17 義妹による口頭試問

 一人娘の携帯番号だ。簡単に教えてもらえるとは思わなかった。だが親戚となったのだから、少しだけ期待したのだが。たとえ、それが親戚だとしても、面識があまりない男であれば話は別だということだろう。

 振り込め詐欺も横行しているし、徹底していることは良いことだが、自分の両親ならばあっさり漏らしてしまうところなので瑞生は残念に思った。


 東京に行く予定があるので連絡を取りたいと言う瑞生に対し、加奈子の母は、


「ごめんねえ、さすがに、加奈子に聞かんで勝手に電話番号教えたらあの子怒るけんねえ」


 その一点張りだ。情報をもらうには瑞生本人の信用が全く足りない。それは自覚していた。

 仕方ない。と諦めかけた瑞生は、悪い印象を植え付ける前にとおとなしく引き下がる。出直すべきだと思ったのだ。

 だが、がっかりした空気を読み取ったのだろうか。加奈子の母は少し気の毒そうに言った。


「あ、みさちゃんにメールアドレス教えてもらえばいいんやないね。知っとるはずやけん。ごめんね、わたしは老眼で細かい字読めんのよ」


 電話はだめでメルアドはいいのかと頭のなかでツッコミを入れつつも


「あ、じゃあ、そうさせてもらいます」


 電話を切った瑞生は、ふと今の会話に違和を感じた。


(……ん? あれ――ってことは)


 すぐに別の番号をタップする。相手は、すぐに出た。


「あれ、お義兄さん? ど、どうしたんですかー?」


 どこかぎこちない返答は、すでに連絡内容を察しているかのようだった。だから、瑞生は開口一番、言った。


「加奈子さんの番号、教えてくれないか? 加奈子さんちに電話したけど、アドレス変わったとは言っていなかった。親に言わないわけがないし、番号、本当は変わってないんだろ?」


 電話の相手――義妹の美砂は、しばし沈黙したあと、低い声で問う。


『……お義兄さん、さあ。加奈子ちゃん、幸せにできるの?』


 これは口頭試問が始まったと瑞生は思った。彼女は、大事な従姉妹の幸せを願っている。だとしたら、一問だって間違えられないと瑞生は腹に力を入れた。


「幸せにしたい、と思ってる」

『いつからなんですか?』

「高校の時から、ずっとそう思ってた」

『でも今頃になって? もっと早くに言ってたらよかったのに』

「言ったけど振られた。けど諦めきれなかった」


 いい大人が素面でこんな暴露話をしていると考えると、だんだん耳が熱くなってくる。だが堪える。大事なものを見失うわけにはいかなかった。

 今のは正解か。不正解か。沈黙がひどく重かった。

 ふうん、そうだったんだと美砂が相槌を打ち、すぐに次の設問を飛ばす。


『わかりました。でも、それじゃあ、お仕事、どうするんですかぁ? あのですね、加奈子ちゃん、のんびりふんわりして見えますけど、あれでいてものすごく考えちゃう人なんで。たとえお金があってもですね、今のお義兄さんみたいな不安定な職業の男の人、アウトだと思います』


 瑞生は口頭試問が打ち切られずに済んだことにほっとしつつも、きっぱりと言われて苦笑いする。さすが従姉妹。思考パターンが似ているから理解しやすいのだろう。

 加奈子はフリーターと口にする時、気まずそうな顔をする。蔑むのでもなく、単に心配そうに様子をうかがうのだ。

 自分は無職のくせに。自分のことよりも人のことを心配するのは昔からだった。


 高校で図書委員をしていた時もそうだった。サボった委員のせいで瑞生が一人で作業をしていたら、彼女は当番でもないのにあっさり手伝い始めたのだ。ごく普通に、サボった委員を責めるわけでもなく、恩を売るわけでもなく。大変だねえと笑って黙々と手を動かした。

 きっかけはただそれだけのこと。彼女も覚えていないような些細なこと。

 だけど瑞生にはそれで十分だった。いびつに歪みかけた輪を、元の円に戻す柔らかさを感じた。瑞生はその心地よさに呑み込まれたのだ。


「諦めて定職につくよ。ま、歳も歳だし、潮時だと思う」


 とうとう就職か――とため息を吐く。今まで持てる時間の全てを自分のしたいことだけに注ぎ込んでこれたが、これからはそうも行かなくなるだろう。だが、多少の窮屈さも、彼女が手に入るのならば、お釣りが来るくらいだと思うのだ。


『……わかりました。口止めされてたんですけど、加奈子ちゃん、瑞生さんには知らせないでとしか言わなかったんです。裏を返せば、瑞生さんに迷惑をかけたくないってことだと思うんです。加奈子ちゃん、昔から大事な人には、絶対弱み見せたがらないから』


