18 婚約破棄の理由
ホテルを探して新宿に戻る。だけど、結局は近くにあったネットカフェへと入った。
女性専用フロアという文字に誘われたのだ。そこなら拓巳も追ってこれない。安心感を求めていたのだ。
ネットカフェに入ったのは実ははじめて。思っていたよりもブースは広く、清潔で、化粧室にはアメニティまでそろっていた。
それでもまんじりともできないまま迎えた翌朝、薄暗いネットカフェのブースの中で、わたしは意を決して拓巳にメールを打った。
『昨日の新宿のスタバで待ってる』
だが、すぐに返ってきたメールはわたしの提案を拒絶した。
『ふざけんな。あんな人目のあるところで話なんかできねえよ。場所はこっちで指定する。そうじゃないと家の前でずっと張ってるからな』
家の前で張っているという言葉にやっぱりと思う。あのまま追いかけないわけがないのだ。戻らなくてよかったと心底思う。
それにしても、これは拓巳の本性なのだろうか。
もしあのときに仕事がダメにならなければ、実家に帰らなければ、結婚していたことを思うと血の気が引く。あの時失業して良かったのかもしれないとまで思えた。
指定された場所を見て、心底肝が冷える。下手したら乱暴されるかもしれない。
怖かった。
だけど、ここで逃げたら、わたしはいつまでも逃げ続けなければならないのだろう。
ぎりぎりと締め付けられる胸に手を当て、落ち着こうと深呼吸をする。そして、トイレで化粧を直し、口紅を引き直すと、ネットカフェを飛び出した。
指定されたのは新宿のホテルだった。ロビーは平日の昼間だけあって、人はまばら。打ち合わせをしているビジネスマンがいるだけで、落ち着いた雰囲気だった。
そんな中、ソファに深く腰掛け、足を投げ出している拓巳だけが上品な空間で妙に浮いていた。
部屋に連れ込まれてもおかしくない。警戒していたので、ロビーでくつろいでいる拓巳を見て少しホッとする。
だけど――拓巳の血走った目と目が合うなり、わたしは足が震え出すのがわかった。
家の前で張っているという言葉通り、本当に自宅には帰っていないのだろう。
スーツは縒れているし、ネクタイも曲がっている。いつも磨かれている時計も曇っている。
誰もが認めるイケメンのはずなのに全くそう見えず、いつも彼が背負っている華やいだ空気は全く感じられなかった。
代わりに感じるのは尖った、それでいてねっとりとまとわりつくような空気。蜘蛛の糸のような罠を張られているような気分がして、わたしは思わず後ずさる。
「なあ、説明して」
静かに言うと、拓巳は目の前のソファを指差す。そのままむっつりと黙りこんだ拓巳に、わたしは立ったまま告げた。
「昨日言ったとおり。ごめんなさい。好きな人がいる。だからどうしてもあなたと一緒にはなれないと思ったの」
拓巳は大きくため息を吐いた。そして苛立たしげに髪をかきむしる。
「何が不満? おれ、できる範囲で直すつもり」
好きな人がいるという言葉は聞こえなかったかのよう。いつものように、自分に都合が悪いことは無視するのだろうか。
わたしはそういうところがだめだと言ってしまいたかった。
できる範囲で――拓己の無理のない範囲で直せたら、わたしが戻ってくるとでも思っている?
