16 恋愛する男、結婚する男

 待ち合わせの七時から五分ほど待ったところで、拓巳が現れた。


(うっそ、めっちゃイケメン)


 ひそひそと、しかし華やいだ声が店内に充満する。

 そういえば、この人はイケメンだったのだと急に思い出す。羨望の眼差しが誇らしかったことも同時に思い出し、わたしは拓巳を中心に広がるこのが好きだったのだなと納得していた。

 アクセサリーのように男を選んで、身につけていたのだ。そして彼も同じくわたしを身を飾るブランド品と同じように見ていた。

 そういう意味では似た者同士でお似合いだったのだ――上原くんに出会う前は。

 テーブルの下でわたしはの左手を握りしめる。

 今のわたしは彼の身に付けるブランド品のスーツも、シワのないシャツも、磨かれた靴も、さりげなく、しかししっかりと輝く時計も。まったく心に響かない。

 そんなもの、幸せには結びつかないのだと知ってしまった。

 拓巳は全く変わっていないのだろう。だけど、わたしは生まれ変わったのかもしれないと思えるほどに変貌してしまっていた。

 彼はわたしの服を見て不満気に目を細めた。

 言いたいことはわかる。わたしの今日の服装は、白いノースリーブのブラウスとジーンズ。拓巳の格好とは全く釣り合わない。

 しかもカジュアルな格好なのでドレスコードのあるレストランには入れない。

 もしかしたらどこか予約をしていたのかもしれないとよぎるが、それなら最初からそう言うはずだと思って頭を切り替えた。

 拓巳はこの間の口論が響いているのか、服装には特に言及はしなかった。

 だが時計を見ると急かすように言った。


「で、話って?」


 時間の流れの違いをまじまじと感じた。コーヒーの注文もしていないというのに、どれだけわたしにかける時間が惜しいのだろうと思えてなんだか泣けてくる。

 わたしはバッグのクラッチを開くと、中からビロードのケースを取り出した。


「これ、やっぱり受け取れない」

「は?」


 拓巳は言われたことの意味がわからなかったようだった。


「え、なに? デザイン気に入らなかった? でもここのリングが好きって言ってたろ?」


 あまりにも脳天気な質問にわたしは小さく嘆息する。腹に力を入れるとしっかりと理解できるように言い直すことにした。


「え、なんで? 意味分かんないんだけど」


 拓巳が声を荒げる。周りの人が「何? え、修羅場? うそ」とひそひそと話し始める。

 それが気に食わなかったらしく拓巳は立ち上がると「場所変えるぞ」とわたしの手首を掴んで引っ張る。

 痛いくらいの力に、わたしは肝が冷えた。これはきっとただではすまない――そんな予感がしたのだった。




 拓巳が話をするために選んだのは、駅から少し離れたところにある高級ホテル。プロポーズされた日に連れて来てもらった東京でも屈指の有名ホテルだ。

 だけど、わたしは頑として拒む。エントランスで立ち止まったわたしに彼は苛立ったように髪をかき混ぜた。

 整髪料で整えられた髪が乱れる。彼は血走った目でわたしの手をつかむ。だが、人目が気になったのか、強引な行動に移せずにいるようだった。

 彼はやがて諦めたようにホテルの敷地を出ると、別の場所を探した。だが、東京の屋外に人目のない場所など存在しない。結局近くにある公園に落ち着いた。

 人のいない場所を選び、小さなベンチに腰掛けると、彼は剣呑な目でわたしを睨みあげた。


「説明してくれる?」


 外灯の光が彼の右だけを照らす。濃い影が不穏さを助長していた。

 怖い、そう思った。だけど、ここまで来たら引き返せない。はっきり言わないと、と震える声で必死で言う。


「わたし、好きな人ができました」

「は?」


 本気で意味がわからないといった顔だった。今まで振られたことなど一度もないのだろう。高身長高学歴高収入、それに加えてこのルックスだ。当然だと思った。


「は、だれそれ。え、おれよりそいつがいいって言う意味?」


 半笑いの拓巳にわたしは頷く。それでも彼は信じられないようだった。


「何が不満なわけ?」

「不満とかじゃないの。多分、相性だと思う」

「そいつ、仕事、何やってるやつ? 俺より年収高いとか?」

「…………」


 わたしは言葉に詰まる。恋に曇っていた未来に石を投げつけられたような気分だった。


「おまえを幸せにできるやつなわけ? おれよりも?」

「…………」


 幸せってなんだろうと、わたしはいまさらながら考えて言葉を失った。

 上原くんのことを思う。わたしは彼のことが好きだけれど、好きだけじゃどうにもならないことがある。

 だって彼はフリーターだ。わたしはきっと生きていくためにあくせく働かなければならないし、先の見えない生活に不安をつのらせていくだろう。

 不安定な生活はいつしか心を荒ませ、恋を終わらせるかもしれない。


 一方、拓巳と結婚すれば、きっと経済的には何不自由なく暮らすことができる。都心のおしゃれなマンションで、子供を産んで育てることだってできるだろう。

 きっと、誰もが羨むような素敵な夫と可愛い子供に囲まれた華やかな生活だ。

 だけど、その傍で――わたしは過去の恋を思い返して悔やむのだ。

 恋愛する男と結婚する男。それはもしかしたら別なのかもしれない。

 そんな考えが頭をよぎる。

 二つの未来に怯んだわたしの肩を拓巳は抱く。


「加奈子。おまえ、きっと求職活動で疲れてるんだよ――おれ、さ、いろいろ調べてみたんだ」


 拓巳は柔らかい声音で言うと、バッグから茶封筒を出す。


「お前に合いそうな仕事。ここじゃあ暗いから読めないし、ほら――行こう」


 彼がわたしを押し出したのは、さっき入ろうとしたホテルの方向だった。


「部屋とってあるんだ。ルームサービス取ってゆっくりしようと思ってた」


 耳元で甘く囁かれるが、ぞっとした。

 そして、ぞっとしたことが、決定的だった。

 拓巳に触れられたくなかった。無理だった。身体が全力で拒絶したとたん、思い描いていた片方の未来にひびが入った。


「ごめん、わたし――今日は帰る。またゆっくり話するから」

「おい――加奈子!」


 生暖かい空気と同時にまとわりついてくる拓巳の声を振り切る。わたしは鳥肌を隠すように自分を抱きしめると、そのまま駅に向かって駆け出した。




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