 わたしにも全然話してくれないし――、と美砂はそこで鼻声になった。


「加奈子ちゃん、一人で抱え込んで、今、すごく困ってると思うんで……助けてあげてください」


 その後、美砂は加奈子の抱える事情を口にした。すべてを聴き終わった時、瑞生は着の身着のままで空港へと走っていたのだった。



 ***



 足音が追ってくる。わたしは怖くて仕方がなくて、JR新宿駅の改札口に飛び込むと、行き先も構わず、すぐに出発する電車を選んで駆け込み乗車をした。

 後ろを振り向くのが怖いけれど、もし、同じ電車に乗っている方がもっと怖い。

 わたしは勇気を振り絞って外を見る。すると血相を変え、眉間にひどいしわを寄せた拓巳が、ドアの向こうで何かを叫んでいるところだった。

 自分が振られようとしていることをようやく実感した、そんな様子だった。

 わたしは空いていた席に座ると大きくため息を吐く。隣の人が汗だくのわたしを不審がっているのがわかって、気まずさから目を閉じる。

 乗り込んだ電車は中央線だった。幸い方角は同じだから、途中で乗り換えて家に帰ろう。そう思った瞬間、わたしは青ざめた。


 え、でも、拓巳はわたしのアパート知ってる……!


 このまま家に帰ったとして、追いかけてこられた場合は逃げ場がない。というより、先回りされている可能性さえある。

 思いついた考えに震えが走る。青くなるわたしを隣の人が怪訝そうにうかがっているのがわかった。

 電車が停車する。わたしは恐ろしさから、次の駅で電車を降りる。

 駅のホームに居るのさえも怖くて、階段を駆け下りると改札を出て夜の街へと逃げ出した。



 ***



 ひと駅で乗っただけなのに、街の雰囲気が大分変わっている。駅を出てもロータリーなどがなく、道は車が通れないほどに狭かった。ここはどこだろうと駅舎を振り返る。見ると大久保駅だった。

 東京に来て長いけれど、はじめて降りる駅だった。戸惑いつつ細い道を歩く。

 飲み屋が立ち並ぶ街は、少しだけ福岡を思い出させる。

 けれど、人の多さが全く違う。じろじろと見られるのが嫌でうつむいて早歩きをした。スマホを取り出すと着信履歴が五件。すべて拓巳だった。

 怖くてたまらないけれど、とにかく広い道に出たくてわたしは地図アプリを立ち上げる。


「お姉さん、暇?」


 酔っぱらいの男の集団が声をかけてくる。助けて、と叫びだしたい気分で「いいえ」と首を振った。

 道を塞がれては敵わないと、わたしはなりふり構わず走りだす。

 地図を見ると、どうやら南口から出てしまったようだ。北口のほうは賑やかな大通りに面しているというのに。

 泣きたくなりながらも必死で走る。本当は駅に戻ればいいのかもしれないけれど、拓巳が追ってきている気がして、近づけない。すぐにでも駅から離れたい一心でわたしは逆方向へと走った。


 なんとか集団を撒いたわたしは、すでに汗だくだった。

 いい歳の女が息を荒げ、汗びっしょりでいるのは、さすがに目立つのか、不審そうな視線が突き刺さるのがわかる。わたしはとにかく一息つきたいのと隠れる場所がほしいので、入れそうな店を探した。