わたしはなんだか笑いたくなる。
今までのことを考えると、拓巳が許容する範囲なんてたかが知れているのだ。
残りの範囲はわたしの領域。わたしはその領域を減らしていいことを上原くんに教えられてしまった。だからこそ、もうその広い領域を背負いきれないのだ。
わたしが言葉を選んでいると、せっかちな拓巳は待ちきれないように言葉を重ねた。
「あのさ。結婚ってさ、全部理想通りに行かないものなわけ。妥協も必要なんだよ」
わたしは悲しくなる。つまり、拓巳は、妥協してわたしに決めたと言っているのだろうか。愛などなかったと告白しているのだろうか。
彼の優しさを愛だと信じていたわたしは、どれだけ見る目がなかったのだろう。
自己嫌悪と虚しさを飲み込んで、わたしは拓巳に向き合う。
「わかってる。だけど、わたしにはやっぱり無理なの。あなたと歩く未来が全く想像できなくなった」
再三頭を下げた時だった。お腹に響く低い声がロビーに響き渡った。
「加奈子。おまえさあ、おれに恥かかせる気なの?」
このおれに。とでも付け加えたそうな様子だった。
わたしはビクリと体を震わせる。これからが本番だと直感したのだ。
きっと今までの穏やかな態度は、わたしの気を変えさせるための飴だったのだろう。
「は、じ?」
「一生に一度のプロポーズだぞ? 全部ぶち壊しだし、おれ、もう親にも紹介するって言ったし、同僚にも、友達にも、結婚式の日は空けておけって言ったんだよ。どうしてくれるんだよ」
「…………ごめん、なさい」
「指輪だって相当高かった。断るつもりなら、先に言えって。だったらあんなブランド物、絶対買わなかったし。レストランも、ホテルもいくらかかったと思ってる? 全額返せよ?」
拓巳の主張したいことがすぐには理解できずに、わたしは呆然とする。
ウエイトレスがコーヒーを運んでくる。拓巳が人目を気にして黙ると少しだけ頭が働き出した。
わたしだって、もちろん拓巳のご両親には申し訳ないと思っている。全身全霊で謝らなければいけないと思っている。
だけど、どこか腑に落ちない。
だって、拓巳が怒っているのは、彼らが悲しんでいるからではなく――自分がプロポーズを断られて恥をかいたからなのだ。
そして、高級なブランド物の指輪を選んだのだって、受け取ったわたしが喜ぶからではなく、最高のプロポーズを演出したという自分に酔いたいから。
それが失敗したのがわたしのせいだから――返せと、プロポーズをまるごと弁償しろと、言うのだ。
理解して、拓巳という男の薄っぺらさに、小ささに。そして彼に恋をしていたわたしに、だんだん吐き気がしてきた。
「どうしても別れるって言うんならさ。こっちから断らせてくれない? おまえのせいで結婚がダメになったんなら、おれの顔もまだ立つだろ?」
わたしのせいで、というフレーズにビクリとする。それは紛れも無い事実であり、すべての非はわたしにあるから。
「おれ、おまえに騙されたって言うからさ」
あることないことを吹聴されても仕方がないと思う。だけど、共通の友人達の顔を思い浮かべると、涙が出そうになった。
きっとわたしは彼らの中では悪女になり、軽蔑の眼差しを一生向けられるのだ。
それでも、わたしには手に取りたいものがある――と顔を上げた時だった。
拓巳がわたしを通り越して、後ろを見ていた。
背中に覚えのある気配を感じて、まさか、とわたしは思う。
振り向くと、そこには目に怒りを湛えた上原くんが立っていたのだった。
***
「あんたさ、結局、自分が一番大事なだけなんだな」
上原くんが蔑みを浮かべた目で拓巳を見ていた。
「上原、くん? どうして、ここ……」
居場所なんか言わなかったのに。わたしが呆然と見つめると、上原くんは「こいつのこと、アパートからつけてきた」とからくりを口にする。
拓巳がムッとした様子で立ち上がって、わたしと上原くんの間に立つ。
「加奈子、もしかして、こいつか? 好きな奴がいるとか言ってたけど……こんなやつ? 冗談だろ」
立ち上がると、拓巳のほうが背が高い。
そして拓巳はブランド物の質の良さそうなダークスーツを着ていて、上原くんは学生と間違えそうな、カジュアルなボタンダウンシャツにジーンズ、そしてスニーカー。
ルックス、それから財産なども含めて、どう考えても拓巳がランクが上だと、彼を知らない人はそう思うだろうと思った。少し前のわたしも、きっとそう思っただろう。
拓巳は口元を歪め、上原くんを舐めるように観察すると、勝ち誇ったようにわたしを見る。
「なるほどな。加奈子って、押しに弱いからな。こういう恋愛に縁のなさそうな男に必死で言い寄られて、勘違いしたってわけか」
そして拓巳は上原くんを見て鼻で笑う。
「あんたさ、遊ばれたんだよ。どれだけこいつに貢いだ? 加奈子にはおれっていう本命がちゃんといるから、諦めろよ?」
あまりにも下品で失礼な発言にカッとなったわたしは反論しようとする。だが、それを目で制して上原くんは拓巳を睨み上げる。
「あんた、加奈子さんのこと、ほんとにわかってないんだな」
「はあ? おまえ何様だよ」
