」


 よくできましたとでも言いたげな、満足そうな上原くんは、じゃあ、行こうか。と手を差し伸ばす。


「どこに?」


 と尋ねると、彼は薬指を指差しながら「質屋は後回しで、ひとまずデパートかな」と言った。


「指輪、気にいるのがあればいいけど」


 この足で行くんだ? と思ったけれど、なんだか上原くんが珍しく急いているので彼のしたいようにさせてあげたくなる。というより、わたしが今すぐにでも欲しいと思った。彼のものになったという証を。


「気にいるよ、絶対」


 だって、上原くんに貰えれば、なんだって嬉しい。条件なんか付ける必要が無いとわたしは思う。

 手を握り返すと、彼はわたしと歩調を合わせて歩き出す。

 夏の日差しが落とした自分の影が、踊るようだ。





「あ――」


 新宿駅が大きく見え出した頃、上原くんが突如足を止める。


「っていうか、」

「なに?」

「加奈子さん、そんなに急いで結婚したい?」

「え」


 何をいまさらと目を見開くと、上原くんが少し慌てたように首を振る。


「いや、先走った気がしないでもないなって。付き合ってもないのにプロポーズしたから。順番が色々おかしい。花婿だけ入れ替えたようなもんだし、嫌だったらまずいなって」


 そういえばそうだとわたしは苦笑いをした。

 改めて言われて、自分で驚いた。まったく違和感なくそうなるものだと思い込んでいたのだ。

 もともと結婚したかったけれど、上原くんとなら、結婚は、今すぐにでもしたいと思った。

 浅はかすぎる? いいや、そんなことは絶対ないと思う。


「全部飛ばしちゃった気がしないでもないけど……歳も歳だし、前提でお付き合いする方が安心するかも」


 わたしがそう言うと、上原くんは「よかった」と安堵の息を漏らす。

 いつも余裕の上原くんにしてはなと思って、そう言うと、彼は参ったと空を仰ぐ。


「相手にしてもらうためにカッコつけてただけ。実際は余裕なんかなかったけどな」

「うそ」

「ほんと。あれだけ仕掛けておいておかしいだろうけど、少しでも気を抜くと、間違いそうで。狂いそうだった」


 だから、花火の日は、臨界点超えたっていうか。彼がそうつぶやき、わたしは記憶を触られて赤くなる。


「あれは、上原くんの方が卑怯だよ。そもそも花火に誘うのが悪いんだよ」


 一瞬で身体に火が燃え移ってしまったのだから。


「どうかな」


 彼は握っていた手を一度離すと、もう一度繋ぎ直す。指と指を絡められて、頭より先に身体が彼が欲しいと騒ぎ出す。

 喉の渇きを感じると同時に、手に汗が滲んだ。

 暑いのではなく熱い。そう思う。


 互いに無言のまま新宿駅へと向かう。駅前にはいくつもの商業ビルが立ち並び、どこに飛び込んでも指輪は買えそうだと思った。

 だけどわたしの頭のなかは指輪以外のことでいっぱいだ。

 歩く度に頬が染まる。手の汗はタオルで拭いたいくらい。恥ずかしくてたまらないけれど、上原くんは離そうとしなかった。

 しびれを切らしたのは上原くんが先だった。


「ごめん、やっぱりおれ、今、まともに選べそうにないかも。指輪」

「……」


 それはわたしもだと思う。手が触れ合ったからだろうか。たちの悪い焦燥感が湧き上がり、気がどうしても急いてしまう。前置きはさっさと済ませて、早く本題に入りたいような、そんな気分だった。

 婚約も結婚も、いわば儀式だ。だけど本質は違う。本質は――つまり……心と体が結ばれること。

 だけどそれを口にするのはあまりにもはしたない。

 だって、まだ、昼間だよ? しかも、さっき想いが通じ合ったばっかりで。

 何も言えずにいると、上原くんは焦れたように手に力を込めた。

 繋いだ手からすでに本音が伝わっている気がした。

 彼は大きく息を吐くと、ごめん、と断ってわたしの手を強くひいた。デパートは目の前なのに、彼が足を運んだのは駅前の一軒のホテルだ。

 高級ではないけれど、清潔感のあふれる綺麗なホテル。だけど、


「だめだよ」


 わたしは思わず上原くんを止める。


「あ、ごめん――おれ」


 あからさまに怯む彼を見て慌てたわたしは、すぐに誤解を解くことにする。腕時計を指差す。時刻は正午を過ぎたばかりだった。


「まだ、チェックインできる時間じゃない、はずだから……」


 普通のホテルだとチェックインの時間は14時くらいだ。

 ええと、とわたしは続けて言葉を探す。タイミングが問題であって、嫌がってないことが伝わったらいいと思った。けれど――それが彼に余計に火をつけてしまったらしい。


「それ、チェックインできるところなら、いいっていう意味?」


 専用の施設を想像し、もうそれでもいいかもと頭の片隅で思ったわたしの前で、彼はスマホを取り出すと《アーリーチェックイン》、《新宿》と検索窓に入力する。

 僅かに目を見張ると、上原くんは真面目な顔で頷く。


「大事にしたいから」


 飢えを訴えるように見つめられて、わたしは生唾を呑み込んだ。

 うん、と頷くべきか。迷ったのは一瞬だ。

 わたしの身体が勝手に頷いてしまったのだ。




 カーテンを閉めた人工の夜の部屋には、ひっそりと夕日が忍び込んでいた。オレンジ色のシーツの中で、わたしはひどく満たされた気分だった。


「加奈子さんの身体、加奈子さんと違って正直者」


 ぼそっと上原くんが言ってわたしは顔を夕焼けのように染めさせる。だけど、


「素直で、可愛くて、美味しい」


 続けて言われた言葉には全身が染まる勢いだった。

 彼はそんなわたしに満足したのか一つ笑って起き上がり、窓を見つめた。


「遅くなっちゃったな。指輪、買えるかな」

「今日じゃなくてもいいよ。高い買い物だし」

「……そうだな」


 だけど、と上原くんの声が急にかすれた。わたしは彼を見上げた。すると切なげな目がわたしを見下ろした。


「なんかさ、このまま離れたら、夢になりそうで、怖い。だから、証拠がほしい、んだと思う」


 前回、何も言わずに去ったことを思い出し、


「もう、黙っていなくなったりしないから」


 約束すると、彼は再びわたしを腕の中に閉じ込める。


「加奈子」

「うえ、は、」

「みず、き――」


 さきほど腕の中で何度も矯正させられた。けれど熱が冷めた状態で口にするのはどうしてこれほど気恥ずかしのだろう。

 呼び名というのは親密度を上げるアイテムだと思う。あまりにも関係が一気に深まりすぎて、バランスが取れない。でも、下手に急ブレーキをかけたら壊れそう。そんなことを考えて怖いと思う。

 だけど、


「あいしてます」


 照れながらも、まっすぐに上原くんが言ってくれるから。

 恐怖が、薄れる。

 怖がることはないと、信じさせてくれる。

 魔法の言葉のようだと思いながら、わたしも言った。


「あいしてます」


 額をくっつけて、深く息を吐く。そして、互いに見つめ合うと、笑顔で息を吸い込む。目の前にある幸せで胸を満たすために。



《完》

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