 最初に目に入った喫茶店にふらふらと入店すると、案内された椅子に沈み込んだ。

 震え続けていたスマホは、今はだんまりを決め込んでいる。電源を途中で切ったからだ。


 注文したコーヒーが運ばれてくる。震えながらそれを飲み干す。全く味がしない。ホットコーヒーなのに、体が全く温まらない。

 しばらく目をつぶる。自分で自分の手を握る。上原くんの温かさを思い出したかった。眼裏に浮かび上がるのは彼の顔。彼の面影に戦う力をもらいたかった。

 逃げてても、何も変わらないよね。

 わたしは大きく深呼吸をすると、震える手でスマホの電源を入れる。

 そして目を見開いた。

 拓巳と戦うために立ち上げたスマホの画面には、


『上原です。加奈子さん、今、どこにいる?』


 というメール通知が届いていたのだ。

 どうやってアドレスを知ったのだろうと考える。

 ルートは二つ。親が男性に簡単に番号を明かすわけがないし、みさちゃんには口止めした。となると、どちらかを説得したということになる。

 どちらも、信用を勝ち取るのは並大抵のことではないように思えた。

 それをやってのけたという意味を考えると、胸がぎゅっとなった。逸る心が通知をタップさせる。

 一人で戦うんでしょう! ともうひとりの自分が叫ぶけれど、心身ともに弱り切ったわたしは、すがらずにいられなかった。


『おれ、東京に出てきてる。みさちゃんに全部聞いた。すぐに会いたい。どこにでも行くから』


 読んだとたんに、一気に力がみなぎってくるのがわかった。返事をしようとしかけて、手を止める。

 だめだ。わたし、まだ、拓巳と別れられてない。上原くんに迷惑をかけてしまう。

 上原くんとは、まっさらな状態から始めたいと思って東京に戻ってきたというのに。

 ここで頼る訳にはいかない。やっぱり、一人で戦うしかない。たとえどんな犠牲を払っても。


『ごめんね、わたし、今は上原くんに会えない。全部終わったら、わたしから会いに行くから』


 それだけ返して、わたしは椅子から立ち上がる。

 すると、スマホが今度は着信を訴えた。

 出てはいけないとわたしは拒否をタップする。だけど、いくら拒絶しても上原くんは何度でも電話をかけてくる。

 諦めないと言われているようで、心が震える。涙を呑み込みながらわたしは必死で堪えた。



 ***




 義妹に教えてもらった住所を頼りに、瑞生は加奈子のアパートへ向かっていた。

 仕事で東京に出てくることはあるが、こういった住宅街には全く縁がない。

 敷地内にびっしりと建てられた家屋を見ていると、息苦しさを感じた。

 電車の中でも、少し動けば隣の人間と普通に触れ合ってしまう。

 人を人と思わないようにしないと、ストレス過多で生きていけないだろう。長くいると感覚が麻痺するのも当然だ。

 結婚式で見た、五感が随分鈍ってしまっていた加奈子を思い出すと胸が痛んだ。

 何を食べても飲んでも同じ顔。何を見ても、何を聞いても、作り物のようなきれいな笑顔を崩さない加奈子。その顔しかできないのかと思うと、どうにかせねばと焦った。そんな瑞生が考えたのが、彼女を怒らせることだった。


 アパートは古く、そして狭かった。ドアの横についていたチャイムを鳴らしてみるけれど、反応はない。

 裏手に回ってみると小さな川が流れている。川というより、用水路かと思うようなコンクリートで固められた水の流れだった。

 遊歩道からアパートを見上げるが、該当する部屋には明かりがついていない。時計を見ると二十一時だった。

 彼女はまだ職についていないはず。こんな時間に帰っていないというのは――。不安が胸を蝕んだ。

 メールの『今は』『わたしから会いに行く』という言葉の意味するところがわからないほど鈍くはないつもりだった。

 彼女は、瑞生に頼らず、一人で現状を何とかするつもりなのだ。

 そして、身軽になってから、瑞生のところにやってくる――来てくれる。それはもう確信だった。

 喜びが弾けそうになる一方で、瑞生は彼女のその強さが怖いと思った。

 相手の男が逆上しないわけがない。もしその男の立場だったら――無理矢理にでも自分のもとに縫い止めようとするだろうと思えた。そういう男の執着をきっと彼女はわかっていない。

 スマホを取り出すと通話をタップする。これで何度目だろう。呼び出し音を一回、二回と数える度に焦燥が胸を焼いていく。

 呼び出し音はやがて留守電に切り替わる。直接話したい。そう願いながらも瑞生は彼女に語りかけた。


「加奈子さん。絶対に無茶はしないで欲しい。頼ってほしい。もし加奈子さんに何かあったら――」


 とその時、

 どんどんどん、とどこかで扉がけたたましい音で鳴るのが聞こえた。

 柵にもたれかかっていた瑞生は、身を起こすと足早にアパートの反対側へと回りこんだ。


「加奈子! 加奈子いるんだろう!? 出てこい。理由を説明しろよ!」


 外灯の下、青白い顔をした長身の男が、加奈子の部屋のドアを叩いている。ブランド物のスーツを着たイケメンだ。腕にはめられた時計が時折光を反射している。


(まさか、こいつが?)


 頭に血が上りかける。拳に力が入る。

 だが、よくよく考えると、殴られるのは自分のほうだと瑞生は思う。今の彼は間男でしかないのだ。

 黙って殴られて、それで済むのなら――そんな考えがよぎるが、迂闊に行動して取り返しのつかないことになってはいけないと思う。

 瑞生は歯を食いしばり、必死で自分を落ち着かせる。

 加奈子は、どうやらこの男との関係を精算しようとしている。だというのに、先に瑞生という存在が明るみに出れば、浮気をした彼女が一方的に悪者になってしまう。

 男は既に逆上しているようだし、火に油を注ぐようなものだと思った。


 悪いのは瑞生だ。頑なに拒む彼女を罠にかけたのは瑞生なのだ。

 彼女を傷つけずに、彼女を救いたいと瑞生は願う。

 そのためにはどうすればいいのか。

 瑞生はドアを叩き続ける男の背中を睨みながら必死で考えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る