「彼女が男と遊ぶわけないって、そんなこともわからない? そんな奴に、彼女を手に入れる資格なんかないと思うけど」
真っ直ぐな目をした上原くんはきっぱり言い切ると、
「あんたには、彼女は渡さない」
と宣言した。拓巳は上原くんの視線に怯む。
「渡さないも何も、加奈子はおれのものだって。おれたち婚約してるわけ。わかる?」
拓巳は指輪をわたしの指に強引にはめる。そして、わたしの手を掴んで強引にロビーを出ようとする。
向かうのはエレベーターホールだ。部屋に連れ込むつもりだと気づいたわたしは、手を振り払おうとする。だけど食い込むくらいに強く握られていて逃れられない。
「あんたさ、加奈子さんとほんとに結婚する気? さっきの話聞いてたら、とてもそうは思えないんだけど」
上原くんが追いすがりながら尋ねると、拓巳は後ろも見ずに肩をすくめた。
「さあな。だけど加奈子はプロポーズを一旦受けたんだ。契約を破棄するんなら、それなりに誠意を見せてくれって話。ほら、慰謝料とか、さ?」
上原くんは心底呆れた様子で問いかけた。
「指輪代のことか? じゃあ、おれがそれ買い取るし」
だが拓巳は鼻で笑って返す。
「あんたには無理だろ。給料の三ヶ月分って聞いたことない?」
「無理じゃない。定職にはついてないけど、金はある」
「フリーターが何をいきがってるってわけ? あんた、加奈子を養えるのか?」
「養える。苦労なんか、これっぽっちもさせるつもりない」
上原くんがきっぱり断言し、拓巳は予想外だったのか口ごもる。しばらく他の攻撃を考えていたみたいだけれど、やがて面倒くさそうに押し黙る。
エレベーターが音を立て、ちょうど到着する。中に乗っていた人がわらわらと降りては散っていく。
「待てよ」
「うるさいな。部外者は黙ってろよ。――加奈子、部屋に行くぞ」
拓巳がわたしの腰に手を回し、エレベーターに乗り込もうとする。
触れらるのが嫌だった。これ以上は我慢できなかった。わたしは反射的に叫んでいた。
「いや。わたし、もう上原くん以外とは、そういうことできない……!」
拓巳の足が一瞬遅れてエレベーターの手前で止まる。ドアが閉まり、乗りそこねた箱が静かに上階へと登り始めたところで、拓巳は振り返り、「は?」と聞き返した。
「こいつ以外とって――? どういう意味だ?」
上原くんは驚いた顔で固まっていた。わたしは小さく頷く。
「加奈子、冗談だろ? 本気でこんなやつにやらせたわけ?」
ああそうか、今のは浮気を告白してしまったのと同じなのかと気がつく。
多分、ちがう、と言うべきだった。だけど、どこまでが浮気なのかだろうと考えたせいで、返答が遅れる。それを拓己は是という答えにとってしまったようだった。
「――この尻軽」
拓巳の目が釣り上がって行く。腕が振り上がる。頬を張られる覚悟で目をつぶった。だが、それはやってこない。目を開けると、拓巳の胸ぐらを上原くんが掴みあげていた。
「黙れ。彼女を侮辱するな。おれが、一方的にしたことだ。嫌がる彼女に無理強いした」
上原くんが一人でわたしの罪を背負おうとしている。大きくなった罪を否定もせずに。
あぁ、この人は、どれだけ大きな罪だとしても、わたしを守ってくれるつもりなんだ。
それがわかって、これ以上ないくらいに揺さぶられる。
「加奈子、ほんとか? ああ、だから、責任感じて別れたいとか言ってるわけ?」
拓巳はあからさまにホッとしている。わたしが無理強いされた方が良かったような顔に、この人はダメだと改めて思う。
彼は、わたしが傷ついたことよりも、自分が馬鹿にされた事のほうが、よっぽど許せない人なのだ。
それを感じ取ったのか、上原くんの雰囲気が一気に尖った。
わたしを守ろうとしてくれている上原くんの気持ちは嬉しかった。だけど、わたしは反射的に首を横に振った。
「ちがう」
「加奈子さん、だめだ」
こうなったのも、わたしが今まで流されて生きてきたせいだ。上原くんに背負わせられない。
「――わたし、自分から望んだの。この人が欲しいって、生まれて初めて、心から望んだの」
口にしたとたん、最初から包み隠さずにそう言えばよかったと思った。
拓巳がひどいから。彼にも原因の一端があると、どこか責任逃れをしようとしていた。
すべてを贖う覚悟がないから、いつまでもこじれる。それじゃあ、今までのわたしと何も変わらない。
変わりたい。心から願う。
「だから――別れてください。慰謝料だって払う。あなたの家族にも、お友達にも直接謝る。どんなことをしても償うから、だから――」
わたしはその場にうずくまると頭を下げる。ホテルの人が「お客様、困ります」と駆けつけてくる。構わずわたしは床に頭をつける勢いで謝罪を繰り返した。
上原くんが、「加奈子さん、やめろ」とわたしを抱き上げる。遠巻きに人垣ができているけれど、わたしは構わずに「別れてください」と繰り返す。
そして。
「あーあ……おまえ、こんなめんどくさい女だったっけ……」
注目を浴びるのを嫌った拓巳はそうぼやくと、とうとう、その場から逃げ出した。
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